第4話 きて……
――推しアイドルにキスをされた。
俺がそう気づいたのは、わずかに漏れたトワの吐息が、俺の鼻先を撫でつけたからだ。
それは唇と唇が触れあっただけの、拙い口づけ。
トワの唇は、甘く、柔らかかった。
今まで体験したこともないようなぷっくりとした感触だ。
くすぐったさに顔を背けようとすると、がっしりと後頭部を掴まれた。
「……だめ」
トワはとろんとした目で俺を見つめていた。
ほとんど消えてしまいそうな囁き声が漏れるたびに、彼女のさくらんぼのような瑞々しい唇が艶めかしく動いた。
俺はさっきまであの柔らかな唇に触れていたのか。
――生まれて初めてキスをした。
憧れの異性と、俺なんかじゃとても手が届かないような高嶺の花とキスをした。
ぼうっと立ち尽くす俺の前で、トワの顔が、ぷっくりとした朱色の唇が迫る。
いけないことだ、と頭のどこかで声がした。
彼女はアイドルだ。一般人とは一定の距離を保たなければならない。
でも、あの柔らかくて気持ちのいい感触に、もっともっと触れていたい。
彼女をもっともっと味わい尽くしたい。
そんな抗えないほどの欲求がはちきれんばかりに膨れ上がり、心の中が埋め尽くされていく。
「きて……」
誘うような甘ったるい声に、理性がとろけて弾けた。
トワが、俺の唇を押し割って舌を突き入れた。
もう絶対に逃がさないと言わんばかりに、トワの舌が生き物のように蠢いて、俺の口内を蹂躙していく。
「んぅっ、…………、ぅ……はぁ、……っ」
ただ、一心不乱に、絡み合う。
唾液のまじりあう音と、切なそうな吐息が漏れる。彼女の息づかいが荒くなる。
それは互いの存在を確かめ合うように、貪むさぼるような口づけだった。
「ふぅ、……ん、はぁ……、ん……っ」
俺はトワを強く抱きしめ、求めていた。
……気持ちよかった。
理性だとか、自制心だとか。
彼女はアイドルで、恋人なんて作っちゃいけない存在だとか。
そんなものはとても些細なことに思えた。
いろいろなものが蒸発して吹き飛んでしまうほど、激しく、刺激的で。
何度も。
何度も。
何度も。
唇を重ねた。
もう何回目かわからなくなるほどのキスをして。
互いを求めあった。
永遠にも思えるような甘い時間の後、やがてどちらからともなく、唇を離す。
ふたりの間に、甘い吐息が漂った。
(これは……夢か)
そっと自分の唇に触れる。
けれど口元には彼女の温もりと、柔らかな舌の感触が残っていて、これが紛れもない現実だということを訴えていた。
やばい、どうしよう。
彼女とどんな顔をして、何を話せばいいのかまるで分からない。
「ねえ、透君。この後――」
言いかけた彼女の言葉を遮るように、ドアがどんどんと叩かれる音がした。
乱暴な音に、心臓が飛び出しそうになる。
もしかして店員が来たのだろうかと身構えていると、若い女性の声がした。
「おーい、トワさん。そろそろラジオ収録の時間でしょ。遅刻しちゃうよ」
「ちっ、マネージャーか……」
トワが不本意そうに舌打ちをした。
「ごめんなさい。まだ話し足りないけど、これから仕事だから」
「え? ああ、そ、そうですか」
「それとこれ、探してたんでしょ」
トワから袋を手渡される。
中を見ると《フォーマルハウト》のCDが入っていた。
「あ、あの……これって」
「大丈夫。店から勝手に持ち出したものじゃない。関係者用で配られるやつだから気にしないで。じゃあ、またね」
「あ――」
急いでいるらしく俺の返事を待たず、トワはドアのカギを開けて、立ち去っていった。無人のバックルームにひとりで取り残される。
「またね、ってどういう意味だ?」
去り際に、彼女が残した言葉が頭をよぎる。
「……握手分の料金をまた後で請求しにくるって意味か?」
言葉に出してから自分の間抜けさにため息をつく。
さすがにそうでないことは自分でも分かった。
だってそんなものより先のことを……今さっきしてしまったのだから。
それから俺はぼうっとした頭で帰路に帰り着いていた。
習慣とはすごいもので、2年間も自宅から学校まで往復の生活を続けていたらどんなにぼんやりとしていても迷うことなく家に帰れてしまうから驚きだ。
あれは本当に七星トワだったのだろうか。
現実的には有り得ないと思う。冷静に考えてみても、現役アイドルが色恋沙汰などリスクしかないし、危険を冒してまであんなことをする理由がない。
ならばなぜ、あんな真似をしたのか。
死ぬほど悩みに悩みぬいて、俺はとある結論に至った。
あれは本物の七星トワではない。よく似た偽物なのだ。
ネットや雑誌でも、推しへの愛が高じて髪型やメイクを真似たり、整形までしている熱狂的なファンもいる。
きっとさっきの女はその類だ。
トワへの愛が高じてそういうファッションをしているのだろう。色々おかしな点はあったが、それしかないと思った。
ただの男子高校生でしかない俺に、トップアイドルが近づいてくる理由なんて皆無だからだ。どこかから俺がトワのファンだということを突き止め、彼女の外見を真似て冷やかしにきたのだろう。その方がまだ有り得る。
手の込んだ嫌がらせだ。そう結論づけて、俺は自宅の前に着く。
バッグからカギを取り出そうとして――
「あれ?」
手の平になんの手ごたえがないことに気づく。おかしい、どうしていつもの場所にない? 焦りに焦ってバッグの中をひっくり返してみる。教科書の束がばたばたと床に転がり落ちたが、どこを探しても自宅のカギは出てこなかった。
……まさか落としたのか?
