第3話 君がよければ、好きなだけ触ってくれてもいいんだよ
「トワさん、ヤバイわね」
いつの間にか俺の背後にいた沙希が神妙な顔で言った。
「ああ、まったくだ。下手すりゃスキャンダルだ」
推しを悪くは言いたくはないが、今日の言動は迂闊だ。
このSNS全盛期、どんな些細なことでも炎上に繋がりかねないから気をつけて欲しい。
でも、良かったな。
まさかうちの高校に推しが来るだなんて。
まるで夢みたいだ。
もう一生分の幸福を使い切ってしまったのではないかとすら思う。
「だらしない顔だよ、透」
「何だよ、急に」
「だって、『俺のトワさんに恋人いなくて安心したぜー』って顔してるんだもん」
「そ、そんな訳ないだろ。別に推しが幸せならそれでいいし」
「ふーん。でもあんな美人だったら隠れて付き合ってる男の人がひとりやふたりいてもおかしくないと思うけどな」
「は? そんなの許されるわけないだろ!」
「急に大声出さないでよ」
推しが幸せならそれでいいんじゃなかったの、と沙希が肩をすくめる。
「恋人くらいいても普通のことだとあたしは思うけどな」
「もしいたとしたら俺はそいつを許せそうにない」
「おーおー、過激派は怖いねー」
でも、と幼馴染は笑う。
「もしトワさんが透に告白してきたらどうするの?」
「あの金糸のようなさらさらとした髪、出るところは出て、しっかりとしまってるところは締まってる凹凸のある体躯、聞いたものの心を洗い流すような美声を放つ声は好きだが、決して邪まな想いはなく、いちファンとして――」
「あ、そういうキショイのはいいから」
「遠慮するな。まだまだ彼女の魅力は語り終えてないぞ。特に3周年記念ライブのときの彼女のファンサが神がかっててだな」
「だーっ、あんたのオタトークはどうでもいいの。そうじゃなくて透くんはあの人から恋人になって欲しいって言われたらどうするかって聞いてるの!」
あの神にも等しい存在のトワが俺に告白してきたら。
「……付き合う、と思う」
「うわっ」
ずざっと後退りされた。
「おい、なんだその蔑むような目は」
「いやー、ファンの鑑だなって思って」
沙希はため息をつきながら言った。
「ねえ、透。トワさんには気をつけて」
「どういう意味だ?」
「あの人、普通じゃないと思う」
「そりゃアイドルなんて普通じゃないだろ」
アイドルとはみんなから注目を得られることで輝ける存在。貪欲なまでの承認欲求の塊でなければ到底務まらない仕事だ。
「そうじゃないの。あたしもよくわからないけど……あの人、なにか底知れない闇を抱えてる気がする」
は? 闇?
「ふざけるな。トワは闇じゃない、光だ。この世の不浄を全てを洗い流すような神の恩寵なんだ」
「ほんとうるっさいな、このトワ狂いは」
「じゃあ何か根拠でもあるのか?」
「……女の勘」
「あ? 何だそれ」
聞き返すと、ぷくっと不機嫌そうに頬を膨らませた。
「とにかく、あの人に引きずり込まれないように気をつけて」
「はあ」
訳が分からない。だけどこの幼馴染は昔から妙に鋭いところがある。
一応、頭の隅にとどめておくか。
俺は首を捻りながら、教室に戻った。
◇
放課後。俺は学校を出るとCDショップへと向かう。
今日は《フォーマルハウト》の新曲発売日だ。
もちろん現地に赴かなくてもサブスクで買うことは出来るがCDの方が音質は優れている。それに握手券はCDじゃないとついてこないしな。
押しへの日頃の感謝を込めてCDを全部買い占めるつもりで行ったのだが、
「う、売り切れ……だと!?」
運が悪いことに棚から全て無くなっていた。
さすが今をときめく人気アイドルユニットなだけあって初日から売り切れるのは当たり前か。こんなことなら学校を休んで開店前から並んでおくべきだった。
はぁ、と自分の計画性のなさに深いため息をついていると。
「あの……何かお探しですか?」
声をかけられた。
振り向くと、CD屋の店員がいた。
なぜか目元を隠すように帽子を深くかぶっている。
「はい。《フォーマルハウト》の新曲ってもう無いですよね?」
「そうですね、店頭に置いてある分は売り切れちゃいましたね」
「ですよね……」
店員の言葉にトドメを刺され、膝から崩れ落ちそうになる。
そんな俺の様子があまりにもいたたまれなかったのか、店員さんは声を小さく潜めながら言う。
「あの……ここだけの話なんですけどバックヤードの方にまだ在庫があるのでお兄さんさえよければどうでしょう?」
「え? いいんですか」
「はい。本当は明日出す分なので良くはないんですけども」
みなさんには内緒にしてくださいね、と店員さんは微笑んだ。
……いいのかな。
もちろん俺は願ったりかなったりだけど店員さんの方で問題にならないのだろうか。俺のせいで処分が下ったりしたら嫌だ。
