第8話 想い願い

 向かい続ける。向こうの女の肩にしがみつくように憑いた霊。悪霊と呼ぶにはあまりにも無邪気すぎる罪なき霊、感情も単純なあの子は果たして何を基準にあのような事を起こしてしまっているのだろう。

 天音には分からない。何も見えてこない。何か想いがあって、願う何かがあって行なっているものだろう。しかし、なに故にふたりの仲を引き裂いてしまうものか、全くもって分かることが出来ない。

 甘菜に訊ねてみたい。そして甘菜と生涯を共にするいい夫、彼にもまた訊ねてみたくてたまらない。喉から手が出る程に欲しい情報はどこにも売られてなどいない。値を付けることも出来ない価値は果たして低価なものか高価なものか。見る人によってちり紙の如きとも宝石の如きとも、どうとでも呼ぶことができてしまう、そんな難しい問題がそこに立ちはだかっていた。

 天音をターコイズだとするなら晴香はピンクパールだろうか。叶えてみても仕方がない。見る人によって全く異なる区別分類。

 それよりも前を向くべき、心に叩きつけて天音は進み続ける。風は夏の色に相応しくないほどにひんやりとしていて、走る天音の軽い妨げになっては後ろへと吹き進んで行く。向かい風ではない、それを確認して天音の動きに打ち払われて強い風が軌道を変えているのだと悟った。

 冷たい風はこの世界に仕切りを作っているようで、天音としては人の世から置いて行かれるような、そんな錯覚と共に生きていた、進んでいた。

 世の中の回り方など知らない、無知な生き様を描いて来た天音としてはドラマやニュース、仕事で時たま触れる他者のプライベートこそが人を知る方法で。

 そう、天音にとって世界とはあまりにも限定された部分しか覗かせない、そんな覗き穴のような心の視界だけを空けた不明の象徴のような場所。

 天音はようやく気が付いた。

 赤子もまたそのように覗いているだけなのだと。その行動の裏に隠された感情を上手く読み解く事も叶わず素直に受け取って引っ張り出しただけの世界。そこにあるものは幸せの形を勘違いしたコーディネーターによって示しだされた拙い世界。

「まるでアタシが創ったような拙さじゃあないか」

 それでもきっと必死に幸せを願い、そこに溶け込むことを想い、抱き続けて進んで来たものだろう。そんな赤子に祝福の拍手を与えたかった。頑張ったねと褒め称えながらこの永遠に誰も幸せになれない妄想劇の幕を降ろしたくて堪らなかった。

 素早く駆け抜けて、己の想像が、思考の手がそこまで回らなかったことに対して鋭い睨みを刺し込みながら住宅街へと入る。やがて暗闇はこの世の明るみのほとんどすべてを飲み込んで行く。夜という時間がこれほどまでに熱いものとなる日などいつ以来だろう。

 気が付けば、この依頼の陰の呪縛からひとりしっかりと抜け出していつもの調子を取り戻していた。

 これから向き合うのはあくまでも人間。ひとりの無邪気な魂。決して悪い人物などではなかった。

 臭気は近付いて来た。きっと誰かが堕落した生活を送っている姿をテレビ番組で見たのだろう。状況だけ見て楽という道を見てしまったのだろう。

 赤子の根はあまりにも優しすぎた。きっと様々な現象に対しても楽をして欲しい、みんなの願いを叶えたい、そう思った不器用な優しさが生き起こした温かで冷たいそんな悲劇。

 悲劇は終わり、そう告げようと鼻をつまみたくなるような臭いの群れの中を突き進み、呼び鈴を勢いよく鳴らす。

 沈黙の時間は幾らだろう。研ぎ澄まされた感覚はそれさえ教えてはくれない。強い臭いは身体全体を蝕んで病みを運んで来る様だった。しかしながら負けるわけには行かない。強烈な臭みを笑い飛ばして陽気を被ってドアが開く瞬間と顔合わせ。

 出て来た女は微かな笑みを浮かべる。微笑んでいるつもりだろうか。少しの歪みにしか見えない。病んでいる者、陰気と共に過ごす者にしか分からない微細な変化を気が付けばつかみ取れなくなってしまっていた。

「あらいらっしゃい、準備は出来たのかな」

「ああ、出来たさ」

 強気な言葉を返す天音、その表情はあまりにも儚い晴れ間模様の朝の色をしていた。陰気が近づくことを許さない、それどころか陰気の方から見ても近寄りがたい、そんな清々しさは確かな感情を顔に馴染ませていた。