どこで失くしたのだろう。朝は確かに持っていた。家を出るとき、戸締りをした覚えがある。探そうにも捜索範囲が広すぎて分からない。
最悪だ、これでは家に入れない。
頭を抱えてうずくまったとき、袋が目に入った。中には、さきほど彼女から手渡された《フォーマルハウト》の新曲のCDケースがある。
今はこんなことをしている場合ではないと思いながらも手を伸ばしていた。たぶん推しへの現実逃避で嫌なことから目を背けようとしたのだろう。
彼女の歌はいつでも俺の心を癒してくれた。辛い現実から俺を守ってくれる。わらにもすがるような気持ちで袋を掴んだとき、違和感があった。
「……え?」
袋から取り出してみると、CDケースと、無くしたはずの自宅のカギが入っていた。
もしかして自分でも気づかない間に袋の中にカギを入れていたのだろうか。
だけどそんな考えを打ち砕くように、カギには1枚のピンクの付箋が貼られていた。
しかもそこには、手書きの可愛らしい丸文字でこう書かれていた。
『外出するとき、ちゃんと鍵かけなきゃだめだゾ♡』
それは彼女の直筆サインと、とてもよく似た筆跡だった。
◇
「ねえ、トワ。ちゃんと説明して欲しいのだけど」
送迎車の中で、運転席からマネージャーの苛立ったお小言が飛んできたけど、私にはどうでもよかった。
むしろ怒りたいのはこっちの方。彼と過ごす時間を、仕事の時間が迫っているという取るに足らない理由で邪魔したのだから。
「命に恩人会いたいっていうから時間作ってあげたのに……どうしてあんなことしたの?」
「いけなかった?」
「当たり前よ! アイドルが男の子とふたりっきりで密室なんて大問題よ!」
「そこら辺は抜かりはない。店員に変装してたし、あそこの店長は私に借りがあるから何も問題はない」
あのCD屋の店長は妻帯者であるにも関わらずパパ活をしていた。その情報をちらつかせたら従業員服やら、ちょうど他のバイトや客足が引き始める時間帯まで喜んで教えてくれたというわけだ。
「そういうことじゃなくて、あなたは有名人なの。当然、記者も張り付いているし、一般人の目だってある。SNSに写真1枚でも上げられたら終わりよ」
「そうね、気をつける」
こうなるとマネージャーは面倒くさいので、適当に頷いておく。
まあバレたとしても平和的に解決できる。
どんな人間にも弱みはあるし、相談という形でお近づきになれば情報なんていくらでも握りつぶせる。隠ぺい工作なんてお手の物だ。
「で、ちゃんとお礼は言えたの?」
「まだ言えてなかったかも」
「え? お礼言ってないの? じゃあ一体何してたの?」
「別に。ただの世間話」
マネージャーが疑わしいものを見るような目でバックミラーから私をじっと見ている。それに気づかないフリをしてスマホを取り出した。
彼の現在位置を示す光点は、しっかりと自宅を指し示している。良かった、ちゃんと落とし物に気づいてくれたことに、ほっとする。
「おかえり。今日は昨日よりも15分と43秒遅かったね」
マネージャーから見えない位置に移動し、助手席が影になるところで目を閉じた。頭の中で、彼の感触を思い出す。
さすがにいきなりキスはやりすぎてしまったかもしれない。
思い返すだけでも、恥ずかしくて頬が熱くなる。
でも、彼の感触があまりにも気持ちよかったものだから途中で止めるだなんて出来そうになかった。
透君に抱きしめられたとき……ごつごつして、たくましい形をしていた。
自分の手の匂いを嗅ぎながら、ぺろぺろと手を舐めまわしている。
良い匂い……
彼の温もりを手の平に感じる。さっきまで彼と繋がっていたという事実に途方もない喜びを覚える。
「君のカタチ……早く刻み込みたいな」
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