第7話 晴香の祖母
聞き入った事実。耳を傾けなければならない話は語られる。
「いいか、この紫色のリボンには俺も見覚えがある」
「は、はあ」
空っぽの返事の裏で思い出していた。味雲と初めて会った時のこと。確か紫色のリボンに触れた途端に呟いた言葉、確かに聞き取ったあの言葉。
あの時目の前の男は「あの時のばあさん」と言っていたはずで。
「教えてやるよ、昔の話。それは霧葉と一緒に病院での依頼を受けた日のことだった。依頼主の女性、その人こそが紫色のリボンの持ち主だった」
どのような出来事があったのだろう。晴香には想像も付かない。
「霧葉はただ除霊をするために院内を駆け回る中で俺はばあさんの話を聞いてただけだった、孫娘のことを楽しそうに話してたよ」
どのような話をしていたのだろう。晴香についての話、きっと祖母の口から出て来る言葉は晴香の頬を温めるような蒸してくれるような、そんな響きを持った話だったことだろう。
「長生きするって言ってた。中学の卒業までは生きなきゃって、そう言った次に長生きするって言った時は高校卒業までって延びて行ってさ、本当に孫娘が好きな人だったんだなって」
それは祖母にとってどれだけ幸せなことだっただろう。好きな人について、大切な家族と生きる人生を夢見ていた。きっとその目に映る空は星々の煌めきに充ちた美しいものだっただろう。
「だからさ、俺はあの人が大切に想ってる孫娘に酷いことなんてできないんだ」
どこまで闇を抱いて鬼や悪魔を演じて自身の願いの為に動いて行ったところで人の心は捨て去ることが出来ない。大切な人を想う余りの衝動は彼を良心の欠片もなき野蛮人へと変えることなど叶わない。
「酷いことなんてしたくないから、早く諦めて欲しい」
そう告げて、押し黙る。
次に晴香がその目に映した光景。その中に味雲の姿など無く、ただただ生きているだけの街や人の流れが映されているだけだった。
☆
若い女は幼い子どもを育てている程の年齢だろうか。天音よりも若いことは明らかで、その事実が天音の心に尖ったガラスを散りばめてはひとつひとつがめり込んで行く。
果たして親に顔向け出来るような人生を歩み切れているだろうか。
いったいどのような道を歩めば誰も文句をつけないものだろうか。
自身のやりたいことなど現実性によって否定されることも当たり前なのだろうか。
「家にいらしてごらん、その不思議なチカラって洗脳と変わりないのでしょ、旦那さまを黙らせてよ」
日頃ならばすぐさま取り出すことの出来る否定の言葉。洗脳をご所望なら心理学と脳科学の名手に頼りな、などと茶化す否定言語。そのひとつさえひねり出すことが出来ないでいた。
「いけない、私ったら、退魔師さんにヒトの心を操らせようとしてるわ、家庭のお悩み解決ね」
いけないなどと決して思っていない。それは態度のひとつ取ってみても明らかなこと。
指を擦りながら語っているこの女の肩に乗っている赤子は果たしてどのような事を想って憑いているのだろう。どのような関係なのだろうか。
天音としては最も苦手な性質を持つ霊だった。聞き分けがなかったとしても人としての感情を熟成させた相手であれば。せめて腐り切ったように己のことを実からこぼすような人物であれば。そう思わずにはいられなかった。
何を考えているのかを語る手段が乏しい相手。霊となることによって影が射して曖昧になってしまっている表情。
何も分からないことこそが恐ろしさを生み出して。それは頭の上に浮かぶ疑問符の数を更に遠慮を知らないままに増やし続ける。
「ねえねえ、もし解決したら一緒にスイーツなんてどうかしら」
それは認められるものだろうか。報酬のひとつのつもりなのかも知れない。しかし、天音としては一緒にスイーツをいただきたい相手が他にいた。それともここで予習することで美味しければ晴香に胸を張ってオススメ出来るものだろうか。
「もうすぐ着くからね、早くあの男を黙らせてちょうだい」
初めから彼女の望みなど決まっていた。その言葉に重みなど感じられなかった。まるでちょっとした悩みの為に気軽に頼っているよう。以来のための金も夫が稼いだものなのだろう。
「訊ねたいことがあるのだけども」
