三体目『十二番の鹿弾』
落下の衝撃などなく、同じだけど違う、もっと固いベッドの上に横たわっていた。
シアン一五四四は、見た目はマゼンタよりも幼くて、銀色の髪を後ろで纏め、それをパレットだかクリップだかで上げている。目は全て真っ青で、サファイアを嵌め込んだようだ。服装については、マゼンタもそうだったけど、丈の長い純白のローブが妖精とか、天使のようなイメージを抱かせる。肩を出し、二の腕から袖を吊って、袖口に指の先まで隠れていた。
とりあえず、ステータスなんか、見られるんじゃないのか、シアン。シアンさん。
呼び掛けると、目の前、下の方にビニールの紐のような物が踊り、横に列を作った。
──板の上に藁を敷いただけの粗末なベッドのようだ、そう書いてあった。
食器を眺めていたシアンが振り返り、こっちに頷いていた。
え、フレーバーテキストだけか。それは、ホラーゲーム過ぎないか。
だとしても他に心電図くらいは可視化してくれても良くないか。
実際僕が腰掛けているのは、板を貼り合わせた土台の上に、細い板を何本か敷き詰め、その上に藁を広げただけの簡素なベッドだった。木の節とか、枝の部分が出っ張ったまま、ちゃんと処理されていない。それでも尖ったり、ささくれ立っていないのは、潰れて丸くなるくらい長年に亘って使われて来た物らしい。床も木の板が並べられ、その隙間から見ると、うっすらと草の生えた地面が一メートル以上は下にあった。床が高いのは、シアン。シアンさん。
──湿気対策の為に床が少し高くなっている、という文字が視界の端に見えた。
律儀に見せてくれるらしいけど、ずっと視界の下の方だから見辛い。
とりあえずベッドから降りてみると、床がわずかに軋んだ。
その時、玄関の向こうで物音がし続けていた事に、今更になって気が付いた。
玄関は細長い板を繋ぎ合わせた開き戸で、蝶番なんて気の利いた物は無いから、蔓か何かで軸の部分を括り付けてあるようだった。真ん中の辺りに四角い棒が掛かっていて、どう見ても閂だった。さっきからそれが、外からの衝撃で何度も揺れ、今にも叩き壊されそうだった。
来客か、家主である可能性は、とっくに捨て置いている。
板の隙間から見える灰色の影は、おおよそ人間の色味をしていない。
服は粗末な茶色いローブを纏い、身長は百五十前後、やや面長の、青年に見える。
隙間からだ。
隙間からは、目が白濁し、頬肉が崩れ、剥き出しの歯も半分近くが抜け落ちている。
シアン、と心の内で名を呼ぶ、シアンさん。シアンさん。あれは何だ。
──何かがドアを叩いているようだ、と表示される。
ああもう、役に立たない。まずホラーゲームのフレーバーテキストなんて、主人公の異常性を匂わせたり、急なユーモアで和ませたりするくらいしか意味が無いんだ。ヒントになるような事を言っていても、それは解答を知っている人向けのメモのような内容でしかない。
とにかく玄関に駆け寄り、閂を押さえながら隙間を覗き込んだ。
他に入り口は、あるはずがない。
そこは七畳程度の、高床式の掘っ立て小屋なのだ。
小さな書棚、行李のような入れ物、藁を敷いたベッド、干してある魚や果物、壁に掛けてある銛くらいしかない、それだ。武器を持って、でも家主か来客だとしたら、穏便に外に出て行こう。そうだ、今更になって考えるに至ったけど、ここは異世界だった。リヴィエール。
っていうのは、言葉はどうするんだ。
どうして玄関を叩かれているんだろう。
侵入者が居る事を既にバレているのか。
このまま篭っていれば安全だろうかと、考えている間に、一際激しく打ち据える音と、弾け飛んだ閂が部屋の中を横切っていった。青年は勢い余って地面に倒れ、ずり、ずりと手を使って這いだした。その長く尖った耳。悪魔のような。妖精のような。高貴なような。それも片方は真ん中から千切れていて、もう片方もピアスを引っ掛けたみたいに裂けていたけど。
壊されたのかと、閂の方を見る。
──もうこの鍵は使わないだろう、捨てますか、と表示される。
はいか、いいえか、いや。どっちでもいいんだけど。
彼が起き上がる。口の前から鳴るような呻き声が腐臭を伴って広がる。
支える物を探すように差し出された両手が、ゆっくりと着実に迫って来る。
剥き出しの、残った半分の歯がやけに鋭く、それで噛み付かれたくないと思う。
