第15話 シトラス the sea told us

一条邸が警察の訪問を受けた11月より2ヶ月前の8月終わり

江ノ島


 スマートフォンを確認しながら、なんとか美月は待ち合わせの港まで辿り着いていた。

 夏休み最後の週ともあって、江ノ島を訪れている観光客の数は少なくない。

 港の近くまで来ても、様々な利用目的の人々が行き来していて、美月は飽きずに時間を潰すことができた。

 しっとりとした潮風が夏の終わりを告げていた。


 ピンポンッ

 軽快な音ともにスマートフォンが震える。

 秀平から「もうすぐ着く」とメッセージが入っていた。

 「美月は着いてるよ(((o(*゜▽゜*)o)))」

 返事を送って海の方を見ると、港に停泊する船を見つけた。

 あれかな、と少し近づいてみる。胸がわくわくする。

 たくさんの人が降りて来て、船の近くで立ち話をしている。大きな荷物を運ぶ人々もいて、その中に、キラと輝く髪を見つけた。


「秀ちゃんっっ!!」


 美月は大きな声で呼んでみる。

 自分を呼ぶ声の主に気づいたらしい秀平は、太陽の光を受けながら大きく手を振った。

 美月も手を振って返す。顔が綻ぶのを止められなくて照れてしまう。

 周囲の人と少し話した後、秀平は美月のもとへ駆け寄って来た。


「秀ちゃん、お帰りーっ」


「ただいま。出迎えごくろーっ。すんなり来れた?」


「うん! 江ノ島すごい! めっちゃわくわくするっ」


「時間は十分あるから観光して帰ろう! 片付けとか挨拶だけ済ましてくるから、も少しここで待ってて」


 そう言うと秀平はまた船の方へと走って行った。

 秀ちゃん、少し日に焼けたみたい。

 わずか数日会っていないだけなのに印象が大分変わって見えるものだ、と美月は思った。


 秀平は大学院に進学している。大学院生には夏休みのようなものはないらしく、8月に入って美月が実家に帰省してからも秀平はよく大学へ通っていた。

 夏休みの前半は寮に、後半はずっと家に居る美月に気を遣ってだろう、秀平は何かと外出や旅行を提案して来たけれど、美月はほとんど断った。既に入っている大学の予定と調整している様子に、遠慮した方が気持ちが楽だったからだ。

 むしろ秀平が気を遣わなくていいように、美月は「出かけるのは面倒くさい」という素振りを装ってきた。それくらい、今夏の秀平は忙しそうに見えたのだ。


 研究室のフィールドワークで海に出ることもあるらしく、朝が早い日もあった。

 朝が早いからか、体力仕事が増えるからなのか、帰ってきてからうたた寝していることも多かった。

 その姿を見ると、出掛けたいという気持ちすら覚えなかった。

 ところが先週、「今回のフィールドワークは2泊3日、船に乗っての海洋実習」という魅力的な話を聞いた時、つい羨ましいと思ってしまった。というか、思いっきり「秀ちゃんずるい!」と言葉がこぼれてしまった。

 下船する湘南港で待ち合わせての江ノ島観光を獲得したのは、そうした経緯だ。


 ふふっ

 気を抜くと嬉しさに頬が緩んでくる。

 口許の筋肉に力を入れ直して、秀平が乗っていた船を眺める。

 白くて大きくて綺麗な船だなぁ。

 あんな船に乗って、海の上で夜を明かすなんてどんななんだろう。

 秀ちゃん、きっと楽しいんだろうなぁ、と美月の想像は膨らんだ。


 美月と居る時の秀平はいつも美月中心だ。

 だから、秀平は美月の世界・・・・・にだけ存在する願望まぼろしなんじゃないかと錯覚しそうになることがある。

 けれど、こんな時は逆に、美月とはまるで関係なく、秀平自身の世界に存在し、生きている固有の人間なんだ、と実感する。

 美月には、それが嬉しい。

 