天音は女の態度や仕草、悩みなどを見つめ続けて黙っていたものの、ようやく言葉を向けてみた。
「なになに」
「黙らせたい夫とやらに対してどのような悩みをお持ちでいらっしゃるのかい」
そこからは女の見てきた世界による限定的な角度を持った語りが幕を開ける。
彼女の悩みとはどうやら夫がそこに居ない子どもの服を買うというもの。いるはずのない子どもの世話をして、そこに居ないはずの子どものごはんをも要求するというもの。
事実としては話半分で、しかしながら彼女の中の純然たる真実としてその語りを聞いて紙に留める。天音が立つことの出来る位置などそう広くはなかった。女の方に赤子の魂が居座っている以上、完全に信用は出来なくとも、事実はある程度混ざっているということを心に締め付けて。
覚悟を決めて深呼吸を一度、続けてチカラが抜けては女の肩にしがみつくように乗っている赤子と目を合わせては更に肩を落とす。
視てはならない、会話を試みるにはあまりにも自分は弱すぎる。天音には理解できていた。普通の人物を見つめるだけであればともかく、あの女に憑いている赤子は普通ではない。見つめるにも目や口、仕草に声までありとあらゆることを見ていなければ理解すら許されない存在。声の調子や顔の緩みだけで意味合いが変わってしまう。仮に生きているとすればそれを雰囲気で読み取らなければ間に合わないこともあるだろう。生きていなくともそういったことも起こり得るかも知れない。
まさに、生きている赤ん坊を見ることとそう大きく変わりのあることではなかった。
赤子はきっと生きている時よりも大幅に抑えられているだろう声を上げ、笑っているようにも見えた。しかしながら天音にはその様が受け入れられない。死者としてはあまりにも純粋な表情。きっと分かっていない事実は言葉でも伝わらない。
「そこの赤ちゃん」
「ええ、可愛いでしょ」
女は憑かれている。世に疲れてそれでも歩み続けた末路だろうか。この女の目にはその赤子が生きているように見えているらしい。
「はは、確かに愛らしいですね」
本心から出せる言葉ではなかった。天音には分からなかった。純粋な表情の変化は乏しくてしかしどこか色豊かに見える。生きている貌の動きをしているにもかかわらず生気は宿っていない。見えるのに見えない。霊視における不自由が恐ろしい程に理解の壁となって、すりガラスのように曖昧な姿でそびえていた。
話を合わせつつ、女の言葉の流れから赤子の想いを見通してしまおうと試みる。例え人生経験を積んでいなくてものを知らない子であれども大人の目を通して望んだ雰囲気を漂わせることくらいは出来るはず。
そう信じて家に向かうまでの間、内に射し込む影なる感情からどうにか目を背け、気が付けば赤子に向けられてしまう視線を世界へと逸らしながら女が向ける言葉を受け止め噛み砕いて。
やがてたどり着いたそこはごくごく普通の一軒家だった。微かに紫がかった茶色と灰色の間とでも呼ぶべきだろうか。そんな壁に黒と呼んでも差し支えのない紺色の屋根、それらはどう足掻いてもこの世の中で目立たないように、ひっそりと暮らしたいが為の色合いのように見えた。
「はい着いた」
口と共にドアを開いて中へと招き入れようとする女。
天音は家の入口へと入ろうとする足を止めた。その先に待つものは果たしてどのようなものなのだろう。開かれたドアの向こうから外出しますとでも言うように勢いよく飛び出して来た形無き心無き何か。鼻で見て取ったそれはひと時たりとも一緒に居座りたくないと吐き捨てたくなる強烈な悪臭だった。
「なんてこと」
果たして中はどのような有り様を示すものだろうか。想像するだけでも全身を寒気が駆け巡っては動きを止めて気を固めてくれる。
「おやおやここで過ごしているというのは本当のことかな」
「立派でしょ」
女には周りが見えていないのだろうか。その顔を彩る無邪気な笑みが気味の悪さを引き立て、悪臭漂う家のただならぬ気配をどこまでも掻き混ぜ掻き立て強めていって。
この女がおかしく感じられる元凶はこうした環境での生活なのではないのだろうかと思わず勘ぐってしまっていた。
「拝見あれ、ご覧あれ、そんな態度がありありと。恥は知らないか」
「悩みの解決をしてもらうもの、恥ずかしがってはいられません」
