第9話 正解とは
時間はやって来る。来て欲しくてもその逆でも同じように巡り回り、生きている限りは誰の所にでも同じように来る。天音の所にも当然のような顔をして来る。嫌われ者であっても普通に来ることだろう。時間に嫌われる方法など数える程しか知らない天音。その方法、科学者たちの打ち建てた机上の空論から単純に生きることをやめること。後者の択を選ぶはずもない、そんな彼に前者を選ぶ力もない。ならば彼にも同じように時間が巡って来ているはず。天音は足を速めていた。
「遅刻は大敵、そんなの許されるのは事情あってのことさ」
草鞋で踏むアスファルト、地面を進む天音にはこの上なく悪質な心地を提供していた。荒々しい歩みは余裕すら忘れた証。
現場へと身を乗せた頃には肩で息をして汗にまみれていた。
「到着、待ったかい」
男の子は首を左右に振る。きっとある程度待たせてしまったことだろう。三十年近く生きてきた身体であってもそれだけの時の流れを見つめてきた頭であっても、地元にさえ見慣れない場所があるのだということ。
男の子は微笑んで天音と一緒に霊の姿がそこに無いことを確かめた。
「いないね」
「ああ、これなら入って行けるだろう」
そうして中へと入ろうとした瞬間のことだった。大きな窓ガラスの向こうを見つめる男の姿がそこにはあった。
いつの間に現れたのだろう。男の子は霊の方を見て身体を震わせながらのそのそと歩き続ける。
そんな姿を目にして天音は男の子の背中を押しながら進み始めた。
「大丈夫、アタシがついてる」
付いている、憑いている、選び抜く言葉を間違えただろうかと後悔の念を示しては見せたものの、そこに大きな問題はなかったようで子どもは怯えることなく歩き始めた。憑くという言葉がまだ耳に馴染んでいない年頃なのかも知れない、そう思い自身を納得させてそれでも湧いて来る罪悪感の源泉に蓋をするように言葉をつけ足してみせた。
「優しいアンタに不幸なんて許せないからね」
そうしてどうにか男の子を放課後用の預かり施設へと導いた後、天音は霊を睨みつける。その瞳の鋭さはきっとあの霊と同じもの。何かに執着する霊を祓うことに執着する様だった。
「アンタは何が目的な事やらだね」
つかめない、分かることが出来ない、そんな様。
目の前の男に成り切ってみることにしてみた。嫌な役柄、知りたくもない視線ではあったものの、解決のためには必要なことだと割り切って男の顔を覗き込み、天音はその目を大きく見開いて驚きの感情を露わにせずにはいられないでいた。
その視線には分かりやすい程に黒々とした恨みが、暗黒とでも呼ぶべきか心は曇り切った夜空と呼ぶべきか。そう言った言葉を当てはめるに相応しい棘がそこにはあった。
その感情は誰に向けられているのだろう。その想いはどこへと向けられているものだろう。行き場のない恨みでないことを祈りつつもどうか行き場のない物であるように、この場に深い恨みを受ける人物ではないようにと願いながら霊を見つめ続けた。
そうした行動は全て見られているに違いない。大半の人物たちはこの場所では存在そのものが浮いているような安っぽい和服を纏った女がひとり不思議な表情を浮かべながら施設を覗き込んでいるように見えただろう。
当然のようにことは動いて行った。施設のドアが開かれて、そこから現れた、そこに現れた。その姿は若々しくて優しそうな女のものだった。
天音が振り向くのと同時に男の霊も倣うように女の方を見ていた。
その目線はまさに先ほど向けていたものと全く同じ色をしながらも、その厚みはますます膨れて行くばかり。
女は天音の眼を窺いながら訊ねた。
「もしかして、あの子が言ってた幽霊が見える人でしょうか」
どうやら霊の件で困り切っていたのはひとりではないらしい。それも一日二日といった浅い日々でもなかったよう。
天音は妖しい笑みを、自慢の感情隠しの表情を塗り付けた。ボランティアが、無賃労働が、賃金という報酬を持った瞬間だった。
「ええ、勿論とも。ただこの霊、今のままだと祓うのは難しいようです」
