第2話 病院にて

 いつもの病院には、予約時刻の三〇分前に入った。


 蓮実は、ショルダーバッグの中から文庫本を取り出し、とにかく活字に集中することで、逸る気持ちを抑えようとした。


 が、それも、看護師相手に何やら文句を言っている中年女性に気を取られたことで、あえなく失敗に終わってしまった。


 待合室に置いてあるバーチャル水槽や、柔らかなクリーム色に包まれた室内空間に目をやることで、多少なりとも気を紛らわせようと試みる。


 コポコポと音を立てている水槽に気を巡らせながら、やはり三〇分も早く来たのは間違いだったと蓮実は後悔していた。しかし、マンションの部屋でじっとしているのも耐えがたかったので、こればかりは仕方がない。


長峯ながみねさん、お待たせしました」


 診察室から看護師に呼びかけられて、蓮実は席を立った。


 中に入ると、担当医師の御笠みかさがこちらを向いて待ってくれていた。その顔を見るなり、蓮実はすぐに本題へと入った。


「先生。とても大事なことを、思い出したかもしれません」


 御笠は端正な顔を微かに動かした。が、特に何の表情も浮かべることなく、


「そう」


 とだけ返してきた。その冷静な反応に、蓮実は若干気持ちが萎えた。同時に、居ても立ってもいられなかった気持ちが、かなり静まってきた。


 蓮実はやや身を強張らせながら、椅子に腰かけた。


「それで」


 御笠はノートを開き、ペンを右手に持つと、正面から蓮実の目を見据えてきた。


「具体的に、何を、どうやって思い出したのか、説明してくれるかな」


 それが本当に正しい記憶かどうか定かではない――と前置きをした上で、蓮実は昨晩見た夢の内容を語り始めた。


「すると、夢に出てきたのは、お母さんがお父さんを刺している風景、ということだね」

「はい」


 ショッキングな内容を随分とはっきり言ってくれるな、と蓮実は眉をひそめた。


「それは、君が何歳くらいの頃か、わかるかな」

「さあ。よくわかりません」

「えっと、周りの家具は? 箪笥とか、テーブルとか、どれくらいの高さで見えた?」

「たしか私のそばに洋服箪笥がありました」

「そこから自分の背丈を思い出せないかな」

「先生」

「うん?」

「まるで警察の尋問みたいですね」

「いやだったかな?」

「ちょっと。それに、いつもと違うな、って」

「変化があったからね」


 御笠はペンでトントンと自分の頭をつつく。


「これまでの夢は、亡くなったお父さんとお母さんが登場して、ただ話しかけてくるだけだったよね。ところが、今回は大きな変化が現れた」

「その後、のことですか?」

「昨晩、君が見たという夢の内容は、もしかしたら君が十一歳までの記憶を無くしてしまった、その原因となる出来事、そのものかもしれない。そう考えると――」

「先生」


 蓮実は片手を上げて、御笠の言葉を制した。


「先生はいつも私にショックを与えないようにと、慎重に、言葉を選んで接してきてくれました。それが治療方法だと、私は理解しています。ですが、今日は、少し急ぎすぎです」


 あまりストレートに言われると、平静でいられそうにないから、怖かった。


 しばらく沈黙が流れた。


「ごめん」


 御笠は素直に謝った。


「たしかに急いでいた。すまない。なにせ君の担当をしてもう半年になるから、どうにかしてあげたいという気持ちが強くてね」


 蓮実は正面から御笠を見据える。長髪を頭の後ろで束ねて、甘いマスクで、歴の浅い新人。どうにも頼りない。他の先生が担当ならよかったのに、と溜め息をつく。


「とりあえず、順を追って、再確認させてもらってもいいですか?」


 相手のノートを指差す。


「なんだか君のほうがお医者さんみたいだね」


 御笠は苦笑しながら、ノートを蓮実のほうへ向けてやり、ペンを手渡した。


 プロの医者が何を情けないことを言うのか――と、蓮実は若干腹を立てていたが、無視して、わかっている範囲で自分のこれまでを年表形式で書きこんだ。


 一九九二年七月七日。茨城県の玉造町にて誕生。


 一九九九年。小学校入学。


 二〇〇二年~二〇〇五年の記憶が一部ない。このころ両親が亡くなる。


 二〇〇五年。叔父夫婦に引き取られる。


 二〇一〇年。夢を見始める。父の夢。


 二〇一一年。大学入学。母が夢に現れ始める。


 二〇一二年七月七日~八日の夜。夢の中で母が父を刺す。


 ノートにまとめられた情報を目にして、御笠は嘆息した。


「ご両親の亡くなられた時期は、聞かされていないんだったね」

「ええ。叔父さんは、気持ちの整理がついてからと」

「でも、何周忌とか、そういうものをやるから、わかるものじゃないのかな」

「ですから、先生」


 じろり、と蓮実は睨みつける。


「どうしてそういうデリカシーのないことを平気で言うんですか」

「悪い。だけど、これくらいは教えてくれないかな」

「私が、いやだからです。ドラマを見ていても、本を読んでいても、両親の死を連想させる描写があると、すぐ吐いちゃうんです。それに加えて、昨日の夢です。両親がいつ死んだか、どうやって死んだか、記憶を掘り返すのが、怖いんです」

「だけど、知りたいからこそ、こうして定期的に病院へ来ている」


 あくまでも飄々とした態度は崩さず、御笠は反論してきた。


「私はただ、自分でも知らない自分があるということが我慢できないだけで」

「結局、知りたいってことでしょ。自分の過去を」


 ここで御笠は今日初めての笑みを見せた。ぞくりとするほど色気のある笑い方。二六歳という若さを、さらに若く見せる優男の顔で、屈託なくほほ笑まれると、男に免疫のない蓮実はグッと詰まってしまう。


「そういうこと……ですね」


 素直に認めざるを得ない。


 両親はなぜ死んだのか。失われた自分の記憶にどんな秘密が隠されているのか。それを確かめたいという気持ちには、抗いようがなかった。

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