幕間
「離してください……」
穏やかに目を覚ました鋼音が最初に知覚したのは、そんな少女の声だった。
「……?」
寝ぼけている鋼音は、空耳だと断定して二度寝の姿勢に入った。一子の声をして一子の口調ではなかったからだ。今日も今日とて、午後から大きな用事があるのだ。できるだけ寝ておきたい。
「ぅ、あ、ぁ……」
「ん!?」
抱き枕だと思って強く抱いたそれから、呻き声のようなものが聞こえた。この声、この大きさ、匂いや温度には覚えがある。驚いたおかげで、完全に目を覚ますことができた。
「離して……ください……」
「あ、ごめん」
のそりと離れる鋼音を、耳まで真っ赤に染めた一子が睨む。
一子からしてみれば、起きたら抱きしめられていて、抗議したら更に抱き締められたようなものだ。……嫌ではないが、恥ずかしさで死んでしまうところだった。
抱き締め方も抱き締め方だ。これが心臓によくない。自分の顔を彼の胸板に押し当てられ、頭を抑えるように髪を指で挟みながら頭皮を掴まれていたのだ。
「おはよう、一子。もう具合はいい?」
言って、鋼音は一子の額に手のひらを当てた。熱はないらしく、鋼音は一人で頷く。続けて頬。かなり赤く熱いが病気という風でもない。最後に首筋。腫れていないようだ。
「…………」
か細い首に手を当てていると、一子がため息をついてしだれかかってきた。
「ずるい」
「ずるいってなんだよ」
「ずるいもんはずるいんだよ。二度寝するんだろ? そのまま布団になってくれ」
「残念ながらもう二度寝できそうにないんだ。眠くない」
「そうか……」
まだ緊張している様子で、一子はキッチンに向かった。朝食を作るのは一子の当番である。
◆◆◆
「懐かしい人に会ったんだ」
「懐かしい人?」
炒り卵とウィンナー、バゲットという軽めの朝食を終えた一子は、静かに語り始めた。
「うん。夢で会ったんだ。悠芽に逢ったんだ。でもそいつは、何も話してくれなかった。元気でやってるとか、どういうことに困ってるとか、何も言ってくれなかったんだ」
今にも泣きだしそうな一子を、しかし鋼音は慰めることができなかった。
白崎鋼音は人の心の機微に疎い。こういった咄嗟のときには手も足も出ないのだ。
「なんかごめんな、急にこんな話してさ。悠芽、っていう恩人がいたんだよ。まっすぐでカッコよくて、どこか頼りなさげでぶっきらぼうで……」
「…………」
「鋼音によく似たひとだった……。女の人なんだけどな」
「………………」
溢れるように語る一子を、鋼音は相槌もいれずただ聴き容れるばかりだ。その不器用さがまた、一子にとっては心地よく、懐かしいものだった。
「あー、もう。何話してるんだろうな、あたし。はい、やめやめ! 片づけるから早く食べ終われよ。でも急がないように!」
◆◆◆
一子を連れ風花探偵事務所に集まった鋼音は、今一番会いたくない人物と出くわした。
「やぁ白崎くん、昨日は災難だったらしいね。大事なくて何よりだ」
「軒先さん、どうしてここに?」
どうにも好かない男である軒先縁日は、来客としてもてなされていた。思わず眉間にしわが寄ってしまう。一子も何か思うところがあったのだろう、さっと鋼音の背に隠れた。
「どうして、って、情報を提供しにだよ」
「それは昨日の晩に霖太郎から聞きました。ありがとうございます、さようなら」
「どういたしまして。って、違う違う。追加の情報だよ白崎くん」
「追加?」
聞き返すと、ぼたんがお茶を淹れてやってきた。
「こんにちは鋼音くん。行こ、一子ちゃん」
一子が居心地悪そうにしていたのを察してか、ぼたんはその細い手を引いて奥の部屋へと向かった。入れ替わりで、比較的ラフな格好をした霖太郎が応接ソファに腰を下ろす。