「こっちです」
店員さんに手招きされ、バックヤードへと連れていかれる。
ドアの向こうには、大量の段ボールやら、重要そうな書類やらで乱雑に散らかっていた。綺麗に整えられた店内に比べると、ものすごく殺風景な部屋だ。
なんだか流されるままこんなところに入ってしまったけど、従業員ですらない無関係な人間が足を踏み入れて良かったのかな。
「大丈夫です。今日私以外に誰もいないので」
言葉通り、店員さん以外に気配はなさそうだった。
「あの、店員さんはなんでここまでしてくれるんですか?」
「私も《フォーマルハウト》のファンなので」
「《フォーマルハウト》の?」
「はい、私も欲しいものが手に入らなかったらすごく落ち込んじゃうのでお兄さんの気持ちが分かるんです。だからなんだか他人事とは思えなくて」
「成程……」
だからといって、見ず知らずの他人なんかにここまで積極的になれるだろうか。バレたら最悪解雇されるかもしれないリスクがあるのに。
そこまで出来る理由がどこにあるのかと思ったとき、
がちゃり――と錠の閉まる音がした。
振り返ると、店員さんがドアのカギを閉めていた。
しかもここから逃がさないとでも言わんばかりにドアの前に立ちはだかって、出入り口を塞いでいる。
「て、店員さん? いったい何を?」
「嘘ついて、ごめんね」
店員さんが帽子を脱ぐと、その下から現れたのは、
「っ!? ――な、七星……トワさん!?」
推しアイドルの顔だった。
突然の事態に、脳みそがフリーズする。
店員だと思っていたらトワになった。いや、トワが店員だったのか。
固まって動けない俺の前で、トワが口を開く。
「やっとふたりきりで話せるね」
ふたりきり?
俺と?
「えっと……どうしてここに?」
なんとかそれだけを喉の奥から絞り出した。
「あなたを待っていたの」
「お、俺を……?」
「学校だと落ち着いて話も出来なかったから」
ていうかそれだけのためにCD屋の店員に変装していたのか?
なんでそんな手の込んだことを?
「透くん。この後、時間は大丈夫?」
「えっと……新曲のCD、買いたくて。その、握手券が欲しくて……」
憧れの対象を前にして上手く口が回らない。
「握手券?」
おかしそうに推しが首を傾げる。
目の前に本物がいるのに、握手券を優先するなんて変だと言いたいのだろう。
「いや、それはそうなんですけども。でもトワさんをトップアイドルするために売り上げに貢献したいというか」
「君は握手券の方がいいの? それとも私と握手するのはイヤ?」
目の前に綺麗な手が差し出される。
「君がよければ、好きなだけ触ってくれてもいいんだよ」
「……っ」
これは妄想だろうか。
だってあまりにも都合が良すぎるというか……俺の理解を超えた展開だ。
そうだ、そうに違いない。
ここのところ色々あって疲れて夢でも見ているんだ。
どうせ醒めてしまう夢ならば楽しむとしよう。
「そ、それでは失礼します」
おずおずと彼女の手を取り、指の腹を優しく撫でた。
柔らかい。まるで魚のお腹をなぞっているような、ふにふにとした感触だ。
「ん……っ」
切なげな吐息が、朱色の唇から漏れた。むずがゆそうに身を捩っている。何度も握手会で触れてるはずなのに……いけないことをしている気分になる。
なんだかこれ以上は良くない気がして、手を離した。
「もういいの?」
まだいいんだよ、と推しは目を瞬かせた。
どこか物足りなさそうな顔に見えたのは気のせいか。
「は、はい。その……お金、払いますね」
いくら夢とはいえ、推しの手に好き勝手触れておいてタダというのは罰あたりにも程がある。
えっと、握手券1枚につき3千円くらいで、5秒だったかな。
いま俺は30秒くらい握手したから1万8千円か。
頭の中で計算を組み立てて財布からお金を取り出そうとすると、
「そんなの、いらない」
むっとしたような顔でトワは言う。
「で、でも」
「いいの。これは私が好きでやってることだから」
「本当に真面目な人。でも、そんなところが、たまらなく好き」
「……え?」
がっちりと手を握られ、手の平を撫でまわされる。
指と指の間に手を絡めてくる。
まるで恋人繋ぎみたいだと思ったとき。
「恥ずかしいから……目、閉じて」
「……?」
戸惑う俺の前で。
推しが頬を赤く上気させながら。
顔を近づけてくる。
お互いの息が吹きかかる距離に近づいてくる。
ふわり、と女の子特有の甘ったるい匂いを鼻に感じた。
頭がどうにかなってしまいそうな目まいを覚えたとき、柔らかいものが口に押し当てられて。
――推しアイドルに、口づけをされた。
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