第6話 コーヒー

 和菓子屋の中でテーブルを囲んで茶を啜り、天音は目の前に座る女を睨み付けた。

「何もかもお見通しでしたってワケかい」

「何もかもお見通しでしたってわけよ」

 訊ねたことを殆どそのまま返してみせる女は現実離れした美しさを持つ顔を見せびらかして夜の闇から逃れたこの店の中で同じように茶を啜っていた。

「そいつはいいこと。人さまのこと分かり切って糸を繰り続けようだなんて妖の類いなんかよりよっぽど恐ろしい者じゃあないか」

「いいえ、人だから成せるだけのこと、あなたのことを想ってのことよ、だから分かってあげなきゃ」

 甘菜の言葉はどこまでが本気のものなのだろう。言の葉の贋作など、この店に並べられた茶碗と同等、有名な陶芸家の手のひとつも触れないままその名を背負うものと同じ程度の価値のものなど、例え綺麗でも受け取りたくはなかった。

「想って、ねえ。利用価値を見ての間違いかねえ」

「それだけ言えれば問題なしよ」

 晴香はそわそわしていた。静かな店の中で響く会話、その声色はいつもよりも固くて言葉までもが徒にほぐれていないように感じられた。そんな言葉たちが落ち着いた空間に雫となって落ちて波紋を広げては心をもざわめかせる。いかにざらざらとして自然の感触を体現した茶碗から伝わって来る夢の心地と注がれた茶の大人びた香りと温もりが落ち着きをもたらそうともそれだけでは全くと言っていい程に足りなかった。

「あの、そう言えば甘菜さんはどうやって天音と知り合ったんですか」

 気になっていたこと、それひとつで会話をずらしてしまおうとしていた。

「お願いします。天音のこと、よく知りたいけど天音は多分甘菜さんとのことを語りたくないと思うからこの機会に」

 天音がその手を伸ばして晴香の口を塞ごうとするものの、塞ぐべき手を間違えていた。

 甘菜は嫌味を含んだ艶っぽい笑みを陰差し込む顔に浮かべながら天音にその目を向ける。

「手を塞ぐ相手、お間違えでおいでのようね」

 そんな言葉が幕開けとなり語られるものはそう多くはなかった。

「天音の高校時代かしら、大切な時期を拝借しただけのことよ。あの頃はもう少し素直だったと思うけどねえ」

「アンタに似て感情まで化かしただけのことさ、きつねさまのようにね」

 これだけで充分、晴香としてはこれ以上欲しい言葉など何処にも見当たらなかった。甘菜という女の天音に対して取る態度からして詳しく知ろうという気が起きなかった。

「いいかい、もうそろそろいいお時間だけども」

「そうね、戸締りね。こんにちはもう店を仕舞うわ」

「もう今晩だと思うのだけども」

「そういうのいいから」

 天音と甘菜が揃うだけで妖気など寄り付きもしない陽気が溢れる。ただそんな陽気の中に、底とは言い切れない程に見える程の分厚さと色の濃さの湿っぽい陰気が見て取れた。

 やがて店を出る。和菓子が出されなかった。そんな不満が天音の口から零れ落ちるものの、晴香は乾いた笑顔を見せながら宥めていた。

 月が昇る空、闇を覆い隠しながらも闇の中に隠れる雲。ひんやりとした空気に滲んで微かに雲の端から滲み出る月の明かり。

 寒気が迫って来て身を震わせてしまう空気に晴香は身を縮めていた。

「ひえー、これは寒いねえ。早く帰ろっか」

 そうして一日という日は幕を閉じた。視界を照らす空はとっくに幕を降ろしていたという事実には触れることもなく、また来てくれるはずの明日に想いを馳せて、天音と再び会えるはずの明るみに恋しい気持ちを向けて家に入って眠りゆく。

 続けられる時間、途切れることも眠ることもなく動き続けるその存在に流れるままに流されて、人生の中でも大切な時間に触れ続けるための体力を溜め続ける。

 暗闇、星すら見えない雲のカーテンにうんざりしながら歩んだ帰り道、指の感覚が覚束ない気温にもウンザリしていた。梅雨が明けようとしていたはず。そんな季節に蔓延る気温ではなかった。

 きっと今は寝ているだろう晴香へと想いを向けながら、見えない届かない、そんな愛をグラスに注いで飲み干すものは酒などではなくただの水道水。天音が酒を控える理由など見え透いていた。

