2 逃げる
「はあ、はあ」
敵から逃げる時に真っすぐ行ってはならない。地形を利用し、細い路地に入るなどしてなるべく撒くことを考える。それを思い出しては実行し、勝ってきた試合もいくつかあった。断片的にでも、リアルでそれを思い出せてよかった。おかげで本当に全速力で逃げなければならない場面は、比較的すぐに脱することができた。仕込みの真っ最中なのか、中華料理屋のダクトから豚骨スープの匂いを感じながら、俺はその場にへたり込んで息を整える。腹がいっぱいなのと息が上がっているのとで、いつもなら食欲をそそる匂いのはずが、逆にそれでえずいてしまった。
「なんなんだ、あいつら……っ」
いかに大阪府警の人たちが強面揃いで、どちらがスジモンか分からないと言っても、一般人の家を爆破することなんてないはずだ。日本の警察は撃てない、とまで言われているのだから。どう考えても、あの男たちは警察ではない。警察を
「まさか、本当に『私刑』が」
独裁制が敷かれている国や、国民主権の存在しない国でしかあり得ないと思っていた、私刑。いったいあれで今まで何人が殺されてきたのだろうか。もしも今日たまたま有休だったら?あの武装集団がいかにもな服装ではなくただの私服だったら?俺が殺されていた未来はいくつもあったはずだ。今こうして逃げられていることすら、奇跡に過ぎない。そして俺が今把握できている情報は、追っ手が警察ではない何者かということ。それだけしかない。
「どこに行けば、一番安全なんだ」
こんなところでいつまでも休んでいる場合ではない。今は大丈夫でもいつかは腹が減るし、喉が渇くし、寝る場所だって確保しなければいけない。どういうわけか、こんな命が危ない状況では、仕事には行けない。あの武装集団がはっきりと俺を認識していた以上、とにかく他人に顔を見せること自体が危険だ。俺はリュックの中にマスクを何枚かストックしていたのを思い出し、せめてものカムフラージュと考えて顔の下半分を覆った。マスクのあるなしで顔の印象は全然違うと言うし、少しはマシだろう。
「モノレール……大丈夫か」
顔でバレないのを前提にしてはいるが、モノレールで乗換駅まで行き、そこから別路線まで行ければ人混みに紛れられる。
「……千中だ」
だが迷ってその場にとどまっていれば、その方が捕まるリスクが高い。どうして何も悪いことなんてしていないのに、追われる身になっているのか。文句を言いたい気持ちでいっぱいだが、それは誰かに身を寄せられるようになってからで遅くない。改札を入ると同時に滑り込んできたモノレールに乗り込み、俺は
「行け!」
しかしそれだけ考えてもダメだった。必ず今日、俺の息の根を止めると、どこかからお達しでも出ているのだろうか。追っ手らしき人間が来ているのが見え、慌てて途中の駅で降り、改札を出たところですぐそこまで迫られた。
「……っ!」
息がめちゃくちゃになっているのを自覚しながら、それでも走る。どうせ千里中央で降りたとして、乗り換え先の大阪メトロの改札も張られていただろう。駅舎を飛び出して、とにかく行き止まりでなさそうな道を見つけたら入るのを繰り返した。だがそれすらも誘導されていたらしい。気がつけば行き止まりの裏路地で、真っ黒な服で武装した三人に追い詰められていた。
「な……何なんだよ、あんたら」
精一杯声を振り絞って尋ねた答えは、銃を向けることによる脅しだった。上に何か組織の存在があるとして、何としてでも俺を殺せと命じられているのだろう。
「終わりにしよう。お前も疲れただろう」
「何で、俺を殺すんだ」
「人を殺すのに、理由が必要か?」
「……っ!?」
俺は話の通じない人間を相手にしているのだと、その時悟った。暗殺を生業にしている集団か何かなのだろう。それにしてはやることが派手過ぎる気もするが、いずれにせよ俺が敵う相手ではないことは間違いない。殺される理由、死刑と断じられてしまった理由さえ分からないが、分かったところで仕方のないことなのかもしれない。俺は目を閉じ、せめて自分が死ぬ瞬間は見ないようにしようと息を止めた。
「――っ!?」
銃声が三発。軽快ささえ感じさせるリズムでとどろいた。だが俺は息ができたし、どこも痛まなかった。おそるおそる目を開ける。
「こっちに!」
俺を殺そうとしていた三人が全員ヘッドショットを決められ、その場に倒れていた。女性にしてはくぐもった声のした方を振り向くと、こちらに向かって手を伸ばす、警官の格好をした女性が一人。
「事情の説明は後よ、とりあえず匿ってあげるから、こっちに来なさい」
考える暇はない。すぐに増援が来るかもしれなかった。俺は彼女の手を取る。その瞬間、首に手刀を入れられ光が弾け、視界が暗転した。次に気がついた時には、マンションの一室の前にいた。
「な……え、どうやって……」
「それはどうでもいいでしょう。私は特に気にしないから、入って」
「こ、ここって」
「私の家。住所は非公開にしましょう。あなたは一応まだ、要注意人物だから」
何もかも分からないが、彼女に言われるがまま、俺は後について家に入る。外見はただのマンションの一室だったが、内装はおしゃれで、実際よりもっと豪勢に見えた。
「お、お邪魔します……」
「私はまだ少しやることがあるから。とりあえず落ち着きたいでしょう、シャワーでも浴びて」
「え、いや、その」
「早く」
落ち着いてほしいのか、急かしたいのか。早速矛盾してるよな、と思いつつ、俺は彼女の勧めに従う。
「……あなたも、『転生者』について、考えないといけない時が来てしまった。きっともう、生き残るか、それはもう凄惨な死に方をするか。二つに一つしか、なくなってしまった。どちらがいいかだけ、考えておいて」
大した情報量もないのに、見知らぬ女性の訳の分からないアドバイスのせいで、俺の頭の中はまたぐちゃぐちゃになる。が、生きたいか死にたいかで言えば、生きたいよなと思う。今日だって仕事から帰ってゲームをする予定だった。これからしばらくゲームはできない。それが嫌だな、と考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます