退魔師『雨空 天音』の宿命 ※アレンジ再掲

 それは晴香が大学受験を控えていた頃の話。


 夕方の草原、その言葉の持つイメージはあまりにも美しすぎてついつい口に出してしまいたくなってしまう。

 しかし、目の前に広がるそれ、現実はそう美しいものなどではなかった。

 薄暗い空は心なしか濁っているように見えてキレイなどとは口が裂けても言えなかった。

「きれいな空だね、天音」

「どこがさ。アンタの瞳はきれいであれども……もしやしてアンタの目のきれいさは外の景色のフィルターにでもなってんのかい?」

 ふたりきりのランニング、ただその事実だけですべてが輝いて見えた晴香に対して天音は晴香だけが美しくきらめいていた。走ることで流れ去る景色の全ては味がなくて面白みを感じられなくて、天音は盛大なため息をついていた。その様子をしっかりと見ていた少女は頬を膨らませた。

「私とじゃ不満?」

 途端、天音の背筋がここ数か月の記録を超えるほどに伸びた。

「不満さ。アンタを前にしては如何な景色を用意せども霞んでしまうのだから」

 走りながらの会話の中、晴香は走ることで感じていた熱以上の火照りに顔が茹で上がりそうだった。

「あ、あああ天音」

 緊張を感じさせる声で呼びかけられて曇りひとつない笑みを浮かべる。あまりにも晴れ渡った笑みは大人の女が浮かべたとは思えない純粋なみなもの上に佇む澄んだ泡のようだった。

 天音の言葉に惑わされかき乱されて必要以上に息の苦しいランニング、その途中に通りかかった小さな祠を目の端に天音は言った。

「あのたぬき地蔵、可愛らしいと思わないかい?」

 愛想笑いの進呈とともに同意を示したところ続きが即座に飛んできた。

「キヌもあんな感じの可愛さなら、幾たび来るたび思ったものさ」

「キヌさん可愛いじゃん」

「あれは晴香より目立つから罪人」

 あまりにも辛辣な言葉を耳にして哀れに思いつつ、後ろへ向こうへと距離を開け続けるたぬき地蔵に目を向けて前を向いて。やがて見えなくなっていた。



  ☆



 星空は暗い世界を照らすにはあまりにも弱くて頼りない。届かない、見えない。愛しい人は隣りにいて、しかしすべてを塗りつぶしてしまうこの世界の闇に飲み込まれたままでは愛らしい顔を拝むことなど叶わない。

 見えない分、晴香の声を堪能しようと声をかけ始めた。

「晴香、受験勉強ははかどっているかい?」

 しかし、思惑はうまく形を成さない。愛しいあの子はただ黙っているだけでしかなかった。

「世間様とやらは心が狭いからねえ、数字や記録、世間から求められる役の演技のうまさでしか人を測ってくれやしないものさ」

 それこそが真理、社会が求めた色の内から選び抜いた色で塗ることだけが社会にとっての正義。それだけのことだった。

 社会が図るものでもない価値、それが感情なのだろうか。

「それにしてもあのたぬき地蔵、なんであんなになるまで放っておいたものかねえ」

 話を変えた天音の言葉、その内容はいまいちつかめないものでしかなくて、訊ねて確かめることにした。

「天音が可愛いって言ってたあの地蔵がどうかしたの?」

 いや、別に。それだけつぶやきつつも、視線は地蔵の方を向いていた。いくら見えないとは言えども、慣れた目を相手にしては輪郭は隠しきれなくて気が付いているのは間違いないだろう。

「そっか」

 深いところまで訊くわけでもなく、ただそこで止まってしまう晴香に対する想いは天音の中で相反する極端な音色を奏でていた。

 晴香を巻き込むようなことにならなくてよかった、そう思う一方で真実を話さなかったことへの罪悪感が内側から削りにかかる。

 しかし、それは本当に悪いと思ってのことなどではなくてこの事実を共有したかったという身勝手な欲と話すことができなかったという意味しか持たない独りよがりな名残惜しさのふたつが織りなす自分勝手の最果てなのだろう。