「この気温も異常気象じゃなさそうだ。はあ、アタシの酒飲み時間、奪わないでいただきたいものだね」

 ドアをくぐった向こうではきっと乾いた寒気が渦巻いていることだろう。テレビを点けて目に映る報道、季節外れの寒気が到来したという内容はもはや聞くまでもなかった。

 テレビの電源を切って紺色の半纏を身に着けて、紐をしっかりと結んで見せた。

「まさか七月になってもアンタの世話になるだなんて」

 かじかんだ手ではうまく結ぶことも叶わないだろう。この場でほどけないように固く結んで最後にお飾りと言わんばかりに蝶々を結びでそこに留める。

 ドアを開いて足を踏み出す。霞んだ空気の中へ、震える指は既に力を失いかけていた。

 外を歩いては人々の反応をしっかりと確かめる。誰もが予想もしていなかったその気温。短いスカートを履いた女は足をさすりながら堪え、半袖の男は身を震わせ己を抱き締める。息は白く低くて薄い雲となっては消える。腹を抱えるように手で覆う若い女は笑うどころか表情を崩していた。

 アンタみたいな露出狂、霊にも嫌われて当然さ、胸元も開きすぎ。内心で毒づいて、外へと出すことなく溜められて行くのみ。寒気はあまりにも強く、冬の真っただ中を想わせるには充分すぎた。

「雪女が強くなりすぎでもしたものかねえ」

 妖怪は人に認知されることでそのチカラを蓄える。もしかするとアニメやマンガと言ったものによって異なる形とは言え語り継がれる人気者の内の一体である雪女が強くなりすぎて抑えきれなくなっているのかも知れない。

 そう考えを纏めて歩いてはみたものの、味雲の仕業、霧葉と再び会うための活動のひとつかも知れない、そんな予想に振り回され始める。限界を通り越してみては脳天を突き抜けることもなく落ちて胸を満たす。身内がやってしまったかもしれない。その可能性を否定できないというだけでそうした考えが澱となって積もり、縄となって足に絡まっては重みとなる。

「アタシがやったわけでもないのにね、不思議」

 言葉にしてみたものの、それでも収まり止むことなくただ響き続ける罪悪感はただただ胸を突き続ける。

 これは果たしてどのような悲劇だろうか、あまりにも俗でありきたりな悲劇というものは当事者にとっては唯一で深刻な問題。安っぽいと言われても何処にでも転がっているなどと言われても、息が詰まるほどに苦しいことには変わりなかった。その苦しみを代わりに背負う者もいなかった。

 天音は解決してきた依頼を日頃から業務録という形で纏めていた。しかしながらここ最近の依頼に関しては滞りがあって、無記入の状態が続いて仕事の記録は白紙という形で続いてしまっていた。

 歩いて行く天音、周りの人々と比べて明らかに特徴的な姿はきっと誰の目にもいとも容易く焼き付いてしまうだろう。目の錯覚によって、或いは安っぽい着物という装いが災いして幽霊の類いだと勘違いされるかもしれない。そうしたことがうわさとなってこの世に生れ落ちる妖も存在する。

 知識を頭の中ではためかせ、無理矢理繰り広げながら、ひしひしと伝わって来る弱々しい気配を、冷気の源の霊気を辿る。思考のズレのひとつでも起こさなければ身が持ちそうもなかった。それ程までに近頃の件には心を叩かれ押し潰されていた。

 姿さえなき気配を辿って見えた先はある喫茶店。コーヒーを長年出して来たのだろう。しかし窓を覗いて目に入る景色から分かるように今は過去、営みは既にいつの日かの幻へと変わり果ててその軌跡はかすれた雲のように半透明でまばらな水玉模様へと変わり果てていた。当然のように鍵を掛けられていた。