やはり見えていない。現実も、問題も、なにもかも。
導かれるままに入り、閉じこもっていた悪臭による招待を受けて、奥へと足を進める。生臭い匂いに埃っぽさや食べ物の香りが混ざり合って、どのようなもてなしもこの場所では意味を成さない。
リビングへと進んだ。そこで天音は目を見開き揺らす。
確かこの女には旦那がいると言っていただろうか。確かにいると言っていた。
その目に映る景色、瞳を塗り付ける景色に戸惑い以外の色を捨て去っていた。
床に散らばるゴミに積もり積もった埃や汚れ、何ひとつ整頓されないままに積むという体勢すら取っていない食器たち。
果たして既婚者の家と呼ぶことは出来るものだろうか。
「ああ、お茶を出さなきゃ」
「いえいえ、お気になさらずに」
崩れたバランス、キッチンの流し台の中に納まり壁に寄りかかる食器の中から黄ばんだティーカップを取り出そうとする手を掴んで無理やり作った笑顔と共に言葉を重ねる。
「お気になさらずに」
「食器棚、綺麗でしょ、高かったの」
この女には何が視えているのだろうか。最早異なるモノで視界や思考が埋め尽くされてしまっているようにしか見えなかった。
「あなた、お客様よ、下りてらっしゃい」
あなた、そう呼ぶことの出来る人物は果たしてここにいるものだろうか。
天音の予想、気持の悪い予感は見事に的中していた。
何もない、或いは目の前の女にしか見えない何かを抱きながら無邪気な笑みで家を照らす。
「旦那様です、カッコいいでしょ」
そこに何を見ろというものだろうか。そこに広がるものは単なる無、ただの空間だった。女の笑顔が薄気味悪さ一色に染まっているように思えた。
「イイ男じゃあないかい、夫婦そろって美形だなんて」
ただ話を合わせて、ただただ話を進め続けて。
「ねえ、でしょ。でもね」
女が繋げた言葉のその先は語られることもなかった。分かり切った話。天音にはこれからそうすればいいのか、先ほどの会話の内容がありありと思い出される。
見えない相手、架空の関係。この女の中では現実なのだろう。この女のごっこ遊びはいつまで続けられるものだろう。赤子の霊を祓ってしまえば終わるのだろうか。ごくごく普通だと思っていた部屋がゴミ屋敷で、旦那が居るという思い込みも天音の行動ひとつで解かれるのだろうか。そもそもの話、赤子は何を望んでいるのだろうか。
分からないのなら強制的に取り除く他ない。
不意に浮かんできた正気の選択肢を鋭い目で圧倒して首を左右に振っては否定する。
霊に対する接し方としてそれは最後の手段。可能な限り取りたくない方法で、天音の選択肢としては本来あってはならないものだった。
「旦那様、ねえ」
果たしてどのような生活を思い浮かべているのだろうか。女の見ているモノが確かでない以上は赤子の方に再び目を向けてみるしかなかった。
赤子は相も変わらず表情をさらけ出してくれなくて、天音に伝えられる雰囲気もない。
「なるほど、もしかすると霊の仕業、そう言った怪しい存在が嫉妬に駆られてこのような出来事を起こしているのかも分かんないね」
そう語り、捜査を希望した。
天音としては気になることが幾つかあった。
まずこの家をどのように建てたのだろうか。架空に憑かれてしまっているこの女には頼れない。どのような話が出て来るのか、それすら分からないのだから。
手始めに書類を探ってみる。仮に旦那様と呼ばれる人物が実在するならば何かしらの資料は残っているものだろう。この家の有り様を見るからに捨て去られていることは考え難い。
紙を、引っ張り出し、手帳を捲る。そこに書かれた名前と電話番号を控えつつ、勤め先の会社に電話をかけて確認を取り、現れた旦那と呼ばれる人物と会う約束を取り付ける。
こうでもしなければ進展は見られない。天音の見立てでは聞き込みから事実を探ることが一番だった。
約束を取り受けるまでの流れの中で実の旦那だということを確かめて、天音はこれからどう進めるのか、女と向き合っては疑問という形から始まる法螺を吹き、架空のメロディを奏で続けた。
「奥様、旦那様はお仕事に行かれているでしょうか」
「いいえ、私の旦那は、あれ、どうして」