そう、実際のところこのまま祓おうにも今そこに居る霊の恨みの色が濃過ぎた。怨念は濁り、負の想いは澱となってしまい、その場にしがみついてこびりついて、というよりも目の前の女への執着のように見えた。
「アンタの方をずっと見ているね、恨みや殺意、ありとあらゆる負の感情を従えて今そこに居らっしゃる」
天音は男の方を見ながら、女の方には目線を向けることもなくただ言葉だけで踏み込みを進めて行く。
「ああ、例えばこの男の恰好がラフなのにもかかわらず腕には似合わない気高さが、明らかに高級な腕時計が収まっている男とか、見覚えないかい」
それを聞いた途端、女は顔を青ざめた。
「どうしてそれを」
天音の見定めは見事に当たっていた。霊という感情の遺し物だけでも読むことの出来る事実はあった。
「みえている、それだけさ」
女は口を開かずにはいられなかった。
「でも生きてるはずなの、意識はないけどそれでも」
「なるほど、それでも居るなれば、生霊か」
はた迷惑だ、そう呟いて霊の方へと目を向けて浴びせるような大きなため息をついて。
そうした行動は何も変えない事など分かり切っているはずなのに、それでもやめられなかった。
「その、高校時代の同級生の生霊がどうして私に」
そう訊ねるものの、その目は天音を捉えることなく右往左往していてどこかに隠しているはずの後ろめたさが見て取れた。
「自分の胸に訊いて御覧な、アンタの目、よく泳いでいらっしゃるよ」
天音は見抜いていた。きれいさっぱりな感情を取り出して見つめてしまっていた。
「子どもたちを不安にさせないためにも解決しなきゃいけないようだね」
「でもちゃんと隠してます」
天音は大きなため息をついて窓ガラスの向こう側を、明るい感情に充たされた部屋の喧騒を見つめながら思うことを口にする。
「案外、あの子たちも気付いているものさ、ご用心だね」
大人が思っているより鋭い部分はあって、知る事は少なくあれども考える力は侮れない、子どもとは実に不思議な生き物だと感じさせられていた。
「アタシに金と情報を提供しな、霊的な事なんて普通の人じゃ解決できないだろう。あの子の安心のためにも」
最後のひと言が背中を押してくれたのだろう。女は財布を開きながら、薄暗い感情を張って口を開き、天音を頼りの綱として扱い始めた。
「それは高校時代のこと、それ以降は会ってないもの。話に聞いただけ。だから私は高校でのことしか話せない」
前置きは事情を簡潔に教えてくれた。生霊となる時点で身勝手を極めた迷惑な態度と人物像が透けて見えていたものの、それだけでは解決の厄にも立たないということ。それは天音にも分かっていた。
「彼はみんなにいじめられていた。そうね、高級な時計をいつもはめてるんだもの、目立つ馬鹿は打ちのめされて当然よね。人のこと見下してるんだもの、下と思っているところより自分は下だと思い知らされても当然でしょ」
既に問題が明るみに出ていた。今回の件においては天音はどちらの味方につくことも出来ない、あくまでもこの依頼を遂行し、元ある形に戻すだけ、そんな覚悟が必要だとしっかりと感じ取っていた。
「あの馬鹿はノートに人のこと馬鹿だのブスだの早く死ねだの、好き勝手に書いてはニヤニヤと薄気味悪い笑いを浮かべてはみんなに対してゴミと呼ぶ。そんな日々が続いたある日のことなの。遂にクラスの中心だった男の子がキレてね、殴りつけ始めたの」
男子同士ではよくあることなのだろうか、天音もまた、自身の通っていた学校で似たような出来事を目の当たりにしていた。
「クラスのみんな一丸となって彼の靴も教科書も隠したり大切な腕時計をゴミ箱に放り込んでは彼の耳障りな叫び声が枯れるまで、顔に憎しみが永遠に張り付くように、一生不幸な人生を送ってもらえるように最高の思い出作りをしてやったわ」
「ああ、それはなんて」
この件に限っては感情移入が許されない。この出来事、かつての悪事。そこに救いなど何ひとつ無かった。光など一切そこには残されていなかった。
「こういうのも悪いけども全員が悪役演じ切ってたってワケか」
それは最早一種の呪い。魔力も法力も何ひとつ扱われることなくただ愚かな人物たちの心のみで行なわれたおぞましき呪法だった。