 かつては人々の心を温めてきたコーヒーの香りはもはやそこにはなくて、染み付いた色だけがあの黒々とした香ばしい美味の存在を主張していた。

「そうかいそうかい、これはどうにかして入らなければならないようだね」

 窓に触れ、緩い造りであることを確認した。

「学校以外でここまで雑とおっしゃるか」

 言葉を吐き捨てて窓を揺らす。中に居座る気配に吸い寄せられるように入り込むための入り口を造るべく、悪霊にでも憑りつかれたような瞳の輝きを潤いの中に宿して。

 幾度となく揺らし続けては安っぽい鍵を外から持ち上げ開けて行く。傍からは泥棒にしか映らない事だろう。目立つ格好はあまりにも間の抜けた空気感を持っていた。

「このカッコだと入りづらいことこの上ないものだけども」

 そう呟きながら鍵を開けて。

 開かれた窓は結界が打ち破られた、そんな想像を見事に搔き立ててくれる。余計な想像、頭を震わせるそれは出来ればない方が助かるものだった。

 想像が挟まることで生まれる躊躇、知識が手を伸ばして足を掴んでいた。

 ここまで来て引き返す、そんな選択肢を天音は持ち合わせてはいない。気持ちを激しい咳払いで紛らせて、ぽっかりと空いた窓の口を掴んで跳ぶように身体を滑り込ませる。

 天音は乱れた服や髪を整えて深呼吸を繰り返し、きっとそこに居るはずの霊と向かい合う姿勢を作り上げる。乱れひとつが悪しき影響の手となり仕事の妨げとなる。どこの業界でも変わりないことだった。

 やがて霊が潜んでいるはずのところへと、中心地へと踏み出して、線香に火を点ける。

「いつまで眠っておられるのかな。さあお出ましの時間さ」

 夜という時間、世間一般の言うことによれば人々が寝静まるはずの時間、カフェを経営する者であれば尚更起きてはいられないはずのこの時に天音は見えないモノを無理やり引きずり出す。

 人前に顔を出す以上はあまり好ましくない時間に起き上がるそれは人前に見せられる顔をしていなかった。

 髪は手入れされていなくて肌はボロボロで、放置されて伸び放題のはずの髭は中途半端に伸ばされ放題、最も目を当てたくない塩梅を引き当てて突き抜けたその様は狙ってでも当てられない程。

 天音の脳裏に恐ろしく濃く焼き付いた。嫌悪感と共に留まり気色の悪い模様へと変貌していた。

「冬なんか起こしやがってこのそんなにコーヒー売りたいのかいこの男」

 毒づいてみても心を向けてみても無駄は無駄。この霊に声は届かない。手始めに注意を向けなければならないという状態に陥ってしまっていた。

「どうすりゃ振り向いてもらえるものかねえ、って、浮気の如き発言はおやめにしな、アタシよ」

 恋しているとも取れる発言をしっかりと発現させてしまった自身の頬を軽く叩いて見つめ直す。その男の呟きにでも耳を傾けよう、そう思って耳を近付けた時のことだった。

 耳元で突風が吹いて来た。

「きみは次いつ来るんだ」

 頭痛が走る。耳を塞いで顔を離し、突然叫び出した男を睨み付けて訊ねてみた。

「会いたいのはどなた様なのかい」

 幽霊はいきなり意思や感情でも拾い上げたのだろうか。言葉に変えて思い出の中身を放り込み始めた。

「俺はカフェを経営していた。温かなコーヒーでみんなの心を温めていたはずだったんだ」

 そんな出だしで語られてもただ頷くことしか出来なかった。

「俺はいつものようにコーヒーを淹れながら、お客様と話しながら和気あいあいとして落ち着いてた」

 周りから信頼されていたのだろう。現状の闇、周囲の静寂を見つめて天音はただお気の毒にと呟くのみだった。

「そんないつもの落ち着きは、ある日突然壊された」

 生唾を飲み込み意識を耳に傾け聞き入り始めた。悲劇だろうか、この世界に残り霊になるものなどみな心残りがある人物なのだから。

 気が付けばカフェのマスターは若々しい姿を取っていた。真ん中で分けられ整えられた髪ときつめに見える目元が心を惹いて仕方がなくて。まさにこの男のカフェというものの魅力が現れた姿だった。

「ある日平穏は壊されたんだ。明るい女の子の来店が、俺のコーヒーに甘い恋の味を教えてくれたんだ」

「いや、恋バナとやらなのかい」

 思わず言葉を挟んでしまった。天音の覚悟は全て抜け落ちて、だらだらとぶら下がるような格好で揺れる腕は袖をも揺らしていた。

「あの子は俺のことを好きだと言ってくれた。あの時は大学生だっただろうか。二十半ばの俺のことを、好きだって言ってくれてアルバイトをしながら毎日寄ってくれた」

 様々な会話を明るい表情とカフェの中においてはよく響く声でその場を幾度となく自分色に染め上げた二年の後、彼女は上京したのだという。

 ありきたりな話、祝福して見送るべき話。男はそれからの時というものを歩めないまま老けるまで時が更けて耽る心は過去を見たまま、もう二度と帰っては来なかった女を想いながら多額の借金を抱えながら首を括ったというだけの話。