「そこにいらっしゃる者はどうやら旦那様が御残しになられた残留霊のようですね」
どうして仕事に行かないのか、女の幻を霊として話を進め続ける。そうでもしなければきっと何ひとつ納得してはもらえないだろうから。
「霊にも様々な種類があります。浮遊霊に地縛霊に怨霊から守護霊。そんな中でもコチラは生霊に近いでしょう」
赤子の霊は水子ではないだろうか。実のところ女の流産の話はこの家庭がごくごく普通でありきたりなものの内に起こった出来事ではないだろうか。
天音の中にて渦巻く疑問、解決の為には必要と思しきそれを紐解くためにも一旦旦那に会う。そう語りながら赤子と目を合わせる。
「大丈夫、アンタのことも救ってみせるから安心をたんとお持ちでお待ちな」
しばらくの間はこの家で時間を潰す他なかった。二階建ての家、その中にはどのような痕跡がどのようなカタチで残されているものだろうか。
今できることは調査あるのみ。目の前の現実と向き合い出来る限り真実に近づくしかなかった。
風呂場には脱ぎ散らかされた女物の服が色とりどりの絨毯のような様を示していた。この時点でやはりというべきだろうか。
「旦那とやら、逃げたわけじゃあるまいな」
しばらくこの家に顔を出していないことはほぼ断定して間違いなかった。
女はその事実に気が付かずに旦那のいう存在しないはずの息子がどうだとか言っているのだろう。
頭の中で現実にて見える範囲のことを出来る限り感情を挟まずに纏める。
二階にも上がってはみたものの、そこには欲しい手がかりなど何ひとつなかった。
きっとここには何年も上がっていないのだろう。埃の積もった床がそれを語っていた。
人々の痕跡、動くことで残されたものが、長い月日を経て動かなかったものが、その家の中での小さな物語の真実を語り続ける。
二階は使われていない。一階も女の状態故にあまり良いとは言えないあり様。このままでは食事もままならない空気感。その中で女はカップ麺に湯を注いで優雅に待ち続けていた。
「今から昼ごはん。今日はパスタを茹でるの」
「そりゃあよかった」
女はいつまでもどこまでも非現実に囚われていた。藻掻くことさえ忘れ去って今の彼女は果たしてこのまま生きて行けるのだろうか。心配が寒気に形を変えて心を通り抜ける。
あまりにも現実とかけ離れた光景を見る女に対して天音は恐怖を覚え、背筋を撫でつける風の尾を見ていた。早く助けなければ今は良くても後に犯罪などに無意識の内に手を染めてしまうかも知れない。そんなことを想わせる危うい人。
悪臭漂う部屋の中、何ひとつ気付かないまま生活を営む彼女の食事の中に、天音は言葉を挟む。
「そうだね、アタシ、足りないものがあるから取って来る。資料やここからアンタに向けて為すべき術の方向も整えなければいけないし」
そう言ってその場を離れ、ひとり置き去り。罪悪感を覚えながら、あの光景に寂しさを覚えながらも歩みを進める。
夫婦の関係はどうなっているものだろうか、再び仲良く過ごすことは出来るものだろうか。
「救うためさ、もっと気合い入れな、アタシ」
沈み切った心はいつまでも沈んだままで、なかなか浮かび上がってなどくれない。水に浮いてしまう程軽いと思い込んでいた心が浮いて来なくて、身体をも潜り込ませて取る前に気分を落ち込ませてため息をついてしまう。
そんな心持ちで霊を祓えるか心配になってはそうした想いがより一層天音の足を引っ張っていく。まさに渦巻きに飲まれたようだった。
家を出て、男との待ち合わせ場所を一目見て和菓子店へと身を入れ込む。
「甘菜、時間潰しに来てみせた」
「あらあら如何なるお客かと思えば」
言葉と共に、声と共に姿を現したのは背の高い女。脚をしっかりと伸ばし歩く姿はあまりにも無駄や隙を感じさせない。
「やあ、天音さんいらっしゃい。ウチに自分から来るのはいつ以来かな、嬉しいよ」
後ろの男は気持ちのいい程に晴れやかな笑顔で天音のことを迎えていた。ここまで邪気を感じられない夫を持った甘菜という女を見つめ、ため息を吐いた。
「どうしたのかしら」
「どちらもいい性格していらっしゃるなと」
嫌味に気が付いたのだろうか。気が付いたものだろう。甘菜は口をとがらせていた。
「私だって綺麗な心でありたいわ。でもね、何故だろうね」