「まずはアンタに憑いた霊を祓おうか」

「私なの」

 天音は小綺麗な笑みに感情を収めて顔を傾けてみせた。

「ああ勿論。でもさ、それは本来悪霊なんかじゃあない」

「だったらどうして」

 目を見開く女、肩に乗っている赤子は身を乗り出して天音の方へと短い手を伸ばしながら揺らしていた。

「憑いているのは流産したアンタの赤ちゃんさ。あの子はここに残ることで幸せを呼び込もうと頑張った」

 見知らぬ感情を引っ張って、知らない世界を無理に知って、初めての音を、初めての味を、母を通して学び続け、それでも育つことの許されなかった子。不器用な身体で物も分かることの出来ない心で、それでもなお幸せをもたらそうと頑張った。

 その結果こそがこの怪異の正体、人それぞれの心のズレと共に生まれた願望の重なりしセカイだった。

「ふふ、お母さんはどんなにツラくても乗り越えて行けるから大丈夫、アンタの想いはちゃんと届いたよ」

 果たしてこの赤子が想っていたのは母だけなのだろうか、父となるはずだったその人にもまた、怪奇なる出来事の手は伸びていたのを確認し、天音は微笑んで見せる。

「お父さんだって毎日ちゃんと働いてるさ、アンタのわんぱくなお姿、さぞかし楽しみだっただろうけど、きっとそれはお母さんも一緒だからこそ楽しくなれるもの」

 女は、この霊の母となるはずだった者は、その目に溜まっている温かな水を、暖かな余韻をハンカチで拭う。

「きっとふたりとも覚えてるから、次に会えるその日まで、おやすみなさい」

 それは、霊力や法力と言った外からの力など何ひとつ必要としない優しい除霊だった。赤子に宿る悪意無き邪気はすっかりと漂白されて清き魂となった人の子は天へと昇っていく。言葉の意味は理解できていない。感情だって巧みに理解することなど叶わない。それでも充分だった。想いの色は風に乗って赤子の魂にまで直接響いて全ての現象を収めて。

 そうして全ては終了した。

「終わりました、とてもいい子でしたよ」

 涙ぐむ女の口からは言葉がうまく出てこない。想いが詰まって現れることも、つっかえて出て来ることも簡単ではなかった。

 そんな余韻の中、どうにか最低限の言葉だけを絞り出し、恩人へと捧ぐ。

「ありがとうございました」

 気が付けばゴミ屋敷と呼ばれてしまうそんな家、そこにて片づけを行なう夫の姿が戻っていた。



 数年後、ふたりは子を育てていた。

 かつての怪異の幻像のように上手くは行かない。あれは人々の思い描いた空想の上映に過ぎなかったのだから。

 家事から育児、様々な出来事を夫婦と子ども、三人で乗り越える姿、苦労の中にも笑顔は色濃く残っていて、それが幸せなのだと感じさせた。

 そんな生活の間で女は子どもに語って聞かせた。

「あのね、なあちゃんにはね、お兄ちゃんが出来る予定だったんだよ」

「なんでいないの」

 首を傾げて訊ねる子どもに微笑んで答えてみせる。

「お母さんのおなかの中から出て来なくてね、どこかに旅立っちゃったの」

 本当ならば生まれて来るはずだったあの赤子、食卓を囲むのは四人になっていたかもしれないこと、そんな偶像のような幻想を抱きながらもいつか会える日まで夢は夢のままだという事実を受け入れて。

「きっといつか遠い未来、私たちも旅に出た時きっと会えるからその時までさようなら、いい子だったよ、いい子にしていてね」

 そんな会話が繰り広げられていたことは、恩人の退魔師には永遠に伝えられないまま。



 そんな未来が待っていることなど一切見ることもなく天音は今という時間を歩み続ける。

 未来を迎えるということ、未来という言葉を飾ったその時間からその意味を取り払って今という祝福を常に与え、間もなく過去という呼び名を与えられる。今という時間は一瞬で、主役を飾る事の出来るその時はまさに一瞬。

 その今という時間の中で決着をつけなければならないことを思い浮かべ握りしめて前を見つめる。手につかみたい未来は見えていた。

「きっと味雲のことも、救うから」

 彼に限っては悲劇を常に胸に抱き自ら忘れないように刻み込んでしまっていた。そこにどのような刃物を用いていただろう。きっとこの上なく鋭くてあまりにも危うい代物だろう。人生を危険な角度にまで傾かせてしまう程に、確かな切込みを入れてしまうまでに。