 カフェというものの現実を見せられた、落ち着く空間で落ち着かないものを得てしまった。天音は目の前で負の感情を吐き続ける男に心の底からの怨念を贈呈して返したのだった。

「アタシがカフェでくつろぐことさえ出来なくなる御話なんておやめになれ」

 未練たらたら、美しいのは若かりし頃の姿だけ、そのほかの全てが何もかもが、果てしない程の醜さで充たされていた。

 この霊が想い人の居場所を知ってしまえばすぐにでも本当の不幸が訪れることだろう。人間模様というものはどこの場所でもまんべんなく薄暗い感情が蔓延っているものだと改めて実感しながら扇子を取り出して広げて。

 カフェのマスターに向けられるは夜空から始まる青々とした空の群れ。

 扇いで届けるそよ風はあまりにも冷たくて天音の指をも凍り付かせようとしていた。

「冬よ眠れ、あなたの時間は今じゃあない」

 現実離れした異常気象を吹き飛ばすように扇子を扇ぎ続けて風を送り込む。これからどこへと向かうのだろうか、それが分からない彼には恐怖でしかなかった。

「俺はただ、コーヒーであの人を温め続けていたい、ただそれだけなのに」

 そんな男の言葉、孤独の末に生まれた声に天音の声が被せられる。

「ああ、それなら待っていればいいさ」

 男の足は透けて、やがて消えて、天音の目の前に残るものは幻像か実物の幻か。

「人生の終わりの果て、そこで待っていらっしゃればきっとまた会えるから」

 分かることの出来ない実態に分かることの出来ない心情、そこに分からないながらの、分からないからこその責任を背負わない軽い言葉を添えて伝えて。

「そっか、あと何十年か」

 消え入る言葉は途中で声にすらならなくて、その姿はもう目の前に遺されていなくて。

 天音は扇子を閉じて未だ冷たい空気によって冷やされた窓の桟に手を掛けて、顔をしかめながら脱出した。

 その視界の中に入った光景、窓を乗り越えた向こうに広がる景色に目を奪われていた。

「季節、もう少し考えてみな」

 夏に降る雪は当たり前とでもいった態度で積もっていた。暗い闇と白銀によって形作られた平行線は天音の今の心を洗うにはあまりにも冷たすぎた。

「あの男、最後の最後まで」

 コーヒーを出すため、人々を呼び寄せるため、その中でも想い人と再び言葉を通わせるために起こした寒気は街中に広がっていて、辺りでは子どもたちがはしゃいで雪を丸めて投げて駆けまわっていた。

「どれだけ寒くなれどもあの子とやらは来やしない、お分かりじゃあないものかねえ」

 既に経営されていない店に来る人はいない。

 そんな簡単なことを、向ける相手すらもういない明確な結論の言葉だけは心の中に仕舞っておいて。天音は雪景色に見惚れて立ち尽くすだけだった。



  ☆



 朝日が昇る。夏の訪れは冬の寒気をも溶かしてしまったものだろうか。昨夜の寒気も雪景色も何もかもが嘘だったとでも言いたいのだろうか。すっかりと晴れ渡ってしっかりとした日差しがねっとりとした湿気に熱を注ぐ。

 天音からすれば蒸し焼きのような季節、とは言えこれから秋には体調を崩しやすくなりやがて昨夜の如き強烈な寒さを纏った冬を蔓延らせるのだろう。いつ何処に居てもきっとこの心から不満が消え去ることなどない。永遠の課題とでも呼べるものだった。季節の化粧、気候のおめかし、それを睨みつけつつも今の蒸し暑さを見つめ続ける。きっとと桁行が蒸気となって漂っているものだろう。あの霊現象は、終わってもなお続くのだろうか。結末の実は甘美とは言い難かった。

 天音は近ごろの己の行動を振り返る。床に立てられた透き通るビル群のミニチュアとなった酒瓶たちは殆ど配置を変えていない。

 忙しさや人々の想いに急かされるあまり、楽しみの時間というものを忘れてしまっているものだろうか。なにも楽しむ余裕を残さない。これこそが社会に加わるということだろうか。

 趣味のひとつも許されない。人として生きる権利など所詮は権利でしかなく手放す羽目になるのはほぼ必然。今の世の中の流れ、上層部の思想の流行というものをひしひしと感じていた。