気が付けば他者を見下して目を向けた頃には周りに人など寄って来ない。意識した時には孤独を引き寄せて味わってしまっている女、それこそが甘菜という人物。陽気を保つために湿っぽい陰気な発言が出て来るのは音からの人間性とでも呼べるものだろうか。
「で、あなた何しに来たの。心無い女の作った和菓子に魂なんて宿らないってバカにでもしに来たのかな」
「ははっ、そんなわけ」
冷やかしなど執り行っている場合ではなかった。天音は手帳を取り出してカートリッジ式の筆で今向き合うべきことに関して書き留めて行く。
まるで出口の見えない、果てが覆い隠された霧景色。
抹茶と最中を口にして書き留め思考を巡らせ、現状の調査範囲の限界と調査不足が連なる様を見てはより一層大きなため息をついていた。
「このままだと、考えても進みやしないね」
赤子を強制除霊すれば解決、それは目に見えていたものの、果たしてそれしか取れる手段がないものだろうか。
天音としては出来る限り選びたくない手段だった。
「甘菜はさ、今の状況で出来得る限りの全知を持ったとしてそれでも足りなかったら霊にどのような対処を施すものかい」
訊ねても気分転換にしかならない、それは分かり切っていた。それでも甘菜に訊かずにはいられなかった。それこそが気分と向き合う手段のひとつだった。
甘菜は天井を仰いでは窓ガラスの向こう側を見通して重々しい口を、口紅が彩りを与えている唇を艶めかしく動かしては悩みとは無縁そうな完璧を想わせる落ち着いた声を奏で上げる。
「そうね、先送りにして手がかりや証拠をつかむ。基本しか踏まないけどこれに尽きるわ」
凄腕などと言った言葉は技術にしか用いることが出来ない、そんな人生を歩んできた者たち、似通った思考、とは言えどもこの業界ではやはり単純な回答にたどり着いてしまう。それはやはりこの仕事の本質なのだろうか。
時間を確認し、財布を取り出して甘菜に会計の意志を伝える。
店を出て、男との待ち合わせ場所へと足を向ける。
日は沈み、辺りは恐ろしく見えない闇の中。足元すら見えてこない住宅と住宅の隙間の狭い道路。そこに寝転がる男の姿もあったものの、無視を決めて進み続ける。
「酔いつぶれるには早い時間じゃあないかな」
甘菜の店を後にした時間を思えば今世間ではようやく晩ごはんにありついたところだろうか。晴香もきっともう家にて食事を楽しみながら笑顔を浮かべているところだろう。もしかすると笑顔を曇らせてしまっているかも知れない。もしもそうであれば天音にも原因がある、そう、反省しなければならなかった。
やがてたどり着いたファミリーレストランにて、座り心地のいい席に腰かけて待つ。
それから十分近くは過ぎ去っただろうか。現れる男の姿は立派なスーツをきっちりと着こなしたまさに仕事人という言葉が綺麗に当てはまる人物だった。
男は伸びをしながら肩に手を当てて腕を回す。
「デスクワークとやらも大変みたいだね」
身体の節々を痛めてしまうのは運動不足だけではないと言った様子だった。
「ずっと同じ姿勢なのも良くないよなあ」
天音は思う。心の中にて感情を描き続ける。天音の小児はけっして合わないその仕事、それを毎日こなすことが出来るというだけでも尊敬という偽りを真実に似た色に染め上げて掛けることが出来た。
「退魔師なら案外似たようなことしないのか、書類作成も自分でやるんだろ」
「アタシの取る手段なんて紙でポイポイポイでしかありゃしないけどもどうか致したかな」
簡単に述べられる言葉、単純という分類に纏められて語られる重みを残さないその言葉に男は目を見開くのみだった。
「それはそうとアンタには小さな息子がいらっしゃるのだったね、お見せできやしないものかい」
妻から聞いた話だろう。きっとホラ吹きとして語られているのだろう。それを天音の表情の裏側の無から勝手に汲み取って思わず笑いを吹いていた。
「いいぞ、妻の味方なら疑うことも無理はない」
その言葉が突っかかりも無しに出て来る時点で今の夫婦の仲など分かり切ったものだった。
「あの女、流産したって何故か勘違いしてるんだ」
天音は首を傾げる。突然降って来た疑問に頭は理解を拾うことも叶わない。渦巻く不明、分からないという言葉で簡単に現わすことの出来る感情にかき乱されて頭の隅から隅まで何ひとつ正気ではいられない。
