探偵は去りる
「事件を整理しましょう」
まるで、水を得た魚のように……。
勇者探偵を名乗る男が、推理を語り始める。
その姿は、まぎれもなく、ドラマで犯人を追い詰める探偵そのものであった。
「まず、そちらの憎むべきストーカー犯――山本は、あなたの後を尾行し、この山へと入った。
この場合、尾行ではなく、あなたが所持している品へ発信機でも取り付けていたのかもしれません。
彼の部屋には、下卑た欲望を叶えるための道具が、いくつも存在しましたから」
そう言われ、女性としての本能から、自分の身を確かめる。
何も、違和感はない。
だが、最近のカメラや発信機は小型化が進んでいるのだから、仕掛けられていたとしても素人は気付けないだろう。
「そして、休日のソロ登山を楽しんでいたあなたに接触し……いえ、このくだりは省略しましょう」
途中を省いたのは、自分に対するせめてもの配慮に違いない。
語られて思い出したのは、山中を見知らぬ男に追い回されるあの恐怖であったから……。
「ともかく、山本はあなたと揉み合いになった。
実をいうと、その場所も特定してあります」
ここでまた、田中がスマートフォンを取り出す。
見せられた画面に映っているのは、地面としか言いようがない。
「素人目には分からないでしょうが、見識のある人間が見れば、揉み合った痕跡を見つけられます。
あなたの靴底を照合すれば、少し弱いですが証拠にもなることでしょう」
――足跡。
思いもよらなかった方向から痕跡を突き付けられ、動揺を隠せない。
いや、まだだ。
すでに足跡は雨で流されているだろうし、いくらスマートフォンのカメラが高性能だとしても、これをもって立証することは難しいだろう。
「まあ、それはどうでもよろしい。
続けましょう」
それを分かっているのだろう。
田中が、スマートフォンを仕舞い込む。
「揉み合いになった末、恐ろしいことが起こった。
ここまで、あなたと会話をして確信しましたが、それはきっと、必死に抵抗した末の事故だったのでしょう。
山本は足を滑らせ、崖底へ転落してしまったのです」
心から同情するように……。
少しだけ圧を弱めた田中が、憐憫の眼差しをこちらに向ける。
「そこまでは、事故です。
百人が聞けば、百人が正当防衛であると認めるでしょう。
ですから、実際のところ、あなたが罪を犯したのはここからです」
「……」
洋子は、もう何も言わなかった。
何か理屈を持ち上げて否定することは、ひょっとしたなら可能なのかもしれない。
ただ、そうしたところで、目の前にいる男は聞く耳を持つまい。
すでに、彼は事件の真相を看破しており、それが正しいことを洋子は知っているのだ。
つまるところ、洋子は観念しつつあったのである。
「さぞかし、怖かったことでしょう。
人を死に追いやったこと、そのものではない。
目の前で起きた出来事が、その後、自分の人生にどのような影響を及ぼすか……。
あなたは、それを想像し、恐怖したのです。
結果、山本のスマートフォンを持ち去った。
持ち去った理由は、推測ですが……。
おそらく、山本はあなたのことをスマートフォンのカメラで撮影していたのでは?
そうなると、もし、それが遺体と一緒に発見されれば、内部のデータから、あなたと揉み合いになった末の転落であるとばれてしまう。
それは、あなたにとってあまりに不都合……。
山本の死因は、あくまで、単独の登山による滑落事故でなければならなかったのです」
全ての推理を語り終え、田中がこちらに……。
上着のポケットに、視線を向けた。
これも勇者の力とやらで、透視でもしているのだろうか?
思えば、そこに問題のスマートフォンが入っていると、最初から確信していたような気もする。
「山本のスマートフォン、お持ちになっておられますね?」
「……はい。
全て、あなたが見抜いた通りです」
サスペンスの終盤で、真相を言い当てられた犯人というのは、きっとこんな心境なのだろう。
洋子はもう、一切の抵抗を諦め……。
山本のスマートフォンを、差し出した。
差し出し、受け取ってもらうと、何か……心身が軽くなったような気がする。
田中が、無形の圧力を消し去ったというのもあるだろう。
しかし、それ以上に……自分の罪を認めたことが影響しているのは、間違いなかった。
「あたしは、これからどうすればよいでしょうか?」
すっきりとした気分で、勇者探偵を名乗る男に尋ねる。
洋子の頭に思い浮かぶのは、警察への通報とか、その後の取り調べとか、そういった物事であった。
ひょっとしたなら、通報自体は、すでに田中がしているかもしれないが……。
しかし、真相を言い当てた探偵が告げた言葉は、まったく意外なものだったのである。
「別に、何もする必要はありません。
ここでカップヌードルを食べ、体が冷えないようにして夜を明かし、明日になったなら、下山して帰ればいい。
そして、そのまま元の日常へと戻るのです。
今日のことは、悪夢か何かであったと思えばいいでしょう」
「……え?」
驚く洋子をよそに、田中が山本のスマートフォンを仕舞い込む。
そのまま立ち上がろうとしたので、慌てて尋ねた。
「警察に通報とか、しないんですか?
それで、あたしを引き渡したりとか……」
「ドラマの名探偵なら、あるいはそうするかもしれません。
もしくは、私が警察官であったなら、そうしたことでしょう。
ですが、私はあくまで勇者。
法の守護者というわけではありませんし、また、その枠組みに囚われることもありません」
そこまで言うと、田中が部屋の隅……。
毛布に包まれた死体を見やる。
「あの男……山本は、大変に卑劣な男です。
そのような人間を、しかも事故で死に追いやったことにより、あなたのように善良な人間が不幸になるなど、あってはいけません。
従って、あの死体もこのスマートフォンも、私が責任を持って処分しておきます。
絶対に、発見されないようにね。
山本の部屋からも、あなたと結びつくような物品は全て処分しておきましょう」
「え……?
え……?」
もはや、混乱する洋子には構うこともせず。
立ち上がった田中が、死体入りの毛布を担ぎ上げた。
それは、いかにも軽々とした動きで、とてもではないが、人間の死体一つを肩に乗せているとは思えない。
「それでは、失礼いたします。
こんなことは忘れて、くれぐれも良い人生をお過ごし下さい」
「待って下さい」
扉へ向かおうとする探偵に声をかけると、その足が止まる。
「そんなことして……一体、何が目的なんですか?」
「目的、ですか……」
田中が、少しだけ考え込む。
そして、こう告げてきたのだ。
「真実と救済、というところでしょう」
「真実と、救済……」
「では」
もう、本当に話は終わったということだろう。
扉を開けた田中が、雨の降りしきる外へ出ていく。
すでに、夜となっており……。
本来ならば、雨の山中を出歩くなど自殺行為だ。
それを知っていて止めなかったのは、きっと、この青年には何の問題にもならないと思えたからである。
「勇者探偵……」
一人、山小屋の中へ取り残され……。
渡された名刺を眺めた。
何もかもが幻だったのではないかと思える一日で、電話番号も住所もURLもないこの紙だけが、ただ一つ残った現実だったのである。
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