五体目『罪人は歩む事を許されない』

 蛙と言ってもサッカーボールサイズの角が生えた茶色い禍々しい物体だ。

 まず毒腺を取り除くのだと聞いて食欲こそ失せたけど、その作業を眺める事自体は興味深かった。細くて小さなナイフで、ミミは器用に皮を剥ぎ、内臓を抜き取り、使える部分と使えない部分を選別していった。油で香辛料を炒め、野菜を切り、それらを傷だらけの鉄鍋にまとめて放り込むと、水を加えて煮込み始めた。湯気が広がって、甘く辛いような匂いがした。

 ──森の中から何かに見られているような気配を感じる、と表示される。

 枝を削って作った箸を掴んで構える。

 ドーム状に薪を組んだ焚き火は、家から半径五メートルの範囲しか照らさない。

 炎が妖しく揺れる度にミミの簡素なキュロットとチュニックが照らされ、その麻とか藁みたいな粗い質感はミミを人間、というかエルフというのか、よりは案山子みたいに無機質に見せていた。色の薄い、長い長いポニーテールさえも、夜風のように自然に揺れると、目の前で一瞬それを見失いそうになる。振り返る、長く尖った耳はまるで人間不信の獣のようだ。

 木を削って作った器にミミが完成した料理を装って僕に手渡してくる。

 分厚い何かの葉の上に水と粉を混ぜて練った物が並べられていて、その丸みと白さは薄明かりの中で小判みたいに見えた。何の粉だったか、茂みにある雑草を二抱え、三抱えくらい抜いて来て、その穂の部分を潰して取るのを手伝った気がするけど、遂に何か聞けなかった。

 ──毒などではないようだ、と視界の端には表示されたけど。

 シアンにはパッチテストを勧められた。実物に触れる。煮汁に触れる。煮汁を舐める。実物を噛む、と徐々に摂取量を増やしていき、痺れやえぐみ、かゆみ、吐き気などを感じなかったらたぶん大丈夫、らしい。さすがチョウザメの卵しか食わない奴は言う事が違うと思った。

 とはいえ味は悪くない。

 繊維が強い鶏肉のような肉と、筋っぽい根菜と青臭い葉っぱも、スパイスによって食えなくはない。何より温かいのが嬉しかった。しかし、冷えたコーラなどはなく、汲んで来た川の水は一度沸かさないといけないし、果実の皮か何かを焼いたような物で香りだけ付けてある。

 飲み物食べ物は、やっぱり慣れ親しんだ物が欲しくなる。

 最後にコンビニで買った物は何だったか。菓子パンと、スナック菓子は、プライベートブランドの安くて軽いパッケージで、味もありがちな、うすしおとか、チョコチップとか、そんな感じだった。考えれば考えるほど、それが遠ざかるような感覚に襲われる。今こうして食事をしてると、どこか別の世界の地球で死んだという実感はない。トラックに轢かれたという実感はない。車なんて、現実では一度も運転した事がない。上坂有葉は何歳だったか、もしかしたら今後、そいつは運転をする事があるのかもしれない。それは僕にとって、何でもない。

 何もかもが遠くにあるという手触りさえ、どんな角度からも得られない。

 食事を終えたら風呂だけど、これは無いと言われたので、先に済ませておいた。

 街で売られていたという、灰と果実と何かの死体で作られたらしい液体石鹸が壷に入っていたので、明るい内に軽く体と頭は洗っておいたけど、何かスッキリしない。服だってアスファルトで擦り切れたはずの、たぶんマゼンタが直してくれたジーンズとパーカーのままだ。

 ランプの明かりを灯したまま、藁のベッドの上に横になった。

 どうせ他も空き家だからって、毛皮とかを掻き集めて来たけど、何か根本的な部分で人を寝させない違和感があった。輾転反側。高い所に足を置いたり、手を入れたり、体を挟んだりしても、一つも落ち着かない。何が違うって、ここ数年は、寝る時は動画かラジオが付けっぱなしだったのだ。今あるのは風の音、木が爆ぜる音、そして呻き声が聴こえて来そうな、不安だけが常に付き纏っていた。閂を打ち破って、それらは襲い掛かる。散弾銃を抱いて寝ても、不安は拭えない。遂に耐えられなくなって外に出ると、ミミは焚き火で何かを焼いていた。

 小枝の先に刺したそれを差し出し、ミミが僕に食べるかと聞いた。

 僕は首を振り、相当に妥協した上で蓄音機のような物はないかと尋ねた。音楽に関して言えば、彼らはカホンかマリンバのような手作りの楽器は持っていた。それだけだ。合成音声によるリアルタイムアタックの解説動画、などという物があるはずがなかった。だって電気も無いのだから。ラジオや、そういった物について説明すると、ミミは秘蔵の石を出してきた。