 今日は暇で、ようやく得られた酒を浴びるようにいただく機会。しかし彼女にその気は最早残されていなかった。

「しばらく、休みたい」

 人々に仕えることに心への侵入を許し過ぎた。疲れ果ててはもう何も起こす気力は残らない。ここ数日を振り返り、休みなど殆ど許されなかったことを知り、給料の少なさに呆れてため息を吐くばかり。

 眠りの世に浸ろうといったその時、呼び鈴は天音の意識をも現に引き留めた。

 ドアを開いて見つめる。

 来客は茶色の派手な髪を揺らしながら化粧で整えた顔を見せつける。肩にしがみつくように乗っかる赤子には生気が遺されていなくて、天音の目には呆れるほどに明らかな霊として映っていた。

「なんだい、赤子のオバケさ持っていらっしゃって」

「実は、流産して、それから最近二児を出産したんですけど」

 話を聞くからにそれ以来体調が悪くなったのだと語る。それだけであれば原因など既に分かり切ったものだった。しかしながら不可解なことが、現実のセカイでの視点だけではっきりと理解し得ないことが度々起こっているのだという。

 動かしたつもりのないはずのものが動いて、気が付けば手元を離れていた。夫から理由も無しに気味悪がられて食べたつもりのないものまで減っていた。

 他にも上げればキリがない程の出来事に加えて近頃は夫が怒りを露わにし始めたのだという。

「男はキレない訓練だとか我慢だとか、会社の中でしか行なわないしそこだけでやればいいってご自分の中で線引きしてらっしゃるのも多いからねえ」

 そうは言ってみたものの、天音の目には女の方の瞳の底で揺らめく靄の方が気になっていた。

 ため息をついて、勤務に休みがないことを確かめて一日の平均日給をおおよその範囲で求めては更なるため息をついた。

 善意や使命感による無賃労働によって休みの少なさと労働時間が増えればそれだけ賃金が減るように思える固定された報酬。

 まさにやりがいだけで押し切る黒々とした企業の姿そのものだった。

「今月の給料手取り十二万に届けばいい方かなあ」

 呟きは女の耳に届かない。まるで憑りつかれているような姿に赤子が憑りついているという正真正銘の事実。それらを確認しながら粗末な和服の袖を揺らしながら、女の示す方向へと歩みを進め始めた。

 景色は幾らでも天音の心を洗おうとするものの、依頼者の存在が濁りをこれほどかという程にもたらしていた。

 これ以上は考えても仕方がない、ただただついて行っては思考の無をこさえて更なる無の深みへと指向し、意見を持たない仕事人を志向する。今は必要ない、何も要らない。

 持つべきものは従うこと。趣味も関わりも何もかも。

 そんな天音の力無き抜け殻模様の姿を見つめる男がいた。桑色の半纏を整えながら微妙に合わないサイズを気にしながら、観察を続ける。

「取り込まれたな、この調子だ」

 味雲の目には邪魔者の排除という理想の結末がおぼろげながらに映されていた。目的の妨げになってしまうあの女を、特に良い扱いを生前に施してくれたわけでもないあの女を深淵の深みへと陥れて行く。

「いつだって邪魔ばかりだったな、今もなお、これからだってそうなるに決まってる」

 天音という女、幼い頃に数年間だけ離れて過ごしていた姉、ひとり出て行って以来道の枝分かれに導かれてますます考えの違いを認めないという己の色を重ね塗りして行った彼女を睨みつける。