天音の中で確かな疑問が残っていた。もしも男の言葉を真実だとするのならばあの赤子の霊は果たして何者なのだろうか。
想像の中ですら予想も付かせない。残された疑問の上に事実と思しきものは積もり続け、天音の思考は惑わされた。
実際のところこの旦那はどこまで事実を述べているのだろう。息子にも話を聞いてみよう、もしかすると赤子の霊を見ているかも知れない。現実が見えていない分なのだろうか。子どもは霊的な存在をよく目にするのだと世間では言われていた。
「まずはさ、息子にも会わせてくれないかい、アンタの妻を正気に戻すためにも今は必要か分かりやしない情報でも欲しいものさ」
言葉の導きの下に男は天音を自身の住まいまで導いて。
歩き出した天音は重たい疑問を首にかけていた。幼い子には育てる役割を持つ人物でもいるのだろうか。もしかすると夫婦のどちらかの親なのかも知れない。
人との関わりの輪は天音の願望などお構いなしに広がり続ける。そこから更なる関りを運び込む。
やがてたどり着いた家にはしっかりと鍵が掛けられていた。当然と言えば当然のこと。それを確認しながら男は鍵を取り出して開いて天音を招き入れた。
「さて、中に息子がいる」
男の言葉に背中を押されて天音は家に上がるものの、次の瞬間、目を見開いた。
そこには誰もいない。広がるのは果てしない無、あるのみだった。妻と別居しているのはやはり妻の姿からただならないものを感じたが為だろうか。
男は部屋の真ん中で空気を撫でているのだろうか、そんな仕草を見せながら天音に見えない何かを引き連れて見せつけるよぅな恰好を取る。
「この子こそが自慢の息子だ、よろしくしてやってくれ」
天音は頭を抱えて唸りを抑え込む。
おかしかったのは妻だけではなかった。そう、夫婦揃ってナニモノかに憑かれてしまっていたのだから。
「は、はあ。よろしく」
手を繋いだ仕草を見せ、男の目に映る景色というものを想像する。もしも許されるものであれば訊ねてみたい。どのような物を見ているのか、どのように見ているのだろうか。
それを訊ねることは許されない。してしまえば今あるこの関係が全て偽りなのだと、所詮は妻の方の味方なのだと彼の中で決まり切ってしまう。
本音を言うなれば、どちらの味方でもないはずなのに。
「どうだ、カッコいいだろう」
「かわいいね」
返された言葉に男はため息で返すだけ。言葉が考えの歪みを生んでしまっていた。
「これだから女は。普通カッコいいって乗っかるものだろ。やっぱりアイツと同じ性別は理解してくれないな」
「悪かったね、依頼主と同じ性別で。でもさ、子どもの内はどうしても可愛くて仕方ない、なんてのは男でも思うことじゃあないかな」
「意見するなよ、気が使えるのが女とかじゃなかったのか」
果たしてこの夫婦は付き合っている内にどのような生活を歩んできたものだろうか。様々な教えは女が得意気になって教え込んだものなのかも知れなかった。
「気を使うなんて、仕事以外でやってりゃ疲れて人もねじ曲がってしまうってものさ、そんな捻じれた関係だとね」
どこまで伝わったものだろうか。仕事で関わっている人物の言葉としてはこの上ない説得力の無さでしかなかった。
そうしたことを、出会って得た情報、片方ではなくどちらも共に惑わされているという情報を書き留めて目の前の男を見つめる。
あの女が語るイイ男だったのだろうか。その目の輝きが本当の息子や娘に向けられる日が来たとしたら、もしかするとそうなる日もあり得るだろう。そう頭の中に書き留める。
天音の頭の中では思考が渦巻き続けていた。ふたりの見ている現実。流産からの不仲の道と産み落としてからの育児。このズレは果たしてどのような原因で引き起こされているのだろう。怪異としても何がふたりの見える世界をここまで切り離してしまっているのだろう。
天音は男と離れ、またしても妻の方へと、赤子の霊のところへと向かう。
男に霊が憑いていないのならば、原因はそこにしかなかった。
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