第2話 衝立の奥
「はあ……。やっと終わった」
六時間目の授業の終了を告げる鐘が教室に鳴り響く。私は、ぐーんと背伸びをして、机の上の教科書とノートを鞄にしまった。
「佳奈ー、今日遊べる?」
私の数少ない友人である中田綾が、チャイムが鳴り終わるなり話しかけてきた。
「ごめん、今日塾なんだ。また今度誘って」
「ええー、まあ、分かった。じゃまた今度ね」
本当は今日、塾なんかない。ただ、早く帰って一人になりたいだけ。なんの躊躇いもなく口から出た嘘に、少しだけ罪悪感を感じたけど、昨日も夜遅くまで受験勉強をしていたせいで睡眠時間が削られて、友達と遊ぶどころではなかった。人一倍努力しないと周りに追いつけないことは自分が一番分かっている。
綾は内気な私とは何もかも正反対で、一緒にいると楽しいけど、その反面、自分に無いものを自覚させられるようでしんどくなってしまう時がたまにある。綾が悪いわけではないのは私だって分かっている。それなのに、意味もなく人と自分を比べて、心が沈んでしまう。
「じゃあまた月曜日ねー」
「うん、またね」
綾は元気だな。学校が終わってから友達と遊ぶ元気なんて私にはない。ぞろぞろとクラスメイトが帰宅していく中、なぜだか分からないけれど、私はある人のことを思い出していた。今まで思い出すきっかけすらなかった人。
──十文字先生。たまに校内ですれ違うことがあるけど、全然こっちを見てくれないし挨拶もしてくれない。全身真っ白だから凄く目立つのに、なんだか存在感が薄いというか、とにかく変わった先生だ。入学式で先生たちの紹介があった時、軽いスピーチは聞いたはずだけど声も思い出せない。確か、カウンセリングの先生的立ち位置で、保健室にいるんだよね。
なぜかあの先生のことが気になった私は、四階から一階まで階段を降りて、下駄箱に行く前に通る保健室の前までやってきた。保健室のドアになにやら張り紙が貼ってある。
ハーブティーを飲んでリラックスしよう
・時間、昼休みと放課後
・場所、保健室
・担当、十文字先生
きっと十文字先生の字なのだろう。やたらとクネクネした独特な手書きの文字で書かれている。
私はそっと辺りを見回してから、保健室のドアをノックした。
「あ、あの……三年一組の平野です。十文字先生って、今いますか?」
ドアを開けてまず目が合ったのは、保健室の先生である古田先生だった。所謂、優しくておっとりとした保健室の先生というイメージからはかけ離れているけど、近所の年上のお姉ちゃんみたいで取っ付きやすくて私は好きだ。
「ああ、いるよ。ちょっと待ってね。ハーブさーん、三年一組の平野さんが呼んでるよー」
古田先生が、保健室の中央あたりに立てられている
「はいはい、お待たせえ、十文字です。ごめんね、今棚の整理してたんだ。では、どうぞ奥に」
片腕いっぱいになにかの小瓶を抱えながら、手先だけでちょいちょい、と手招きする姿は、映画に出てくる変なドクターか科学者のようだった。白いカーディガンが白衣に見えなくもない。
「失礼します……」
私は案内された衝立の奥に設けられたスペースの椅子に腰掛けた。日当たりのいい窓際には沢山の植物が並んでいた。その窓の下に置かれた長机には、ずらりと小瓶が並べられていて、まるで実験室のようだ。中に入っているのはハーブだろうか。
十文字先生は、持っていた小瓶を適当にぐちゃっと棚にしまうと、私の向かいの席に膝を抱えるようにして座った。
「さて、今日はどんなブレンドにしようか」
着席しただけで私はまだ何も言っていないのに、前置きも説明もなく早速お茶会が始まった。どうやら、一からブレンドティーを作ってくれるみたいだ。
ドアの張り紙と同じく癖の強い字で書かれた手作りのメニュー表をテーブルにささっと並べ、ニヒルな笑みを浮かべて私を、いや、私のみぞおち辺りを見ている。全然目が合わない。
「あ、あの、お片付け中に来てしまってすみま──」