「最後まで霧葉と一緒にいることを認めなかったのは天音だけだ。きっとまた会いたいってだけの考えも、切り捨てるんだろ」

 それは最早分かり切っていた。会話の余地さえ残していなかった。

 また会いたい、折り重ねられて厚みを増した薄っぺらな願望。そんな願望ひとつを数多の犠牲と共に現実に呼び起こすこと。

 それは明らかな罪。他人に迷惑をかけてまで、人々を不幸に陥れてまで自身の願いを優先するということ。明らかな過ち。

 それでもなお止まることが出来ない。それでも進み続ける。絶対に現実の前でひれ伏すしかない。それは永遠の不幸を受け入れざるを得ないということ。

「お前はずっとそのままでいろ、幸せなんか味わう権利がない。そう言われてるみたいだが」

 そのようなこと、認められるはずもなかった。交霊術や降霊術の類いで構わない。どうにか霧葉と会って。

 そこで気が付いてしまった。

 会ったとして、その後はどうするのだろう。会えたところでこの先はない。そこが決別の時となってしまう。

「その一回だけか」

 鳥肌が全身をくすぐる。この上なく心地が悪くて生温い。そんな感覚の中で確かめた確かを握りしめて、味雲は恐怖に竦んでしまった。

 間違いなく、もっと会いたい。ずっと一緒に居たい。そんな汚らわしい欲があふれ出してしまうことだろう。

「霧葉」

 味雲の彼女は向こうの世界、この世の果てに敷かれた境界線の向こうでどのような道を歩んでいるのだろう。

 もしかすると何もないところで仏さまの説教でも受けているのかも知れない。もしもそうであれば味雲には霧葉が真面目なまま聞いている姿が思い浮かばなかった。

 あの子の笑顔は未だに生きていて、味雲の魂を叩き続ける。強く激しく暑くありながらも冷ややかに。霧葉という人物は一見すると頭のよさそうな顔をしていた。口を開けば明らかに知性の欠如した発言が多く見受けられた。しかし本質を知れば、遊びたがりの普遍なる不偏。ごくごく普通という評価が下せる程の人物。

 そうした一面が未だに味雲の心を捕らえては明るい笑顔を浮かべ、その顔を傾けて味雲の中を優しさで充たすのだった。

「天音、やりすぎだったかもしれない」

 願いの為に突き進み走り続けた。今更引き返すことなど味雲自身が許さない、そのはずだった。

 今でもあの笑顔を思い出す度に捨て去ったはずの優しさを思い出してしまう。それは味雲の願いの実現の足を引っ張る存在。蛇の絵に描かれた足と同じものでしかなかった。

「霧葉、何が正しいんだ」

 抜け出すことの叶わない地獄というものは、永遠の深みを持つ冥界は、味雲の中に在ったのかも知れない。味雲自身が生み出したのかも知れない。他ならぬ味雲本人が続けてしまっているのかも知れなかった。

 息が詰まる苦しさはけっして留まることを知らない。その感情は、というよりはその感情こそが霧葉がこの世にいた証。彼女と共にいて優しくならなければならなかった。どこまでも突き抜けた正しさと全てを見つめながら笑って冗談を交わすような優しさを見せて生きていなければならなかった。

 最早、味雲の願いそのものが霧葉の心を否定しているも同然だった。

「もう、やめにしませんか」

 か弱い心、それ故に過ちを重ねてしまっている味雲の耳にそのような声が飛んできた。

「今なら霧葉さんも許してくれると思います」

 味雲の目に映る人物、その後ろ髪に結ばれた紫色のリボンがその目を引き付けていた。

「おばあさんの孫娘か。霧葉のことを分かったように」

 そこまで発した言葉はここで止められた。味雲が間違えている。霧葉はこのような手段で戻って来たとしても手放しに喜ぶことなど出来ない。分かり切った話でしかなかった。

「分かりません、見たこともない人ですし何も関係がない人のことなんて」

 繋がりなどない。縁の糸など触れたこともない、そう断定して思考すら焼き切って言の葉をただひたすら撒き散らして会話とすら呼べない、持論のぶちまけを進めて行った。

「その人のことなんて分かりませんけど、それでもこんなことで喜ぶとは思えません」

 罪の重ね着を続けてきた味雲という男。霧葉の意志など死してからは見て見ぬふりを続けてきた彼本人にも分かっていることだった。

「あなたが惚れた人は、あなたにとって大切な人は、そんなにひどいことを認めるような人ですか」

 目を見開いた。溢れる感情は乾いた瞳を潤す涙になることは叶わず、ただただ感情と共に震え続けるのみだった。

「そうか、確かにそうかもしれないな」

 嘘を付いた。曖昧な言葉でぼかすのは紛れもない大嘘でしかなかった。

「でも止まるわけには行かないんだ」

 既に自分の意志では止まることが出来ない。心が訴えかけていた。止まれない彼はどう動くか、壊れたブレーキはただうるさく騒ぎ立てることしか出来ない。そこに選択の余地など残されていなかった。ますます想いの色を濃く強く重ねて塗りつけ人間模様の染物に変えることしか出来なかった。

「霧葉に会えるなら、どこまでも罪色に手を染めてやる」

 決して交わることのない理解。晴香は大きなため息をついて押し黙ることしか許されなかった。

「それとな、霧葉とは何も関係なかったって言ってたな」

 そこから語られる続き、その衝撃に晴香は素直に心を振り回された。

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