「ことがことだ。俺も真田の件に協力する」
「気持ちはありがたいけど霖太郎、これは僕の問題だ。手伝ってもらうのは悪いよ」
「いいや、そうじゃないんだ鋼音くん、霖太郎くん。今回、真田研究所には俺も用事がある。というか追われてる身だしね。それに、こっちの探偵じゃない僕が干渉するとまた面倒な手続きが必要になるんだ。だから風花さんに協力してもらおうというわけだ」
「戸張を差し向けた真田に責任を問う。結局はアウター同士の抗争になるだろうから、ぼたん先生の代わりに俺ってわけだ」
そういう霖太郎は、どこか嬉しそうだ。
「その用事っていうのは?」
「これだ」
胸ポケットから取り出されたのは名刺ではなく、水銀のようなものが収められたシリンジだった。
「“スタンプ”という名で盟元の外に出回っていたものだ。その通りスタンプ注射のように処方すると、一時的にだがアウターと同じような能力を使えるようになる。真田がこれに関係しているらしい」
《骨格効果》とラベリングされたスタンプを手渡された鋼音は、それをまじまじと見つめる。やがて顔をしかめた。
「こんなもの、誰が作ったんですか」
「それを調べるための真田だ」
スタンプを手に取った瞬間に流れ込んだ、よくないもの。それに漠然と憤る鋼音と、軒先の感情は同じだ。これは許せないものだ。
「面白そうなの持っているじゃないか」
今にも握り潰されそうなスタンプを背後から抜き去ったのは、着いたばかりの黒峰だった。彼女の趣味ではなさそうな毛糸のマフラーを剥ぎ、空いている鋼音の隣のソファに腰を下ろして、オットマンに黒タイツに包んだ足を放る。
「ウチからも出灰を出そう。三人寄れば文殊の何とか、というが、こと戦闘においては役に立つだろう」
「勝手に決めないでくださいよ……」
無造作に背もたれにかけられたマフラーをたたみながら、少し遅れてきた出灰が抗議した。
「いやか?」
「いやってわけじゃ……」
「じゃあ行ってくれ。頼む」
「わかりました……わかりましたよ、もう」
一度たたんだマフラーを自分の首に巻きなおした出灰は、肩を落とし黒峰の後ろに立つ。
「軒先探偵、私から一つ話があるんだが」
「どうぞ」
「あなたの目的はスタンプの出処だろう。スタンプを入手することではないはずだ」
「そうだが」
「我々黒峰研究所も協力することになった。……一応白崎も長雨もウチの所属だが……その見返りとして、今回の件でスタンプを入手した場合、それらを全て預からせてもらいたい」
「…………」
足を組みなおした黒峰の提案に、縁日は黙り込んだ。実力はともかく、出灰もまたA等級のアウターだ。その協力を得られれば、真田研究所への訪問はもとよりその後のいざこざでも優位になるだろう。しかしながら、スタンプを一般の手に回していいのだろうか。計算できる部分と計算できない部分がぶつかって、考えがまとまらない。
「ではこうしよう。スタンプの研究結果はそちらに提供する。悪いようには使わない。……いや、悪いように、っていってもアウターじゃないあんたにはわからんだろうが、ともかくこっちはこっちでルールを守るさ」
「…………」
縁日は無言で、霖太郎の方に視線を見やった。霖太郎は頷く。
「スタンプを盟元の外に流出させた組織を挙げる。可能なら叩く。俺が来た目的はこれだ。盟元の中でスタンプが蔓延するならそれでもいいが、君たちがまた流出させるのなら矛先もそちらへ向く。こちらの条件はそれだけだ」
「決まりだな……」
手の中でスタンプをくるり、と回すと、黒峰はそれを胸ポケットにしまった。
「それと鋼音、試作品だ。持っていけ」
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