「お待たせ。さぁ、どこから見る?」


美しい船を背に、実物が戻って来た。


「秀ちゃん、荷物それだけ?」


「いや。研究室の皆に持ってって貰った。みんな美月に会わせろってうるさかったけど」


「え! そうなの? ちょっと恥ずかしいけど私全然会ってもいいよ? いつも秀ちゃんがお世話になってる人たちに挨拶したい」



 美月は遠く、船の前に固まっている集団に目をやった。


「いーのいーの。しらすコロッケ食お」


 秀平に促されて美月は船と海に背を向けて歩き始める。


「食べる! しらすパンも食べたい!!」


 夏休み終わりの江ノ島観光のスタートだ。



***



 食べて、笑って、はしゃいで、景色を眺めて、江ノ島内を散々に遊び尽くした一条兄妹は、展望台に来ていた。


「結構風強いな」


「ね! これだけ風吹いてると少し肌寒いかも」


 濃淡のグラデーションが美しい海を見下ろし、楽しい一日は終わったのだなぁ、と美月は感慨にふける。

 夏休みの終わりを実感すると、これから戻る学校での日常生活が脳裏に浮かんできた。

 肌寒さのせいか、忘れていた不快感が首筋によみがえって、美月は少し眉をひそめた。


「寒い? もう、行こうか」


 風からの盾になるように立ち、秀平が言う。

 たったそれだけで風の強さや肌寒さがまるで違った。

 ……秀ちゃんってほんと優しいよね。

 展望台から下りるべく、屋外から屋内展望スペースへ移動する間、美月の目は秀平を追う。

 秀平の顔を見ると安心する。


「?」


 妹の視線に兄は顔で問いかける。

 美月は意を決して口を開いた。


「秀ちゃん…。右の耳、触って貰っていい?」


「みみ?」


 秀平のきょとんとした表情かおに、こぼれ落ちそうな大きな目で美月は頷く。

 できれば、何も聞かないで欲しい、という意思表示だ。


「…こう?」


 秀平の左手が美月の右耳をすっぽり包み込むように掴んだ。

 とたんに秀平の手の熱が右耳全体から周囲へと伝わっていく。

 ……やっぱり! 秀ちゃんの暖かさで、あの変な、残って消えなかった気持ち悪い感触が消えていく。

 美月は自分の手を添えて、耳を掴む秀平の指を広げると、触られたうなじのあたりにもその指が触れるようにして押さえた。耳から首までがぽかぽかと温まっていく。


「……美月……、これ、なんのおまじないだ?」


 秀平の質問に、美月は添えた両手に力を込めた。

 気持ち悪い感触が完全に消え去るまでは、手を離されては困るのだ。


「もうちょっと待って……伝わるまで……」


 秀ちゃんの、癒しの熱パワーが完全に伝わるまで……

 意味不明でも、説明出来ない以上は押し切らないと。

 美月がそう考えていると、


「あぁ、骨伝導?」


 そう言って秀平は空いていた右手で美月の左耳からうなじにかけてを包んだ。


「人間イヤホン~♪」


 両手で挟まれて、ふわぁっと秀平の温度に美月の頭部全体が包まれる。

 皮膚に残っていた不快な感触の記憶が上書きされていく。

 美月は嬉しくて、ヘッドホンにするように秀平の両手に自分の両手を重ねた。


「ちっがうよもぉ~秀ちゃんってば、これほんとに人間イヤホンじゃんっ!」


 美月からとびっきりの笑顔がこぼれるのを見て、秀平は美月の頭の上に顎を乗せ歌を口ずさみ始めた。

 美月の好きなJーPOPアーティストの曲だ。


「もぅウケるっあご当たって響くから~っ」


「そりゃ骨伝導だからな」


 ふざける秀平に笑いながら、美月も一緒に歌い出す。

 頭部だけじゃなく、身体全体が暖かさに包まれていく。

 ほのかに、爽やかで甘い柑橘系の香りがした。

 ……秀ちゃんの身体からする? いい匂い……

 夏休み終わりの江ノ島観光は、音楽と、香りと、手のひらと、三つの感覚共演のフィナーレで幕を閉じようとしていた。

 その心地よい感覚に浸るように、美月は目を閉じた。

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