「いいのいいの。そんなことより、ほら、選んで選んで。君の為のスペシャルブレンドを淹れるよ」
私が言い切る前に十文字先生の声が重なる。少しハスキーでバリトンの効いた声。低くて優しい声だった。でもやっぱり、全然目が合わない。
「は、はあ……。でも私ハーブティーなんて飲んだことがなくて」
「渋いのと爽やかなの、どっちが好き?」
間髪入れずに十文字先生が質問を投げかけてくる。
「うーん、爽やかなの?ですかね」
「じゃあ酸っぱいのと甘いのは?」
じーっとメニュー表を見つめながら次々と質問をしてくる。あまりにもテンポが良くて、なんだか面白い。
「ちょっとだけ酸っぱいのが好きです」
「分かった」
ぴょん、と椅子から飛び降りて、スリッパの踵をパタパタ鳴らしながら窓の方に向かうと、一つ、二つ、と種類の違う植木鉢を手に取る。棚の横の小さなキッチンのようなスペースからハサミを持ってきて、生えている葉っぱを収穫しはじめた。観葉植物かと思っていたけどハーブだったんだ。ある程度収穫が終わるとキッチンに戻り、水の入った鍋を火にかけると、今収穫したハーブ達を軽く水洗いしていく。そしてそれを手で細かくちぎって、ガラス製の透明な小さいポットに入れていく。もう既にハーブの香りがこちらまで漂ってきていて、レモンのような爽やかな香りと、スーっとするような嗅いだことのない香りがした。
暫くして、沸騰したお湯をハーブの入ったポットに注ぐと、お湯の色がじんわりと黄緑色に染まった。壁に引っ付いていたタイマーをピピピっと、多分三分にセットして、棚からガラスのカップを二人分取り出すと、私の前に並べた。一連の流れがあまりにも手際良くて、見ていてあっぱれだった。
三分間待つ間、十文字先生はさっき適当にしまった小瓶の整頓をしていた。私はその後ろ姿をぼーっと見ながら考え事をしていた。十文字っていう苗字かっこいいな。何年前からこの学校にいるんだろう。というか何歳なんだろう。髪の毛のカールは天パかなあ。白いジーパンの裾、かなり擦ってるけどいいのかな。あの格好じゃカレーうどんは食べれないな──。
ピピピピッ!ピピピピッ!
「わっ?!」
どうでもいいことをぼんやり考えていたら、突然タイマーが大きい音で鳴るもんだから、びっくりして情けない声を上げてしまった。私は物凄く恥ずかしかったのに、十文字先生は一切気にしていない様子で、余計に恥ずかしくなった。
「よし、三分経った」
湯気で曇ったポットをゆっくり傾けて、二人分のカップに交互に注いでいく。そして、いつ切ったのか分からないレモンの薄切りを水面に浮かべた。
「飲んでみて」
十文字先生が、骨ばった白い手でカップを私の目の前まで押し出してくる。
「い、頂きます……」
鼻腔をかすめる独特な香りに一瞬躊躇ったものの、勇気を出してグイッと一口飲んでみた。
──美味しい。レモンの爽やかな香りと、飲んだ時に後味がスーっとする感じ。あっさりしていて美味しい。ハーブティーって、もっとえぐみが強いものだと思っていた。
「先生、美味しいです!って、え?」
私が味の感想を伝えようと十文字先生の方を見ると、苦い顔をしてカップに蜂蜜をこれでもかと注いでいた。
「あ、美味しかった?よかったよかった。僕には甘みが足りなかったよ」
さっきまでの揚々とした態度とは打って変わって、明らかに落ち込んでいるように見える。
「私はとても美味しいと思います。これ、なんていうハーブなんですか?」
私がハーブについて質問すると、ぱっと顔を上げて、やっぱり私のみぞおち辺りを見ると、嬉々として語りはじめた。
「今回はね、レモングラスとアロマティカスを入れてみたんだ。どう見ても雑草みたいなやつがレモングラスで、ぷにぷにしたのがアロマティカス。レモングラスはね、名前の通りレモンみたいな香りがするんだよ。アロマティカスは、なんていうかスースーしてるよね。単体で飲むと湿布っぽいけど何かとブレンドすると気にならなくなる。ハーブだけだとどうしても変な臭みとかが気になる人が多いから、レモンを切って乗せてみた。まあ僕は蜂蜜を入れたけどね。でも気に入ってくれてよかったよ」
