第3話 ヤトノカミ
翌朝、蓮実は寝坊した。
月曜日の一限目はゼミだ。史学科に所属している蓮実は、日本古代史研究に興味があり、第一志望で入った。熱意は十分にある。だから、最初の講義から無遅刻無欠席で通してきたのに、ここへ来てヘマをやらかしてしまった。
「最悪」
自業自得ながら文句を言い、シャワーを浴びてから、白のワンピースと黒いジーンズという、地味でパッとしないファッションに身を包み、マンションの部屋を飛び出した。
エレベーターを待っている間に、同じ階に住んでいる中年女性がやって来た。やはり下に行くようだ。
よくマンションの中で会う人だ。蓮実は密かに心の中で「デラックス」とあだ名で呼んでいる。デラックスはずんぐり太っており、ちょっと身動きするだけでひいふうと息苦しそうにしている。
「こんにちは」
「あらあら、こんにちは。ええと、たしか」
「一〇一二号室に住んでる長峯です」
「そうそうそう! ダンナとね、いつも話してるのよ。とっても綺麗な子がいるって。背も高いし、モデルさんみたいねえ、って。やっぱり綺麗ねえ。うらやましいわあ」
容姿について褒められたが、蓮実は特にお礼は言わなかった。この手の話題は苦手だ。
「ねえねえ、興味があったから聞きたいんだけど、カレシとかいるの?」
「いえ」
「あらま、もったいない。モテそうなのに」
「私、あまり目立たないですから」
と、ずれた眼鏡を指で押し上げて、位置を直した。近視の蓮実は、普段は眼鏡をかけている。銀フレームのあまり色香のないデザインだ。
エレベーターが来て、乗りこんでから、デラックスは話題を変えた。
「ダンナがねえ、スカイツリー行こうって。ほら、うちって新しいもの好きだから。あれって関東一帯に電波飛ばせるんでしょ? すごいわねえ。長峯さんは行かないの?」
「私はあまり興味ないです」
「あら、どうして? お友達と一緒に行くとか、すればいいじゃない。ああ、そうよ、誰かデートに誘えばいいのよ。急接近するチャンスじゃない」
なぜデラックスにパートナー作りの極意を伝授されないといけないのか。蓮実は大仰に溜め息をついたが、デラックスは別の方面に勘違いしたようだ。
「そんなに気を落とすことないわよ。長峯さん、スタイルいいし、美人だし、大抵の男は簡単にコロッといっちゃうわよ」
やたら長く感じるエレベーターの中で、今度から、なるべくデラックスと遭遇しないように注意しよう、と蓮実は強く思っていた。
※ ※ ※
大学のゼミ室に入ると、まだ教授は来ていなかった。
「お、これで全員」
ゼミ長が、浅黒い肌の顔にニカッと笑みを浮かべた。他七人いるゼミ仲間達は、ある者は本を読み、ある者は携帯ゲームをやり、それぞれ勝手気ままに時間潰しをしている。
「教授は?」
尋ねると、机に突っ伏して寝ていた三つ編みの女子が、顔を上げて眠たげに答えた。
「二日酔いだって」
「二日酔い? あの人、やる気あるの?」
呆れてかぶりを振る。と同時に、蓮実はホッとしていた。これで遅刻の事実はなかったことになる。それに教授自身が遅刻しているのだから、文句は言わせない。自分の定位置に座り、先日の講義で配布された資料をバッグから出すと、机の上に並べた。
今期のテーマは、「
日本の古代史を研究する上で欠かせないのが、各地方ごとに編纂された風土記の数々である。西暦七一三年、詔勅により編纂された各風土記には、通史だけでは調べきることのできない様々な記述が載っている。ただ残念なことに、現在は五ヶ国分しか残っていない。
その中でも、教授が特に気に入っているのが、『
史書というより、もはや文学。それゆえに生き生きとした当時の空気感を肌で感じることが出来る、と教授は熱弁を振るっていた。
「常陸、か」
資料の一番上に置いた『常陸国風土記』の一説をコピーしたプリントを見ながら、思わずひとり言を呟く。
隣に座っているゼミ長が顔を向けた。
「そういえば、長峯は茨城の出身なんだろ? 課題、それにしたらどうだ?」
「う、ん」
歯切れ悪く答える。
『常陸国風土記』の資料を教授からもらって以来、ずっと頭から離れない、あるキーワードがある。
蓮実の生まれた
六世紀。まだ関東が未開拓だった頃。時の権力者により討伐され、住処を追われた神々。その姿は蛇身、うっかり夜刀神を見てしまった者は一族もろとも呪われるという。
掌の中に汗が滲んでいる。いつか、学校とは別の場所で、この夜刀神のことを聞いたような気がしてならない。
『夜刀神』
突如、夢の中に出てきた父の声で、その単語が脳内に再生された。
蓮実はびくんと体を震わせる。そのまま何かを思い出せそうな気がしたが、残念ながらあと少しのところで、記憶は、具体的な像を結ばなかった。
夢の中で、父は、夜刀神のことを話していたのだろうか?
それにしても、幼い娘に聞かせるような話でもない。大したオチはなく、ただ蛇神が住んでいた場所を追いやられたという、それだけの内容だ。
伝説ではこう書かれている――
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