――晴香は知りたがってはいるけれども、知らせない方が安全かも分からないね

 ただ仕舞い込んで晴香をこのことからできる限り隔離する。


 その最果ては、きれいなものだとは言い難かった。



  ☆



 静かな朝日の光がある家屋の中にまで入り込んでしみ込んでゆく。天音はある店の椅子に腰かけて外を眺めていた。穏やかで優しくありつつも明るくて決して弱いとは言えない景色の中になにを映しているのだろう。

 天音の元へと抹茶とわらび餅を運ぶ美人は仄かな笑みを浮かべつつ、口を開いた。

「さてどうしたのでしょうか。私に聞かせてごらんなさい」

 微かに顔を動かして目の端にその顔を一瞬だけ映してすぐに景色の方へと目を移す。

「言ったところでアンタの晩ごはんのおかずの彩りのひとつになるだけのこと。違う?」

「流石にお分かりですね、私の性格」

 店員は天音が頼んだものと値段を書き留めて差し出した。

「本当に変わり映えのしない性格してるねアンタは。そろそろ飽きられはしないかい? 甘菜」

「あなたこそ、嫌われることが得意でずっと通していたら誰からも相手にされなくなるんじゃない?」

 よく言うよ、アンタこそ嫌われているんじゃないかい? 思わずそう毒づいていた。

 その美人の名前は神在月 甘菜。甘菜の差し出す伝票の欄外に書かれた文字、それはこの店の名を示していた。

 その名は『てのるえか』という。古くからある文字は横に名を書き留める時、今とは反対側から読むのだそう。

「かえるのて、相変わらずだねえ」

 和菓子喫茶かえるのて、その店長を務める若く見える女、それが甘菜の正体のひとつだった。

 甘菜が出す茶は基本的には厳しい目を通して選ばれた所謂高級品、天音は女の手には似合わぬ硬い印象の立派な茶碗に注がれた泡立つ緑を口に含み、素直に述べた。

「アンタの店はやせ細ったお味の抹茶を高級品ってラベルだけ貼って出すのかい? 意地汚い金の亡者といったとこかねえ」

 甘菜は微笑んで言葉を用いて話を繋ぎ続ける。

「よくお分かりで。舌は衰えてないみたいね」

「むしろソムリエ気分の酒の飲み比べで味覚は磨いているものさ、あの美味を喉通して流し込むことでねえ」

 味覚が鈍るのではないだろうか、そう思いつつも思うだけに留めていた。

「で、なんでうちに来たのでしょうか、お話しなさい」

「はあ、本当はアンタに頼りたくなかったものの」

「なんでよ」

 驚きのあまり言葉が口をついて現れていた。一方で天音はさぞ愉快といった様子で笑いながらワケを語る。

「アンタのことが気に食わないのさ、面白みも何もあったものじゃあないからねえ」

 心の底から呆れつつも天音に入った依頼、それをしっかりと耳に入れる準備を済ませて、天音の言葉の隅から端までつかみ取るべく意識を向けた。

 話が周囲へ漂い、それを拾い上げる間に天音が向けていた目線の先にひとりの少年と向かい合って座る透明の気配を確認した。



  ☆



 明るい校舎の中、同じ服を着た集団がはしゃいでいた。

 教室でプロレスリングの真似事を行なう男子生徒たちに目を向けて、同じ制服を着た少年は一度ため息をついて万年筆を扱っていた。書かれているもの、きっと叶わない恋のお話。それを想うだけで重たくのしかかってくるものがあった。