「もちろん私だって躊躇ってた。こんなことしてもいいのかなって。でもね、やらなきゃやられる。アイツはその時何もしてなかった私の机に牛乳をぶちまけたのだもの」
阿鼻叫喚、地獄絵図、人間が作り上げる罪の獄炎、いじめという形に昇華された偽りの楽園は室内にまんべんなく伝播して、全てを目障りな景色へと変えて行った。
「それからなの、私も彼のネクタイを奪って男子に渡してね。あの人たちすごく喜んでくれた。よろこんでネクタイをトイレに流そうとしてたわ」
それからも語られる悪行の数々。天音には気持ちが分からなかった。放っておけばいい、ひとつの罪に対して積み上げられる罪の数は計り知れず。
「正直思ってたわ。そうね、私が思うことなんてそんなに多くない。私が求めた事なんて周りのためにも早く息の根止まって、なんてものだった」
それは人の黒々とした本能に糸を引かれて恐ろしき罪を重ねるだけの操り人形とも言えた。それを知って改めて思う。
今回の件は無かったことにしてしまいたかった。
それでも向き合わなければならない。人々の手によって生み出された穢れ。いじめを行なっていじめに懲らしめられて酷く歪んだ人物たちの成れの果てを救わなければならない、その事実を確認するだけでどこまでも気力を失うことができた。
「そんな私たちが高校を卒業して何もかもきれいさっぱり忘れて今やこの施設で子どもたちを預かる立派な仕事をしてる私がある情報を耳にしたのはこの前の同窓会でのことだったわ」
どうやらそこであの男は車にはねられて意識不明、生と死の境界線で曖昧な魂を引き摺り続けているのだという。
「もしやして祓ったら起床なさるやつかねえ」
その推測が正しいのなら、ふと考えた。もしもそうであるならば、この世界の中で生きながらにして地獄を味わい続けるかこの世界で生きる権利が焼き消えてしまうまで、どちらの方が周りにとって幸せだろうか。肉親や親友には謝らなければならないことだが、話を聞く限り社会に出たところで迷惑をかけているようにしか見えなかった。
「とはいえアタシはもう依頼引き受けてしまっている身でね、致し方ない」
そう呟くと共に手帳を取り出し一瞬だけ睨むように見つめ、替えの手帳にすり替える。続けて先ほど女が語ったことを記して。
依頼を遂行したのちには今手に持っている手帳、穢れ切った人間模様を記した湿っぽい代物など捨ててしまおう。そう心に誓って巾着袋に仕舞う。妖気を祓うのは陽気、天音が常々そう信じるように明るみこそが妖を寄せ付けない。晴香という陽だまりの明るみで妖の気にさえ触れて包み込もうとしてしまう例外はいるものの、基本的にはそう。陰気は妖やこの世ならざる者たちの好みであり、そうした雰囲気を持つ物さえ一刻も早く手放したくなってしまう。
そうした想いを拳と共に握りしめながら天音は訊ねる。ことを進めなければ話にもならないのだった。
「ところでだけども、他にあの男の事、出来ればもっと近年のことまで身近だったりご存じの方はいらっしゃらないか」
天音が投げかけた問いは見事なまでに女の身体を貫いた。
「ええ、会いたいなら構わないよ」
そうして連絡先を手に入れて、向かう先は彼らと待ち合わせの場所。
そこで天音は退魔師なのだと、女が霊に憑かれてしまっている、科学的に言えば催眠療法に近いことをする、そう言った体で話を進め、男の情報が欲しいと頼んだその時だった。
「俺にも憑いてるんです」
そう語り始めた。どうやらこの男は意識無きかつてのクラスメイトが最近同じ会社にいたそう。女子更衣室に目を向けて、上司の頭を指してはニヤついて、それはもう救いの手のひとつも差し伸べられない状態だったのだという。
こんな人物を救う価値など感じられなかった、その上いじめを行なっていた人物。本来ならば先ほどの依頼人同様に放っておく相手。この男もまた金を差し出して祓うよう頭を下げて頼み込んで来た。話によればそれは男の集中力を奪っているのだという。いつでもどこでも目を向けて、今に今にも殺してやろうと言わんばかりの冷たくて鋭くてどす黒い空気感を染み渡らせて。自宅に帰っても尚消えない目線と眠る度に夜な夜な夢にまで現れて恨みをぶちまけるようにナイフを振り回しては男の血をぶちまけ笑い続ける。