ほとんど息継ぎなしの説明を聞いて、私の方が息が詰まりそうだった。この人は本当にハーブが好きなんだな。
「アロマティカス?の葉っぱって可愛いですね。薄く毛が生えてるんですね」
「分かる?可愛いよねえ。収穫する時ちょっと可哀想なんだよね。まあ頂くために育ててるんだけど。あ、そうだ。ちょっと待ってて」
そう言っておもむろに立ち上がると、アロマティカスの鉢から新芽のついた茎を一本収穫して、空き瓶に水を入れて挿した。
「これあげる。枕元なんかに置いておくといい匂いがするよ。毎日水を替えてあげれば根っこが出てきたりして面白いよ」
大きな手でつまむようにして小瓶を持って私に渡してくれた。
「いいんですか?ありがとうございます。本当だ、いい香りがする」
摘みたてのハーブの香りは一段と強く、ぱっと目が覚めるような爽快さがあった。
その後、最終下校の放送が鳴るまで、時間を忘れて十文字先生とお喋りをした。途中で古田先生も交えて三人で話していると、古田先生が恋愛の話をし始めたので、その流れで私が十文字先生に年齢を聞いたら、二十四歳だと教えてくれた。
「さ、もう生徒は帰らないとだね。いやあ、美味しくできたようで何よりだよ。またいつでもおいでよ」
「ありがとうございます。ご馳走様でした」
最初、十文字先生はもっと取っ付き難い人なのかと思っていた。でも、話してみるとそんなイメージはどんどん薄れていった。人と話すのはちょっと苦手なのかもしれないけど、自分の好きなことについてはとことん話せる人なのかもしれない。私も少しそういうところがあるからか、勝手に親近感が湧いた。それに、小さなことですぐ喜んだり拗ねたり、思ったことが全部口に出てしまったりするところも、先生らしくはないけど人間味があって面白い人だと思った。
──私も、もっと感情を表に出してもいいのかな。しんどい時はしんどいって言ってもいいのかな。私は私らしくしないといけないと思っていたのは、私だけなのかもしれない。
「先生の淹れるハーブティーを飲んだら、なんだかスッキリしました。ありがとうございます」
私は先生に向かって頭を下げた。
「え?なんかモヤモヤしてたの?まあ色んなことがあるよねえ、人間。でもね、程よく頑張って程よく適当にしてたらいいと思うよ、僕は。なんでも一生懸命になりすぎると疲れるからね。勉強も人間関係も、なんでもそう」
十文字先生の言葉が自分を慰めてくれているような気がして、少しだけ目頭が熱くなった。
私は、いつも元気で誰とでも仲良く話せる綾を見て、あんな風になりたいと思っていた。勉強も得意ではないから、人一倍、いや、それ以上頑張らないといけないと自分を追い込んでいた。でも、たまには適当に過ごす日があってもいいのかも。今日みたいに美味しいハーブティーを飲んだり、誰かと沢山お喋りしたり、そういう他愛もない幸せを感じることで、明日からまた頑張れるような気がしてくる。
私は、十文字先生がくれたアロマティカスの小瓶を大切に握りしめた。ふんわりと爽やかな香りが鼻先をかすめる。
「じゃあ、今日はありがとうございました。失礼します」
「うんうん。気をつけて帰ってね。……あんまり無理しないように」
顔さえ見てくれなかったものの、その言葉からは確かな温もりを感じた。
下校中の私の足取りは軽かった。小瓶を落とさないように大事に両手で持って、歩き慣れた道を帰っていく。家に着いたらこの小瓶をベッドの上に飾ろう。そして、根が出たら十文字先生のところに見せに行こう。そんなことを考えて、私は小さく心を躍らせた。
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