「かずはる君ため息ばかりついてたら幸せ逃げてくよ?」

 和春、そう呼ばれた少年とその名を呼ぶ少女。和春の座る椅子の背もたれに手を置いて微笑む少女に目を向けることもなくただ話を繋ぐ。

「いいんだ、最初から大して幸せになれるわけでもねえしな」

 和春の開いた口からより一層大きなため息が出てきて少女の顔をますます曇らせた。

「もうっ! また。あんまり酷かったら私も逃げるよ?」

「いいっての。別に孤独なんて怖くもないし」

 孤独を恐れない少年、その勇気を讃える者などいるものだろうか。いつまでもそばにいる少女に対して冷たい心を言葉にしてぶつける。

「さとよも俺にかまってる暇があったらあいつらとプロレスごっこでもやってろ」

 山野 里予、それが少女に与えられた名前。里予は暴れ回る男たちに目を向けて首を横に振った。

「ダメ、あんな獰猛な人たちとは関われないよ。それより昔みたいに一緒に遊び行こ!」

 眩しい笑顔、それは和春の心に沁みて痛かった。

――俺、何言ってんだろうな

 そこまで気が付いていながらもおかしな言葉は止められない。

「それなら俺に一億寄越してみろよ、何年遊んで暮らせるだろうな」

 里予は怪訝そうな顔で変わり果てた少年を見つめて、訊ねた。

「どうして変わっちゃったの?」

 ここで見捨ててしまったら広げられるはずの関係性はもうお仕舞い。そうはいかなくて、納得がいかなくて、里予は言葉を紡ぎ続けていた。

「おかしいよ、かずはる君はもっといい子だったのに……ねえ、元に戻っていっぱい思い出作ろ!」

 今の彼に言葉という音はあまりにも薄っぺらで力などなにひとつ感じられはしなかった。



  ☆



 チャイム、行列、落ちかけの太陽。なにもかもが騒がしくて、加えて里予の存在があまりにも眩しくて目も当てられない。

――昔みたいに、無理だろ

 手を繋ごうとした里予だったが、和春の手はそれを弾いてしまった。

「ええ!? ダメ?」

 困惑した顔すら愛嬌があって、闇に住まい続けているような感情の和春の何もかもが焼き消えてしまいそうだった。

「ダメだ、俺は孤独を愛する男、愛だとかそんなものなくなっても痛くもかゆくもないな」

 里予には、和春のことが分からなくなっていた。今も、心の奥は煙に閉ざされたまま。

「ひとりなんて、私はいやだよ」

「俺はかまわない」

「どうしてそんなこと言うの」

 あまりにも酷い態度に、里予は既に別の世界の人間なのだと思い始めていた。

「放さないよ。寂しくなってからじゃ遅いから」

 違い過ぎる、だからこそ離れてしまっては完全にいなくなってしまうように感じていた。

「もとのかずはる君が帰ってくるまで、ずっとそばにいるから」

 いられるだろうか、不安しかなくて、息が苦しくて。しかしそうした暗い感情など全て総て何もかも無邪気な笑顔で塗りつぶす。

「元の? 俺は変わったんだ。ガキになんか戻んねえよ」

――そういうことじゃないんだよ

 しかし、そんな言葉も口から出て来ることもなくて心に仕舞われたまま。負の感情に押しつぶされそうな身体を自分で抱いて、どうにか堪えていた。

「まあいいや、俺は帰る」

「うん、またね。あーした元気になあれ!」

「俺は元気だが?」

「なんでもないよ」

 変なやつ、そう吐き捨てて立ち去る。


 元気ではない、それは私


 分かり切ったことだった。あまりにも簡単な自身のこと。みんなみんな遠くへ行ってしまって里予だけが置いてけぼりを食らってしまう。

――変わらないことっていけないこと?

 なにも分からなくなって残る想いはただひとつ。

――私も変わりたいよ

 変わる必要なんてない、大切なことに気が付いていたはずの少女は正解を見失って霧に飲まれるように消えゆく。近くにあったたぬき地蔵に見つめられ、身体は景色に透けて、声も風にすら乗らなくて、動かない、動けない。

――変わらなくていいんだ

 聞こえてくる声は里予の身を地面に打ち付ける。

――本当は知ってたくせに

 笑いながら語りかけてくる声に答えるための言葉も吐くことができないでいた。

――ずっとここにいろよ、変わる必要もないんだ、気づくべき人間が気づくこと、それができるかどうか

 永遠にも思える刹那、そこにずっといて、閉じ込められて、動けない。言葉のひとつも外には伝えられずに普通の空気に溺れて苦しくて。

 そんな里予の心が叫んで必死に助けを呼ぶ。救いを求めた先、彼女にとっての光はあの少年に他ならなかった。



  ☆



 どうして素直になれないのだろう、どうして純粋な想いが伝えられないのだろう。強気の裏に隠された本音は里予とは相容れないもののように思えていた。明るくて無邪気、光と影の差はどれだけ追いかけたところで埋まらない。