そんな姿が頭から消えることなく居座り続ける有り様は最早地獄と言っても差し支えなかった。
「頼む、解決してくれ」
それから彼の知る繋がりを辿り様々な人々に対して聞き込みを続けて分かったことがひとつあり。どうやらあの男は誰とも話さないようで、どこを探っても詳しいことなど分からないまま。少なくともこれまでもこれからも生きていても社会的な破滅が待っているだけのように思えて仕方がなかった。
心に至ってはきっと高校に上がった時点で既に壊れ尽くしていたのかも知れない。それを想うだけでやり切れない気持ちが覆いかぶさって来る。
情を寄せてはならない。言い聞かせ擦りつけて、犯罪スレスレの境地を渡り歩いていたあの男への想いを断ち切る。
この状況に於いて同情など、人の心は敵でしかなかった。
やがて分かってきた事実を繋ぎ合わせて。気が付けば天音の財布の中に入れていた偉人達の人数が何倍にも膨れ上がっていることを確認した。
「どれだけ捻じれた恨みだったものか」
きっとこれまで恨んで来た人物の全てを呪うように憑いてしまったのだろう。誰が恨まれていたのか、誰を恨んだものか、順位など付けられることなく先ほど会った人物の全てに憑いていた。全てを恨み総てを敵に回したその男は果たして何を支えにしてこの世に立っていたのだろうか、祓って意識が戻ったとしてどのような人生を歩み続けるのだろう。天音に恨みの刃は、復讐の一撃は跳んでこないだろうか。保証は出来ない。この男を救うことはもしかすると敵を生かすことともなり得るかも知れない。もはや他人事ではない。この世界の全てがこの男の標的で、世界そのものが被害者と言っても差し支えなかった。
天音は足の踏み場を失ってしまいそうになっていた。力が入っているのかいないのか分からない程に曖昧で、心の迷いは目の前にまで現れてしまっていた。
天音は思う。かつて人として生きてきたおぞましき姿を持つ霊から人々の信仰や思考が産み落とした哀れな獣たち。そんな存在よりもそこに生きる人間の方が恐ろしいということ。
考えもしなかったそれは今突如として目の前に立ちはだかっていた。
この人物を救うこととこの人物を成り行きの行き先へと落とすこと、どちらの方がより平和を呼べるだろうか。
この依頼人の前を去る。そこから果たしてどう動くことが正解なのか。誰の味方をしたところで待ち受ける結末への想像は良いとは言い難い。
きっとこれは天音に向けられた試練、選択の試練と呼ぶことが出来た。お祓いを考えなしに済ませることで犯罪者を世に放ってしまう。救わないことは天音の信用を大幅に傷つけることとなるだろう。もはや正義の味方を気取ることさえ通用しない。
「はあ、どうしたものか」
天音には荷が重い。その重さで潰されて二度と立ち上がることが出来ないかも知れない。
甘菜であればすぐさま祓い、アフターケアは考慮しない、などと語ってこの件を終わりにすることだろう。天音の心には無感情な割り切りが宿ってなどいなかった。そこまで純粋な『退魔師』でいることなど出来ない。時として人の穢れに触れてしまう。人の想いが生み出した怪異に触れるということはそう言うことだった。
家のドアを開き、当然のようにそこで待っていた化け狸と向かい合う。言の葉を紡ぐ姿はいつになく人として拙くて、キヌの目を大きく広げさせる。
「人としてねえ」
未来の罪を見越してそれでも犯罪さへの架け橋を繋ぐ役割を担ってもいいのだろうか。見え透いた結末へと真っ直ぐ向かっても構わなのだろうか。
「今回はあなたの弟とやらは関わってなさそうね、彼にとって霧葉とやらは悪人ではないはずだから」
これまでのことを想えば必ず悪人の中にも綺麗な心は宿っていた。あくまでも彼女を呼び出すために行ないつつ、邪魔者である天音もついでに折ってしまおう。そういった目的が透けて見えていた。
しかし今回はどうだっただろう。探れど歩めど見えて来るものは罪、罪、罪、罪。この件に神聖視している彼女のための心構えが入っているとは思えなかった。