 街にある衛兵の詰所や酒場の音声を何日も掛けて引き寄せているらしい。

 媒介にしている物が危険なのでバレたら困るそうだけど、そんな事はどうでもよく、僕はベッドに入って石が入った木箱を枕元に置いてみた。翻訳機は、酒に焼けた声の、卑猥なジョークを並べ立て始めた。ゴシップらしい内容や、字幕で見た映画の音声のような罵倒の羅列に関しては、事情を知れば興味深い一面もあったのだろうけど、僕は翻訳機を遠ざけ、知らない土地の知らない言葉をBGMにして、うつらうつら、寝たり起きたりを繰り返している間に、気が付けば空がうっすらと明るくなって、小さい頃に行ったキャンプの空気を思い出した。

 起きたら起きる。寝たら寝られる、という直截的な時間が流れている雰囲気。

 外に出ると、薄く靄が掛かっていて、森の木々は鉄格子のようだ。

 焚き火のそばの地面でミミが寝ていた。

 切り株の椅子に座り、ミミが起きるまで、何もしないで眺めていた。

 問題は、世界を救うという使命を、どのように達成するべきかという事だ。

 穴掘りを手伝い、村の中を片付け、食事を用意して貰い、喧騒を聞きながら寝る。

 それ以外の時間では、散弾銃を触ったり、本を開いたり、魚を撃ったりした。

 そんな生活を三日続けてみて、結局のところ世界を救うという使命も、世界を覆っている危機も、まるで感じられなかった。今の僕は、生き残った女の子のついでにうっすらキャンプをしていただけだ。食事にも慣れた。すいとんのような練り物も麺状にしたり、飲み物を川で冷やしてみたり、風術を使って飲み物を冷やしてみたり、それで世界は変わらなかった。

 三日目、昼食中ミミは不意に近くに置いていた弓を手に取り、姿勢を低くした。

 何かが居る、と言った。

 鳥とか魚とか、夜に焚き火に群がる虫とか、嘘をつきに来た蛇とか、遠くの街で他人の細君に手を出そうとしている衛兵とか、そういうレベルのではなく、反死者と化した森の民が近くを徘徊しているような、差し迫った危機として言った。様子を見に行くが、どうするか。

 その質問を受けた僕は、姿が見えている間に結局はミミの後を追っていた。

 森の中を、固く踏み締められただけの小径を走り抜け、街道に出ると、少し広くなった道の両側に、杭が等間隔に打ち込まれていた。粗末な板の立て看板が折れている。文字は掠れ、それ以前に僕は読む事が出来ない。南、いや、とりあえず太陽の方角にミミが進路を変えた。

 太陽は小さく、その周囲の方が強く輝いている。

 ミミは跳ねるような軽快な足取りでどんどん先へ行った。

 川沿いのカーブの所でミミが振り返り、緑色の石を放り投げて来た。

 持った途端に体が軽くなる。

 そのまま三時間掛けて街道を走り抜け、途中で寄った小さな村で三人の反死者を倒し、その度に地面に穴を掘って死体を埋めた。日が暮れかけた頃に、ようやく森が開けて岩山が連なっている地帯に出た。高台に家屋が密集していて、いくつかの小屋が斜面に点在していた。

 監視所は無人だった。正確には、反死者が死んでいた。

 門も塀もない街の中に入ると、往来にも無数の反死者が倒れていた。

 どれも灰色に変色した肌が崩れ、濁った目をして、四肢はばらばらに千切れている。

 彼らには一瞥もくれずにミミが跳ねるように斜面を上っていった。山を一つ、二つ越え、街の反対側を目指して走り続けていたミミが、不意に足を止め、物陰に滑り込んだ。シアンが横から顔を覗かせて、ミミが居る方に指を差しながら、お前も隠れろ、みたいな顔をした。

 たまたま崩れずに残っているような岩の陰から、街道の先を見やる。

 両手を組んだ大男が、背中を丸めて歩いていた。

 伸びた髪は乱れ、ゆったりとした毛皮のズボン以外、何も身につけていない。

 肌の色は灰色じゃないし、腐ってもいない。コーヒー豆のような茶褐色だった。

 そこに灰色に変色した肌を持つ反死者が近づいてきた。大男の腕を掴もうとして、振り払われた勢いでゴツゴツした岩場に投げ飛ばされた。更に二人、三人と、増えた反死者が大男に投げられる。それを見たミミが動き出した。僕の手を引いて、大男の側に駆け寄ると、背後に迫っていた反死者を矢で射る。緑色に光る鏃なんて見えなかった。そして反死者は空の彼方に吹き飛ばされた。だから、そういう事だ。大男が振り返った。骨張った彫りの深い顔立ちは、目が暗く、鼻が高く、そして唇は薄かった。寡黙そうで、冷酷そうな人柄が顔に表れていた。

 その両手首には枷が嵌められ、それは何にも繋がっていなかった。

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