第16話 アフロディーテの悪戯

一条邸が警察の訪問を受けた11月より2ヶ月前の9月

希望が丘女子学校 3年1組


「真帆、今日は新しく出来たって言うパンケーキカフェに行かない? ディズニーの話聞きたいし!」


「んー、ごめんなさい! 今日は予定があるの。また、今度にお願い」


 林真帆は取り巻きの1人のスマートフォンを覗き込み、別の日の設定を促した。


「真帆抜きで行くわけには行かないものね。そうしたら来週の……」


 別日に約束をし、取り巻き達と学校の外で別れると、真帆は一人駅とは違う方向へ歩いていく。

 学校から離れ、人影が無くなった路地裏に一台の車が停まっていた。

 慣れたように助手席に乗り込んだ真帆は「お待たせ」と運転席の男に微笑んだ。

 それを合図に滑り出すように車が大通りへと向かう。


「先生、場所大丈夫? ナビに入れる?」


 ハンドルを握る男の左手に触れながら真帆が訪ねる。


「もう入れた」


 真帆を一瞥もせず運転を続ける渡邉は、ナビの案内するフレンチレストランへと車を走らせていた。


「ふふっ楽しみ! この間SNSで見てから、ずっと行きたかったの!」


「凄い店だよね、俺、頼まれてたとしても予約の取り方から検討もつかない」


「何言ってるの。先生、面白い」


 真帆は鞄からポーチを取り出して、メイクを直し始める。


「……真帆は、何で俺と付き合うの?」


 突然の問いに真帆は横へ顔を向ける。見えたのは、変わらず前を見続けている渡邉だった。


「何でって、恋をしたかったから。渡邉先生とならって思ったから」


 鏡に目を戻して、アイメイクを盛りながら答え


「どうして?」


「だって恋は皆するでしょ? 相手は誰でもいいってものでもないけど、ピッタリな渡邉先生が居たんだもの。そういう先生こそ、どうしてって聞いて欲しいの?」


「それは真帆が好きだから」


 お互いに目を合わせず、淡々と会話が続く。


「一緒じゃない」


 くすっと可愛らしく笑うと、真帆は楽しそうにリップを塗った。


「恋をしたら綺麗になるって言うのも本当だったし」


 上下の唇を馴染ませ、満足げに微笑む。


「そう?」


「えーっ、先生がそれ言うの? 私、流石に拗ねますよ」


 ポーチをしまいながら渡邉を見る真帆に、赤信号で停まった渡邉が初めて顔を向けた。

 窓から差し込むライトの光しかない薄暗い車内でも、真帆は艶めいて美しかった。


「真帆は元から綺麗だよ。日に日に綺麗になっていくから、正直俺なんかが申し訳ない感じする」


 青信号と共に渡邉はまた正面を向いた。


「私は全部先生のお陰って感謝してるけど?」


 真帆もまたフロントガラスに顔を向ける。


「先生と付き合ってなければ、金井さんや一条さんを見て落ち込んでいただろうし」


 またこの名前か……と思いつつ渡邉は表情を変えない。


「……2組の金井栞と2年の一条美月? 真帆は真帆よりあの二人の方が美人だって思うの?」


「実際目の当たりにして分かったけど、恋人がいる人の美しさって別次元だもの。先生に愛されてなければ絶対に敵いっこない」


「……恋人がいるの? あの二人」


「先生は見て気づかなかった? 金井さん、新学期は別人みたいに綺麗になってて。皆噂してた、夏休みに恋人とえっちしまくってたんだろうって」


 自分の言葉の下世話さに呆れたみたいで、真帆は自嘲気味な笑いを見せた。

 渡邉は金井栞を思い浮かべた。

 それから、真帆、島崎……と自分が関係を持った生徒達を思い浮かべた。

 程度に差はあれど、彼女達が、身体を重ねる度に魅惑的になってゆくのは実感していた。

 少女から女性へと羽化していく。きっとその美しさの話をしているのだろう、と思った。


「一条は違うだろ。夏休みの前も後も変わらずで、男なんて苦手そうだ」


 渡邉は温室での美月を思い出していた。

 貞淑なダフネー、汚れなき無垢な精霊……


「それがまんまと騙されてるのよ。男の人は興味ありません、苦手ですーって見せかけて、お兄さんとは恋人みたいにいちゃいちゃしてるんだから」


 え?

