永続・不老不死 日比野悠芽
日々の夢
全高約百二十メートルの大塔の中は、天国であり地獄でもあった。
ターミナルと呼ばれるこの大塔は、地理的にも文化的にも能力都市である盟元にとって中心地ともいうべきものだ。
日比野悠芽は、ここに五十年間暮らしている。
少女から女性へと変わる途中、二十歳ほどの見た目をした悠芽は、その実二百歳を超えている。
本人は年齢を覚えていない。あらゆる科学を用いても、彼女の年齢を測ることはできない。ただ、彼女の語る経験から、そして何より絶対的なその能力から、彼女が真に二百歳を超えた人間であると、不老不死の化け物であると痛感させられる。
精神疾患系S等級“不老不死”。それが日比野悠芽の存在理由であり、存在意義であり、存在価値だった。
ここは彼女のような人の枠から大きく外れてしまった者が、爪弾き者の中の爪弾き者たちが安心できる天国であり。
ここは彼女のような人の枠から大きく外れてしまった者が、その価値を資源めいて搾取される地獄であった。
◆◆◆
身長体重血圧脈拍数、検尿献血、それから問診を終えた老若男女十数名が去ったあと、悠芽は一人検査室に残されていた。彼女だけ、まだ検査すべきことがあるからだ。
悠芽はいつものようにベッドに横たわり、慣れることのない無影灯の光を目を細めて耐えている。
検体であるアウターに支給される肘先と膝下を露出したガウンの胸元が開かれ、胸骨に沿ってメスが走る。悠芽の瑞々しい肌は弾けるように裂け、皮膚と肉の断面、肋骨などが露わになった。
彼女を取り囲むようにして手術……いや、違う……を続ける研究者たち。数年前からの日課ゆえに慣れた手つきで悠芽の肋骨を折り、絡まる肉と血管を無造作に切り取り、水鉄砲のように勢いよく血液を噴出する心臓を取り出した。
続いて肺。これも綺麗なもので、くすみ一つすらない。それから取り出せる順番に乱雑かつ丁寧に内臓を殺菌されたトレーに取り分けていき、悠芽の胸と肚が閉じられたのは納めるべきもの全てが取り除かれてからだった。
横臥したまま一時間点滴を受け、悠芽は二日酔いのようにふらふらと立ち上がり、自身に宛がわれた部屋へと向かう。
途中、彼女の内臓をこねくり回し四苦八苦しながら検査をする研究員が目に入った。
どうやら今日新たに入ってくるアウターに移植して反応を観察することにしたらしい。今はその下ごしらえというわけだ。
「せいぜい上手く使ってみろ、ばーか」
可憐な面持ちに不釣り合いな乱暴な口調で吐き捨てる。
……。
…………。
しっかりとした重みの戻った肚をさすり、悠芽は安楽椅子に腰を落ち着けた。
悠芽の部屋は様々な本が積まれたり並べられたり撒かれていたりと、およそ整理整頓とは程遠いものだった。
老いず、死なず、二百年を生きてきた。そんな彼女に十年前できた友人が教えてくれたのが、読書という趣味だった。
一度読んだら飽きてしまう悠芽にとってはそれもまた一過性のものだと甘く見ていたが、その友人はあろうことか『次会う時までにこれらすべてを暗唱できるようにしておいてください』などと注文してきた。
不老不死――それに加えて勤勉であるならば、怠惰を嫌うのならばできるはずだと。彼女を智の到達者として相応しいと敬ってなお、いやだからこそあの女はこのようなことを言ったのか。
悠芽には彼女の真意がわからないが、それでも暇つぶしにしては悪くなかった。内容を読むだけでなく、理解するに飽き足らず、一字一句覚えるとなると、いったいどれほどの時間がかかるのか……。時間という概念に置いて行かれて久しい悠芽は、時間が足りないと思うようにしてみせた無二の友人を敬愛する。
肩にかかるほどの髪を必要もないのに後ろへ払い……これも親友のくせだ。読書を始める習慣として組み込ませてもらった……落ちている童話の短編集を拾い上げた。
「…………………………………………………………………………………………………」
これまでいくつかの作品を暗記してきた悠芽だったが、どうもこの作品だけは覚えることができなかった。
きっと内容に共感できないからだろう。内容のみならず一字一句違わず覚えるためには、自分の中にとっかかりというものが不可欠になってくる、と悠芽は経験から学んだ。取り分け共感というのは大事なファクターである。様々な登場人物が入り乱れる物語において彼らのセリフを紐づけするには、実際にその人物たちを自分の中で喋らせればいいのだ。
さて、悠芽はこの物語の主人公である悲劇のヒロインというものがわからなかった。
いや、悲劇のヒロインですらない。
人ならざる者が善意で助けた相手に見返りを求め、アイデンティティである美声と肉体を欠いてかつ暴力的なまでのペナルティを過剰に背負い込み、挙句何も成せぬまま絶望的な最期を遂げる――悠芽には、その主人公の人魚が愚か者としか思えなかった。世間では最高の悲恋譚などと持て囃されているのも気に入らない。
「こんなの、なにもしていなのとかわらないじゃないか」
思わず口に出た言葉を聞く少女がいた。
「あ、ノックはしたんですけど、返事がなくて……」
部屋に入り込んでいたのは、近頃話すようになった赤毛の少女だった。歳にして十歳ほどだろうか。よほど育ちがよかったのだろう、細かな仕草も童話に登場するヒロインのようだった。
「あぁ、一子か。いらっしゃい」
「はい、おはようございます、悠芽さん」
挨拶替わりに一子の髪を撫でると、一子も悠芽の頭を撫で返した。
「怖い顔して、どうしたんですか?」
「どうもしないよ。ただ……ただちょっと、悲しい話だったからつい」
ちっとも悲しくないのに、悠芽は取り繕うために思ってもないことを言ってしまった。
「悠芽さん、悠芽さん」
一子は慰めるように、悠芽の顔を自分の胸に押し当て、抱きしめる。
「………………」
そんなに悲しそうに見えたのか。不老不死だからか、それとも他の生来のものか、悠芽にはわからない。
「それで、何か用事があったんだろう? どうしたんだ」
「うん。この続きを貸してください」
「はい、これ」
小さな両手から差し伸べられた本を受け取り、伸ばされたままの手の中に次巻を収める。すると一子は嬉しそうにそれを抱きしめ、
「ありがとう!」
笑みを浮かべ、悠芽の上に座りページをめくり始めた。
「…………」
「一子ちゃん」
「なぁに?」
「膝の上、好きなのかい?」
「……えっと……そ、そう、安楽椅子の上がいいだけ! 膝とかはいいの!」
「そうかい。じゃ、あたしはベッドの方に移るから、一子は好きなだけ安楽するといい」
腰のあたりを叩かれ、一子は立ち上がる。
物足りなさそうに悠芽を見送り、ベッドに座ったのを見届け、一子は――
「一子ちゃん」
「なぁに?」
「あたしの膝、好きなのかい?」
「……献血とかあって。体がだるくて。枕があったから。暖かい。膝じゃなくてもいいけど、まぁふとももは悪くないよ」
「そうか。長生きするもんだな。膝枕って名前なのにふとももっていうのも実感できたし、足の話題で揚げ足を取られたのも初めてだよ」
太ももに頭を乗せられ、しかも物語に没頭されながら、それも悪くないと悠芽は思った。体調不良を訴えていることだし、妹のように思えてきたこの少女の好意を無視し続けるのも忍びない。枕を手繰り寄せ、悠芽自身も横たわる。ちょうどLの字になった。
しばしページをめくる音だけが部屋に響き、……一子が口を開いた。
「あの、悠芽さん」
「なぁに?」
本を読んでいるせいか、悠芽の口調は優しい。断じて一子と過ごす時間のせいではない。
二人は頭すら起こさないまま話を続ける。
「外って、どうなってるんですか?」
「どう、って……」
外は外、と言いかけ、悠芽は飲み込んだ。一子はまだ言葉も喋れない頃にここに連れてこられたのだ。
悠芽は沈黙する。
……色彩のない部屋で育った少女に、リンゴの赤さをいかにして伝えるか――という思考実験がある。あるいは、この少女に赤いリンゴを見せ、『赤色である』と認識できるか、というものだ。
長く生きている身ではあるが。悠芽はこの答えを得ていない。この思考実験は無駄だからだ。
「………………」
この少女や、親友といると、人生に彩りが出てくる。それはとても尊いことだ。それはとてもありがたいことだ。それはきっと、かけがえのないことだ。
だから、悠芽は提案する。
「……行ってみようか」
「いいんですか?」
「いいよ」
「私、外に出たいです」
「行こう」
「私を、外に連れて行ってください」
「行こう!」
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