「アタシの退魔師人生で最大の失敗は絶対にアタシが片を付ける」

 様々な人生の行き先、辿った先で振り返れば決して取り返しのつかない紙細工。これまで作り上げられたものは殆どが不揃いな星々で、月は未だに現れず。

「まやかしにも儚く美しいものにもなれない、アタシの人生はもう、ロマンに浸れるモノじゃありゃしないのさ」

 誰に届けられるわけでもなく消えて行く言葉。天音にとっての夜は天上に向かって掘られ続けた奈落。奥が見えない、そこがまるでないようにすら見えてしまう、そんな穴は向こう側こそが本当の生活圏なのかもしれない。天音を含む様々な人々は深淵の底で蠢くだけの井の中の蛙とでも呼べるものなのかも知れない。それでも天音はただただ空に自分の色を描いていた。此処こそが地で落ちることなき上、そう思っている彼方側が微かな輝きの雪を漂わせた下なのだと。

 己の意見の強さはどれ程まで貫き通すことが出来るのだろうか。いつまでも自分が正しいと思うことが出来るだろうか。

 きっと近い内に味雲を、一時期は共に過ごしてきた弟を祓う時が来るだろう。その時の舞台が、そこに在るものが紙細工の月の浮かぶかりそめの夜空の舞台となるか青々としたキャンバスになるのか、それとも雨空の下となるものか、分からない。

 ただ、近頃の霊現象が味雲の存在を身近に感じさせた。きっと引き起こしては見つめているのだろう。愛する人を呼ぶための感覚を、この地に再び足を着けるために必要な現象を探して、答えもない道さえ開かれていない、そんな途方もない何かを手なのか脚なのか何を使うのかも分からない曖昧な方法の真実を求めて。

 進んだ先に待ち受けるものはあまりにも単純な結末。それを求めて、その単純に折れてしまわないよう確かな感覚を、自身の心を支柱にして居場所を強く意識する。

 一度大きな深呼吸をして、既に暗くなりつつある空を眺めつつ、地をしっかりと踏み締め歩き続けていたその時のこと。

 背の低い人物がそこにいた。フェンス越しに見つめるその目の先にあるものは主に放課後の時間に両親が仕事で不在の児童を預かる施設。そこに馳せる想いとは如何なるものなのだろうか。そこに在る姿は幼子、天音も倣うように児童と同じ方向へと視線を流して行った、そんな先に映されるモノは曖昧でありながら確かな幻像。

 背の高い男が恨めしそうにコチラを睨み付け、今か今か、狩りの時は未だ来ずなのだろうかと言わんばかりの勢いを表情に秘めて立っていた。

 天音は一度大きく頷いて納得していた。霊的なものは幼少期の目線の中でこそ映り込みやすいのだという。それはまやかしとも用事の虚言とも呼ぶことの出来るものであり、実際に大半が邪気のない小さな口から出た大きなペテンであること。

 しかしながら稀に真実を語る者もいる。

 実際に見かける人が多かったのか、人々の迷信から産み落とされたチカラか子どもたちの嘘から出た実なのか分からないものの、今となってはしっかりと根付いて固められた事実。

 そんな法則に人生まで歪められているように見える。ただでさえ小さな身体に世を知らぬ心、風が吹けば飛んでしまいそうな危うさに包まれながらも世間という重みを背負う人物へと育て上げられる途中の道。そこに普通と呼ばれるラベルを貼られた区切りから一歩外へとはみ出た世界を知るということが如何に大変な事か。

 学校の中で幽霊が見えるという話をすれば嘘つき呼ばわりされ仲間外れ扱いを受けるかいじめられるか、そもそも仲間外れという言葉のひとつさえ付けられないような初めから存在しないものとされるか。

 どのように動いたところで秘密を持つことが適切だろう。

 例え尊敬のまなざしを向けられていたとしてもそれはハリボテの舞台かも知れない。裏では愚痴が飛び交い適度に都合よく仲間に加えられては誤魔化しと気が付くことさえ許されない中途半端な立ち位置の主演となっているかも知れない。

 それに薄々ながらでも言葉にできない予感でも、気が付いているかも知れないということ。

 そんな真夏の寒気、不安に駆られて震える子どもに向けて腰を折り手を差し伸べ、言葉をちらつかせる。

「どうなさったのかい、アタシが相談に乗るよ、というか乗らせておくれ」

「嫌だ、誰も信じてくれない」

 幽霊のことになど既に目を向けられなくなってしまった人が多くなっていることだろう。そうしてみて見ぬふりを覚えてやがてはオカルトへの視線の合わせ方も忘れてしまうものだろう。

「幽霊の話だろう、そこに居らっしゃるねえ、明らかな不審者の霊が」

 子どもに対してどのような恨みを持っているのだろう。そもそも恨みなのだろうか、歳相応の恋心を持つ段に足を掛けることすら叶わなかった男の変質的な想いの捻じれではないのだろうか。決して存在してほしくはない、そう思わせる程の巨悪はしかし、どうしても存在してしまう。誰にも理解されないことは悲劇なのだろうかそれともせめてもの救いだろうか。

 天音の意見は子どもに向けて真っ直ぐ伸ばされた。

「いやな御人だねえ、人さまに迷惑をおかけなさっていることに気付きなと言って差し上げたいね」

「おばさんには見えてるの」

 天音の首は素直に縦に振られる。肯定は、受け入れることは寄り添うための第一歩だと天音は信じてやまなかった。

「ああ見えてるとも、そもそもアタシはね、こういう厄介払いを行なう者」

 本来ならば人の先に立って執り行わねばならない、それが模範となる姿勢、理解はしていた。

「厄介払いの露払い。本来退魔師とは人々の進む先に立ち塞がるモノを先立って取り除かねばならない」

 理想論、何も起こらない内に対処する事。しかしそれはあくまでも神のみぞ為せる御業。そうした神でさえも執り行わないそれは生きるための手段として使わず無駄な働きへと転換してしまう行為。誰も見知らぬ内に祓ってしまっては誰の感謝もなくただただ己を無為に働かせて死へと追いやる行ないそのものだった。

「でもね、誰かに知られなければ誰にも何も戴けない。アタシたちに何も上げずに働かせるなど奴隷扱いと同じものでしかありゃしないものさ」

 つまり小汚い話、例え見かけたとしても事が起きるまで放置するということ。金を得るためにどうしても必要だからといって仕事を先延ばしにするということだった。

「今回はアンタがいたから引き受けさせてもらうよ、本来慈善事業なんかまっぴらごめんってとこだけども」

 そう、今ばかりは天音にとっては何ひとつ得の無いボランティア活動を買って出るということ。

「将来の社会を支える人にどうか優しき道を開きたまえ」

 言い放ち、広げる扇子の暗い端を夜空に溶け込ませて繋がりを持ったひとつの空と成す。世界の中に住まう時間から黄昏時と丑三つ時を取り除いた扇子はまさに魔なるモノを寄せ付けないデザインを想わせる。

「この世を移ろい彷徨い宵に迷い続ける御霊よ、空の導きを渡りて在るべき場へと」

 天音の言葉は、天昇の導きの言の葉はそこで途切れた。天音の眼には既に霊の姿などなく、しかしながら天に送ったわけでもないのだということは分かり切っていた。

「逃げられたかな、嗚呼逃げ去ってしまわれたようだね」

 見当たらない姿とそこに在る気配の残滓、遺し者の残し物。気配を視ても辿ることの出来ない曖昧な道はこの世から取り除くべき存在との繋がりの道を隠してしまっていた。

 子どもは天音の方へと目を向けて訊ねる。

「その、おばさんまた明日来れたら来てよ」

 子どもの話によれば毎日現れるが為に近寄ることも出来ないのだという。親が金を払ってまで預け先を決めてくれているにもかかわらずそこに入ることも叶わないということ。金の無駄払いを気にしているようだった。

「そうかい、この歳で親御さんのお金の心配だなんて偉いね。とても優しい子だね」

「そうかな」

 瞳を閉じ、空を覆う暗闇に視界を重ねながら天音は語る。

「アタシなんてあれが欲しいとかばっか言ってた記憶あんだよね」

 わがままな自分、それは必ずと言ってもいい程に通る道。こうした歩みが過ちだったのかそうでもないのか、過ちではなかったと思っても必要ではない事だったか、過ちと認めても尚必要なことではあったのか。

 夜の闇の中、子どもを送りながら考える。

 今回の失敗もまた必要なのだろうか、それとも単なる失敗なのだろうか。思い通りにならないことが無力なのか次の成功への準備なのか、反対に全てが思い通りになることは薄っぺらなのだろうか。天音にはどうしてもそうは思えなかった。全てを思い通りに導くためにもまた、努力は必要。それだけ上手く事を進めていく人物はきっと頭の中で様々な考えを張り巡らせて様々な動き方を身に宿したことだろう。

 そうした考えに浸っている内に幼子の目指す場所へとたどり着いたようで、手を振りながら家のドアを開いて外の世界から身を引いた。

 残されたひとり、とぼとぼと歩いきながら見つめる景色は変わり映えという言葉を知らず。ただずっと闇にいるような感覚が薄くありながらも健康そうな色をした肌に張り付いていた。

 自身が子どもとして生きていたあの日のことを、追憶の幻像を脳裏に呼び起こす。闇というスクリーン、静寂という音響設備の中、それは分かりやすい形で呼び起こされた。

 金もあまり無い、しかしながらどうにか子育てが出来たのも時の流れの中のあの時代という色合いに恵まれてのこと。あの時でも思うように欲しい物を買ってはもらえなかったことを思い出す。その代わりだろうか、中学時代からは服やCDを買う金はもらえると言った様。給料など嵩として目に見える程にも増えていないにもかかわらずどのような心境の変化だったのだろう。子どもが興味を示す玩具だとか少年が心をときめかせるような血気盛んな少年漫画だとか、キラキラとした文房具だとか。そう言ったものには目も当てない性分だったのかも知れない。

 今になってこそ考えを巡らせることが出来るものの、当時は周りの子どもたちから外れたような生活を、マンガや小説に映画なども流行りに完全に乗ることは出来ない、そんな小学校低学年時代を過ごしていた。

 それが一転、四年生にも上がれば少しずつ天音に与えられていたドラマや音楽、アイドルといったものに周りは興味を移し始めて行く様を眺めては薄明るい微笑みを浮かべていた。

 もしかすると母の趣味だったのかも知れない。偶然それらが上手く嵌まり込んだだけ、或いは大人になるにつれて通り始める道を母の手ほどき添えで先に走っていただけなのかも知れない。

 案外こうなることが分かっていたのかも知れない、そう思いつつ、過去の苦みを噛みながらもどかしさと埃っぽい憎しみの微かな残滓と感謝と当時の得意げな気持ちを混ぜながら見つめていた。

「単色の感情ならば、原色だけの想いならば、この上なく分かりやすくあったものだけどもねえ」

 ここ最近の宿命は天音に逃げという択を与えてなどくれず、本来の自堕落な生活から随分遠くまで足を進めてしまったような感覚へと陥れられる。

 達成感よりも場違いを想わせるのは自身という人間を特定の色で枠組みで定めてしまっているからだろうか。

 思考の霧は夜闇に薄く伸びては空気に紛れて風になびいているのかそれすらも分からせない。

 疲れ切った身体を引き摺って、覚束ない思考を無理やり引っ張る。今日は仕事とついでの出来事を経て身体や心、頭から魂にまで負担をかけてしまっているようだった。

 明日はひとつ、無賃労働が入っている、その予定を刷り込んで。

 頭に入れること、意識として持っておくことは予定の入れ方だった。あの子の親に無理やり金銭を要求するわけにも行かなかった。

「経済的に苦しいのはみんな一緒、ここで無闇にもらおうとするものじゃあないよ」

 そう言い聞かせ、しかしながら本気でやらなければならない、それもまた言い聞かせ。

 必要以上に気高い想いを描きながら闇の中に描く輝かしい想い。ご立派なだけでは食べては行けないことなど分かっていたものの、それでも世間一般の言う立派というものでなければならない場面もあるのだと、それもまた言い聞かせた。

 ただただ我慢、費用を抑えて切り詰める生活、酒すら買えなくなる、飲めなくなるという仕事量。

 今は眠りが欲しい。天音の怠惰はそう語っていた。

 酒を煽る余裕も残すことなく布団の中へと潜り込む。先客のねこのオバケを抱き締めながら共に丸くなって意識を闇の中へと落とし去った。

 やがて彼女らが見知らぬ間に空は闇という帳を上げて天音たちの身を包む陽気が昇って来た。それにすら気付くことなく柔らかな膨らみの柔らかな呼吸に天音は心地よく包まれ続けた。

「宇歌、餌食べすぎ。太るよ」

 天音の口から零れ落ちる言葉は明らかな幻。オバケとなったこのネコは生きるためのエサを必要としない。ただただ眠りただただ遊びただただ悠々とのびのびと余生を過ごすように自由に動き続けるだけ。

 そんなねこオバケの宇歌が突然目を開き、身体を震わせた。

 辺りを見回し天音の頬に柔らかな肉球を押し当てて喉をごろごろと鳴らしてにゃんと鳴く。

 ねこの合図に従うように目を開いて起き上がり、天音は窓の外に目を向けた。

「ああ、朝」

 それだけでは起こさないような宇歌の反応を目の当たりにして天音は首を傾げる。

「はて、来客かねえ」

 家という境界線が張られている以上は人も妖も侵入することなど叶わない。そう信じられているものの、中には平然とした顔をして忍び込んで来るモノも在る。今回がそのような相手でないことを確認して、安堵のため息をつきながらドアの小さなレンズ越しの歪んだ世界を見通す。そこに居る女の姿を認めて天音は飛び上がりそうな衝動を覚えた。葉っぱのヘアピンを着けた女が、若く整った顔立ちを持つあの妖怪が待っているということ。

 天音はそっとドアを開いてその女、場岳 キヌを睨み付けてドアを閉めようとした。

「一回開けたなら入れなさい」

 そう語り、無理やり入り込んで来る妖怪という存在を目にして天音は訊ねる。

「妖怪とかいう存在がここまで綺麗にとは、どこのブランドの化粧品をお使いかな」

「使ってないわ」

 固い声で、天音によって乱された機嫌を隠すことなく露わにして上がり込み、宇歌を抱き締めようとするものの、宇歌は天井辺りを漂って近寄ろうとも近寄らせようともしない。そんな態度を取り続けていた。

「どういう躾してるのよ」

「美人は嫌い、そう言いつけてるのさ」

「晴香には懐くじゃない」

 恐らく気配の違いだろう。犬に近い匂いが微かに残されているのか化けダヌキとしての姿を見通してしまっているのか。

 天音はただただこれからの予定を見つめながら、文字にすら起こされていないそれを黙読しながら粗末な白い着物に袖を通す。

「アンタ今日は休みなのかい、わざわざここまでいらっしゃるだなんてね」

 天音の問いかけに答えなど不要だった。代わりに別の言葉を贈呈してみせた。

「あなた最近何も楽しいこと出来てないでしょ。息抜きも出来てないんでしょ」

「人の事情覗き込むな妖怪」

 妖しく微笑んでみせるものの、何ひとつ誤魔化すことも叶わずただ時が流れるだけ。

 そんな時間の中にキヌは言葉を加え続けた。

「あなたが酒すら飲まないの、あんまりだと思うの」

「アンタら妖怪と違って人には人としての生活があるのさ。義務でなくても望んで働かなきゃ生活費用の足しにすらなりゃしない本業とか」

 そう言いつつも今日の予定が無賃労働だということ、それを思い出しながら隠し通す。今回ばかりは金を取るわけには行かない。その意見は決して譲ることの出来ないものとなっていた。

「もう少し考え直した方が良いんじゃないかしら、その内仕事しか出来なくなるわ。そういう人、会社で見かけるもの」

 仕事以外のことではただ休み続けていたい、生きること以外全てに疲れを感じる。そんな人物がいくらか見受けられる。キヌが今まで見てきた時間の中でもこの現在という時に多く見られるのだという。

「昔の方が貧乏だし苦しそうではあったけど、ここまで酷くなかった。今は二十代ですらそういう人が増えてる、異常じゃない」

 心の問題だろうか、きっとキヌがこれまで見てきた事は幸せな方の仕事人だったのかも知れない。

「それはきっと気のせいさ。ひとりが見られる環境なんて限られてる」

 勝手に話題を閉じて、天音は家を出て、ひとつの単純な除霊作業を終わらせた。移動時間の方が長いということに驚かされつつ、車を買う金もないということを頭の半分頬の面積に渡って焼き付けられて。

 それからの動きは単純だった。コンビニでおにぎりをふたつ買っては頬張って、家に帰る。これ以上の依頼は入れていない。

 天音は時間というものの流れを知っていた。

 時というものは思いの他速く去って行くものだということを。小学生の下校時間も昔の体感より早い時刻に訪れるということを。

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