 アクセルを踏む足に知らず知らず力が入る。

 真帆は気づいていないが、車が静かに加速する。


「一条さんの、他とは一線を画する? 独特な美しさが不思議だったけど、私達の誰よりも先に男の人と愛し合ってたのなら当然だわ。むしろ、説明がつき過ぎて納得なの。お兄さんとそう・・なってるから他の男の人は苦手なのよ」


 渡邉の頭の中をいつかの島崎の言葉が反芻はんすうする。


「それ…なんで分かったんだ?」


「三者面談の時に見たのよ私、一条さんがお兄さんといちゃいちゃしてるのを。自分が渡邉先生とそうなったから分かる直感なんだけど、あれは、きっと、ううん、間違いなく、デキてる距離感よ。歳も離れてるし、義理の兄妹だって話もあるし、お兄さんの自慢話多いし、そういうことかって。あ、でもコレは誰にも言ってないから、先生と私だけの秘密にしてね。禁断の関係って共感するじゃない?」


 真帆はそう言って渡邉の方を見た。

 薄暗さではっきりはしなかったが、渡邉の横顔は少し笑っているように見えた。

 

「先生?」


 急に黙り込んだ渡邉を真帆が気遣う。


「……店に着いたら、真帆だけ先に下ろそうか?」


「んー、大丈夫。駐車場から一緒に歩いていくから」


 真帆は優しい渡邉に満足げに微笑む。

 それから、窓の外へと視線を戻した。


 良かった……、さっきの話のせいじゃなくて。

 実は、少し、大袈裟に話してしまったから、と真帆は心配していた。


 三者面談の日、職員室に用があり前を通りかかった真帆は、廊下に佇む一条美月を目にして足を止めた。

 このまま顔を合わせたら挨拶しないわけにはいかないし、場合によっては一緒に廊下で話をしなければならない。

 面倒だから、美月がじきに立ち去るのなら、それまで待とうと様子を見ていた。

 すると、一人の男が美月に歩み寄った。

 抱き合いそうな距離で見つめ合い、髪を撫でた。

 微笑み合い、肩に触れ、視線を絡ませたまま二人で立ち去った。

 気づかれないように見ていたから、よくは見えなかったけれど、ちらと見えた男の顔はとても美形で、立ち姿も魅力的だった。「あぁ、これが噂のお兄さんね」とすぐに分かった。

 美月の嬉しそうな顔もだけれど、美月を愛おしそうに見る兄が、真帆の胸を大きくざわつかせた。

 恋愛映画のラブシーンみたいな、むずがゆい高揚を感じた。

 わたしも・・・・、と思った。


 既に渡邉とは関係を持っていて、経験しておくという目標は達成され、真帆は興味を失い始めていた。

 それが、デートをしてみたい、もっと恋人らしいことをしてみたい、に変わった。

 渡邉といちゃいちゃしたくなって、実行に移した。

 実際、思っていた以上に悪くない。

 渡邉に優しくされると、大事に扱われると、嬉しさがこみあげてくる。

 ……先生、もっと、あのお兄さんみたいに愛おしそうな目で私を見てよ……。

 そうでないと、私、一条美月に嫉妬する。

 そんな私、さっきみたいに感情にあおられてしまう私、私らしくないの。


 駐車場からレストラン入り口まで続く街路樹には、既にイルミネーションが飾られている。

 真帆は渡邉の腕に抱き付くと、恋人同士宜しく光の路を進んで行った。




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