12 死の一滴

足守あしもり……っ!」

郡家こおげさん、石蟹いしがさん。それ以上、近づかないでください……そこから一歩でも動いたら、殺しますよ」

「何でアンタが……こんなところにいるわけ」

「石蟹さん、あなたなら分かるでしょう? 私の能力は、強いですよ。そこにいる人たちは、私が殺しました」


 再び女性が指先から液体を飛ばしてくる。浩次さんの反応が一歩遅れ、シャツの袖をかすめた。その瞬間からカッターシャツが異常に熱を持ち、溶け始めた。


「……容赦ないわね」

「たとえ相手が先輩であっても、関係ありません。私は今、命を脅かされているんです。石蟹さんたちも、生きるか死ぬか、その瀬戸際に立たされればそうなるはずです」

「交渉ができないの、それともしたくないの。どっち?」

「どちらも、と答えれば。どうしますか」

「交渉をしたくない、そんなわがままを言ってるだけなら、そこをどいてもらうだけよ。力づくになってもね」

「……分かりました。私が石蟹さんたちを殺す理由ができた、ということですね」


 話しぶりからして、足守と呼ばれたその女性は浩次さんや三笠の後輩らしかった。しかし同時に、警察官とはとても思えなかった。何より、警察官が堂々と人を殺したと宣言したのが信じられなかった。


「警告はしましたよ、私の能力は強い、即死級だと……」


 足守さんが同時に複数の液滴を出し、それらを一斉に放ってくる。避けられないと思った瞬間、その軌道が不自然にねじ曲がり、全ての液滴がひとまとまりになって壁に当たり、コンクリートを溶かした。軽く手で空を切り、ため息をついたヤシロがいつの間にか目の前にいた。


「なっ……」

「その液滴を出してから放つまでに一手あるな。それであれば造作もない。むしろこの工場の物理的な解体に一役買ってくれて助かる」

「な、なんなのよ、その能力は……!」

「教えたところで、貴様に対処はできない。俺の能力は貴様の完全なる上位互換だ」

「な、によあなた……っ!」


 液体、気体であれば何でも対応できるらしい。ヤシロの能力にももしかすると限界があるのかもしれないが、少なくともいったん、あの液で身体を溶かされることはなくなった。しかしそうだとしても、俺たちに手立てはない。彼女に攻撃を通せるとすれば、それはヤシロだけだ。あるいは三笠も何かしらできるかもしれない。


「触れただけであらゆるものを溶解させるとは、相当危険な能力だ。いかに元警察官とはいえ、何故なにゆえそのような能力がお前に宿った?」

「知らない……でもこれを手放す時は、私の命も……だから、あなたたちを殺すしかないの……!」


 足守さんの顔は恐怖で引きつっていた。まるで恐ろしい幻覚にうなされているかのように。目の前にいる俺たちよりもずっと恐ろしいものに、脳内を支配されているように見えた。


「能力を失うのがそれほどまでに怖いか?」

「……この力を失えば……もう、私は、私でなくなる……空っぽになった私なんて、何の価値も」

「それは相当、能力に侵されている証拠だ。おそらく心臓や脳にまで深く根を張っているのだろう、であれば能力を失うことは、心臓を引きちぎるのと同義だ」

「……っ!」

「自由度や威力の高い能力ほど、依存性は極めて高くなる。並の人間には到底扱いきれない代物ばかりだ。お前にその能力は不釣り合いだった。それだけの話だ」

「……うるさい! あなたに私の何が分かるというの……!」


 金切り声が響く。反射的に飛ばしてきた液もすべて、跳ね返って足守さん自身の手に当たる。直後、そこが溶けて絶望的な叫びがこだました。


「うぅ……あぁぁ……」

「お前はもう助からない。いずれ能力に完全に支配され、どのみち人でなくなる。人格よりも能力が優先され、自我は消え失せる。そうなる前に、ここで一度命を落としておくのが賢明だ」

「クソ……ッ!」

「お前の能力の解析は終わった、ここでお前が死ぬことで、お前の能力によって他の人間が犠牲になるのを防げる。お前の死は、完全には無駄にならない」

「……っ」


 悪あがきで足守さんが出した無数の液滴もヤシロにあっさりといなされる。くるりと反対方向を向いたそれらはすべて、足守さんの身体を貫くように濡らす。肌や服に濡れ広がったそばから溶解が始まり、すぐに彼女は原形を失った。あまりにもあっけなく、俺はしばらくそれが一人の人間の死であることを理解できずにいた。


薫子かおるこ……アンタ……」

「奴の能力は推測するに、酵素異常反応ミカエリスだ。あの液滴にはあらゆる物質を分解する酵素が含まれている。触れた瞬間、異常反応を起こし溶解させるという仕組みだ」

「……あなたは、最初からそれを知っていたというの」

「俺の辞書にはあった。俺たちが管理している危険な能力の中で、所在が分からなくなっていたものの一つだ。後から考えれば、確かにこの施設の防御には有用かもしれんな」

「……そんな軽い一言で、片付けていいのか」

「それはあの女に感情移入しているから出た言葉に過ぎない。どこの誰とも知れない奴が死んだとていちいち気に留めないはずだ。これほどまでに能力がこの街に蔓延はびこってしまった時点で、そのような情は捨てるべきだろう」

「それでも」

「優しいのは大いに結構だが、自分自身の首を絞めるぞ。ここにはたまたま訓練された人間しかいないから、お前の方が正常な感覚であるように思えるかもしれんが。実情は逆だと思った方がいい」

「……俺は、折れない。人並みに、知り合った人間の死を悼む。悲しむし、やりきれない気持ちをごまかしたりもしない。それで心がもつんなら、あんただって何も言わないだろ」

「好きにしろ。そのままではお前は必ずオーバーフローすると、警告しているだけだ。警告を無視する人間を引き止める権利はないし、義理もない」


 ようやく吐き気の落ち着いた俺は、浩次さんに言って下ろしてもらった。目の前で人が死んだことは紛れもない事実だ。それでも、これからもっと見ることになるかもしれない。ヤシロの言うことは、ある意味正しい。


「『酵素異常反応』は、初見の人間であればまず回避できない。ここで相当数の自警団が犠牲になったのかもしれんな」

「……それって、死んでいたあの二人以外にも」

「被液して時間が経っていればそれだけ、人間の遺体の姿からはかけ離れてゆくだろう。服すらも溶かすのだから、弔おうにも欠片も残っていない、そんな奴がいたのかもしれんな」

「そんな能力が、足守さんに……」

「人を殺めてはいたが、奴も被害者であることに変わりはない。異能製造工場は、得てしてああいう人間を生み出すのだ」


 ヤシロはすたすたとさらに奥へと進んでゆく。フロアの中心らしき場所を貫く廊下の脇にはいくつか会議室があったが、そのどれもが一度も使われたことのなさそうな雰囲気を醸し出していた。薄暗いその部屋の一つ一つから何か飛び出してこないか警戒しながら、俺たちは小さな非常扉の先から地下二階へと進んだ。




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