ふと横を見ると、シアンが手招きしていた。銛を両手で抱えたまま、青年を迂回して玄関を潜った。転げ落ちるように階段を下りて地面に立つと、何か妙に、柔らかい。黄色い輝くような下草が生え、様々な草花が生い茂った森の中に、いくつもの小屋が建っていた。ひたひたという足音が聴こえ、振り返る前に駈け出した。さっきの青年が出て来たに決まってる。
走っている間に、似たようなローブ姿を何人も目にした。
若い男性、壮年の女性、小さな子供達、どれも灰色で、朽ちて、地面に倒れている。
手足が欠けているのを見た時には、胃が締め付けられるような不快感を覚えた。
何の意味もなく、ただ腐って損壊しているという無常さに、こんなにも、なんか。なんというか、腹が立つとは思わなかった。あまりに弱く、あまりに窮屈じゃないか。そして、それでもまだ動こうとしている姿に、その愚かしさに、銛を持つ手に力が入る。振り下ろしてしまいたい。だけど、それは。それをするには、完全に動かなくなるという確信が欲しかった。
森の中を、木の根を飛び越えながら進んでいく。
どこへ向かっているのかも分からない。
遭難するかもしれないとは考えない、だって知っている場所は一つも無いのだから。
村の外れらしい所に、これも木造の大きな蔵があった。
入り口は開かれたまま、布か、獣の皮のような物が吊るされていて、微風でつまらなそうに揺れていた。ちょうど真ん中で分かれている、暖簾のようなそれを跳ね飛ばし、蔵の中に飛び込んだ。土と、木と、何かの酸っぱい臭いが充満し、一瞬だけ誰かが入るのを拒むように感じられた。三面の壁沿いに棚が作られ、真ん中には巨大な籠や瓶が置かれ、その中には食料や糠床のような物まであった。奥に回り込んで腰を下ろすと、既にシアンが寝転がっていた。
その肩に触れようにも、感触が無いのに、手がそれ以上進んでいかない。
顔を上げたシアンは眠たげに目を擦ってから手で顔を隠した。
──蔵の中には生き物の気配はしなかった、と表示される。見れば分かる。
喉が渇いた、と思って気が付いたけど、水も水瓶に入れておくものらしい。しかもたぶん、沸かさないと腹を壊すかもしれない。それなのに今は火種すら持っていないのだ。それらしい物は無いかと蔵の中を探し回っていると、戸口の方で音がした。灰色の顔、目が合った途端に瓶の背後に身を隠した。もしかしたら、マゼンタが変な事を言っていたせいだろう、もしかしたら彼らは、ゾンビなのではないかと思い始めている。肉が腐る。思考力が失われる。それなのに生命力は強くなる。そして人を襲う。その他の諸々は、ものによるとしか言えない。
耳が長く、尖っている事なんかは、特に類例を見ない特徴だけど。
そのくらいブードゥー教から遠く離れても、それらは総じて同じ、動く死体だ。
だけど実際に見たそれは、まだ生々しくて、死体を殺す事にはならないとしても、損壊する事にはなるという事実が攻撃を躊躇わせる。銛、なんかで。既に死んだ物を一体どれだけ攻撃したら動かなくなるだろう。ひた、ひた、足音が聴こえる気がする。シアンはずっと寝ているけど、もしかしたら、すぐそこに居るかもしれない。香辛料の匂い、腐敗臭が、匂わない。
視界の端を過る物に顔が先に反応した。見上げると茶色いローブがあった。
灰色の手、腐りかけて、膿んだ汁のような物が滴り落ちている。
声にならない声が、喉を引き裂いて漏れ続けた。銛を突き刺す。胸の中心だった。
それが仰け反った事に気を良くし、引き抜き、引き抜けず、返しがあった事を知る。
かえってそれは引き寄せられる。腐った両手が僕の両手首を掴んで、肉が崩れ始めた。
手を振り払い、逃げる。
シアンに手を伸ばす、思い出した、ショットガンを出して欲しいんだ。
尻餅をつき、その上に伸し掛かられ、すぐ目の前に数本の歯が白く光る。
その時、一陣の風が吹き込んで、それの体を取り巻いた。突風が体の前に、僕とゾンビを引き離して、空中に持ち上げられたゾンビの手足が捩れ、千切れ飛んだ。左手に何か冷たい物が触れた。グリップに手を掛け、それを空中に向ける。ゾンビは、空中を滑って蔵の外に飛び出していった。暖簾が揺れ、代わりに、そこに若い女の声が聴こえ、小柄な少女が現れる。
金色の、ポニーテールが地面に付きそうで、そして、耳が長く、尖っている。
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