「どうかしら、この偶然のイタズラ。たまたまこれまでで最も重い依頼を受けてしまうだなんて」
ここまで語り、キヌの言葉は深呼吸が挟まれて切れた。
「そうね、これから動くならこの言葉を贈らなきゃいけない気がするわ」
果たしてどのような言葉なのだろう。それは救いとなり得るのか、それとも内容を聞く前に依頼を受けてしまった天音の浅はかさを咎めるものだろうか。
キヌの口から再び深呼吸が行なわれる。やがて開かれた口は妖怪から見た現状を語る言葉を吐きつけた。
「もしかしてあなたまであの男をいじめるのかしら」
平等に扱うことなどできない。これまでの行ないを音で覗いた上で救うことなど出来ない。そんな意見に真っ向から立ち向かう言葉だった。
「だとしたら、人ならざる者たちの方がよっぽど人間の優しさを覚えてるわ」
そう言われたところで信用できない人間にまで手を差し伸べるのが当然だと思っているのだろうか。そう天音の中で問いかけが囁いた。
「大丈夫、私たちならやれる。私が、妖怪が囮になって人の為す罪を暴くわ」
それは本気のひと言、目の奥で揺らめく炎が語っていた。きっとこれからすぐにでも始めるつもりなのだろう。
「全員に憑いてるとは言っても祓うのはひとりで充分。それだけであの男はのこのこと現世に帰って来るわ」
これから始められること、それは信用のない相手に捧ぐレクイエム。人の織り成す澱を浄化する事など出来なくともこの件だけを丸く収める手段なら、既に手の内にあり。
「安心して、あなたには私がついてる」
「妖怪がついてるだなんて縁起でもありゃしないね」
紡がれた言葉、その明るみに照らされて目の前の妖怪もまた眩しい笑顔を浮かべる。
「妖怪だって愉快なことは大好き。あなたといれば退屈はしないもの」
現代人の忙しさから光を失い死したようにも見える目の色を思い出す。キヌという妖怪は人よりも人であろうとするものか。彼女の目には紅茶色のきらめきが海のような波を立てながらざわめいていた。
「そっか、アンタのこと、少しばかり頼ろうかねえ、怠惰な生活を取り戻すために」
やがて決意は宿った。薄茶色の髪と目に麗しい輝きの膜が張って全てが天音を純粋だと笑っていた。朗らかな太陽の笑みだった。
「まさか妖気纏うモノから陽気を頂戴するだなんて、アタシもまだまだだね」
キヌはゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫、天音は今どきでは明るい方よ」
「考えなしってことかい」
「そういうとこよ」
ふたりの間に浮かぶ笑い、宙を漂うネコのオバケもまたその色に染められて笑う。陽気こそが福を呼ぶ。傍に仲間がいてくれる、苦しいことがあればその手を差し伸べてくれる。
それがどれだけ幸せなことなのか、ようやく分かったような気がした。
天音は化け狸と横並びで進み始める。これまで気に入らないと言ってあまり相手にしなかったり利用するだけしていた相手と手を取り合って歩く姿はどれ程輝かしいことだろう。世間の誰も見通すことの出来ない輝きは確かにそこにあった。晴香が帰ってくる前に依頼を終わらせよう、それから何事もなかったかのように普通の日々を送りながらお祓いの後始末を済ませてしまおう。
あの場所へ、依頼人のひとりがしっかりと示してくれたあの場所へ。病院の中へと進み、静かにドアを開く。ここをくぐった向こう側にアレらの正体はいる。意識すら保たないままそこに居る。二十年近く幾重にも折り重ねて絡め合った重々しい罪と恨みを同時に背負いし哀れなる人生の旅人。
天音は扇子を取り出して相手に向ける。
広げて院内に見事な空達を繰り広げ、相手の顔に表情が浮かんでこないことを確認しながらことを進める。
ロウソクを立てて四隅に配置して火を灯す。
「これでここにいるって導を作り上げる」
天音の言葉の通り、返るべき場所の分からない生霊たちに元の居場所を伝える役割を、ゴール地点の設定だった。
「あれだけの数の生霊をお出しになられるだなんて、助けてみたところでもうアンタの寿命は長くないかも分からないけども」
そう告げて天音は数珠を取り出し、男に向けて塩を撒いた。
これで準備は整ったと言わんばかりに天音は舞い始める。迷える魂を男越しに叩いて呼び戻すための舞い。天音は感情を込めることなく輝きを消し去った瞳で見つめる。目の前の男は紛れもない犯罪者。助けるだけの価値は感じられなかったものの、最後にこれだけの悪事を一度に働いてみせたものだ。きっと彼は長くはない、運命は今にも裁きを下そうと槌を持った腕を振り上げている。その見立てがどれだけ天音の救いと成れただろうか。
赤青橙緑白に形容しがたい輝きの色、日の光と火の光は周囲に砕けるように様々な色を滲み出しながら辺りを微かに染めていく。今の天音の目にはどの色も映り込むことなくただ踊りに合わせて揺らめくだけ。
特に述べることも盛り上がりどころもないまま和服の袖と扇子が織り成す柔らかな残像とそれらに包み込まれた正確な固い動きが幕を閉じ、天音はロウソクの火を消してキヌに持ち帰らせる。
「大事なことはこれからだっただろうか」
「ええ、大丈夫、私を信じて」
短い命の間とは言えど、彼の手は再び罪で汚れることだろう。
天音の中では全てが完結していた。故に残す言葉も残す物も無しに前を向いて立ち去るのみだった。
☆
夜闇の中、男は目覚めた。全身に宿る違和感は闇の中に溶けていた。感覚が訴えている。気温すら感じ取れないぞと内側で叫び立てていた。
これからどうすればよいのだろう。もう残された寿命など僅か、それもまた身体が訴えかけていた。
「二十代だぜ、そんな早く死なせるなっつうの」
やり切れない気持ちで充たされていた。
「最後の最期までクソったれた人生だったな」
鞄を開き、中身を探る。そこで探していた感触に行き着いて、男は鋭い笑みを、口を切れ込みのように広げて笑っていた。
「あるじゃねえか、俺はどうせ死ぬ。だったら」
病院を抜け出して進み続ける。
「だったら、道連れだ」
彼を突き動かすのは生きた者たちから向けられた負の感情の果てだろうか。それとも彼自身の魂だろうか。
このような人生を歩むべくして歩んだ彼に同情する者など最早残されてはいなかった。
「まずはアイツを殺すか」
カバンから取り出したものをポケットに突っこんだまま、その手もまた、ポケットに突っこんだまま、進み続ける。
暗闇の散歩だろうか。死する前の罪、それは過去の恨みを晴らすことによって幕を閉じよう。特に苦しかったのはある女の子から裏切られたこと。初めこそは味方だと思っていた。しかしながらそれは彼の思い違いだったようだ。そう、味方だと思っていた人物が敵だったこと、それがこの男の心を最も効果的に崩したのだった。
進み続け、やがて見えてきたアパート、その一階の庭。拾い上げた石を放り投げ、窓を割る。
「一階に住む女だと、警戒心を知らないのか」
そう告げて入り込み、ポケットにしまっていたナイフを取り出す。持ち運び用のケースから取り出し微かな街灯に照らされて、それらを引き裂くように鋭い輝きを帯びる。それはまさに殺意の輝きというものだった。
そこから一歩、また一歩、音を立てないように近付いて、女を足元に見つけて秒数のカウントも許さぬ速さで、闇に紛れたその姿で刃物を掲げ、振り下ろそうとした。
「はい、警察です。不審な人物を捕まえろ」
男の腕は掴まれて動かない。先ほどまで倒れていた男と日頃から身体を鍛え上げている警官、どちらが強いかなど考えるまでもなく結論にまでたどり着いた。
「建造物侵入罪及び殺人未遂で現行犯逮捕する」
そうしたお決まりの流れなど見ることなどなく立ち去るタヌキが外にはいた。
☆
あの男は結局取り調べの最中に死したらしい。原因不明の衰弱死。生霊の仕業だろう。
「なるほどねえ、お縄にかかる瞬間まではお目見えしなかったってわけかい」
キヌはニコリと明るさ満点華やかさ満天のキラキラスマイルを描いていた。
「でも、みんな助ける方法はなかったのかな」
晴香の問いに天音は首を横に振る。
「あれは助けるべきものじゃあないね、どちらかというと」
それから先の言葉が天音の口から語られることはその一生の中ではありはしなかった
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