 里予のことを考えることなどやめて、思考を万年筆に移す。祖母からもらったもの、亡くなってしまった今となっては大切な形見だった。茶色の体をしたその筆は今ではあまり見かけない物らしい。積み重なった年数の有難みなど理解しがたいものではあったがそれでもこの筆は好きでたまらなかった。

 素直になれない少年の頭を撫でて慰めてくれるような温かみ、それを感じていた。



  ☆



 朝から歩き始めて、違和感ともうひとつの感情を抱いていた。


 ひとり、むなしいひとり


 隣にいつもいるはずの里予の姿も声も何もかもがなくて、和春は思わず独り言をこぼしていた。

「あいつ、寝坊でもしたのか?」

 違う、そんなこと分かり切っていた。いつもの明るい声が耳に入って来ない、一緒にいる少女がどこにもいない。

 愛想を尽かしたのだろうか、別にいい、構わない。そう言い聞かせるものの、どこかにそれらの言葉を否定する自分がいた。弱さを叫ぶ強い自分、現れるにはあまりにも遅すぎた。


 本音に気が付いてしまった。


 学校まで全力で駆け始める。息を切らしても苦しくてもかまわずに。肺が痛みを叫び散らしても無理やり息を深く吸い込んで、駆け抜けて。


 先に学校に着いているはず。


 そう言い聞かせてアスファルトで塗り固められた黒い道を力強く踏んで前へ。風を切って、信号機の示す色すらも残像の残光となり果てても前へ前へ前へ。

 学校へとたどり着いたその時、見渡して見回して探して。

 瞳に移る人々は他人、探し人はその部屋にいる誰でもなく。

「里予? 和春お前がちゃんと見とけよ」

 訊ねてはみたもののそのような回答をいただいてしまっては何も分からない。もう他人には頼ることもない、そう思いつつ駆け出した。そのスピードについてくる者はなく、ついて行こうと思う者もない。

 走って進んで探して、前へ前へ前へ。

 風を切って地を揺らして進み続けるもどこにいるのか一切手がかりがなくて無力を思い知って歯を食いしばる。


 弱音はいけない


 弱音を吐いてしまわないように歯を食いしばる


 言葉にしたら負けそのもの


 何と戦っているのだろう、それは分からなくてもただひとつ分かること、誰も助けになど来てくれない。孤独を愛するような気取りと強がり、その行為による過ちは既に見えていた。

 孤独の中、ただひとりこの男を見捨てなかった少女の名を呼んだ。

「さとよ! どこにいるんだ、さとよ!」

 寂しがりの彼女のことを見捨ててしまえば望まぬ孤独の闇の中でひとりもがき苦しむかもしれない。


 失って初めて気が付いた、遅すぎたのかも知れない。


 それでも探す。手遅れでないことを祈って走り、名前を呼んで探し続ける。

 見かけない見つからない見当たらない、いないいないいない現れない。

「どこにいるんだよ」

 探していても見つけてもらおうにもどこにいるのかも分からなくて。和春は己の無力を実感していた。

 見つかることもなく、時間ばかりが過去に流れて行って良き成果は流れてこない。


 もう、なにも出来ることなど残されてはいなかった。



  ☆



 夕日は見えず、気が付けば夜が来る。絵画や映画のような美しいだいだい色などそう簡単に拝むことのできるものでもなかった。

 薄暗い空を背景にして走るふたりの女。普段は和服を着ている茶髪の女はジャージを着ていた。隣りにいる少女はジャージを着て走る女を見つめる。和服を着ている時には目立たない身体に着いただらしない肉の存在を知った。

「天音もまだまだ痩せられないね」

 天音、27歳になったこの女は息を深く吸って晴香に目を向け言った。

「アンタは少しずつ痩せてきたみたいで羨ましい限りだね」

 夕方のランニングという習慣は天音の口から始められたものだった。恐らくは受験勉強に追い回される晴香への息抜きと何より天音が晴香に会いたいという最大の本音からの提案なのだろう。

 晴香はお腹に手を当てて表情に陰を纏わせる。

「もともと太りすぎだから」

「そうかねえ、アタシみたいなだらしない肉の着き方じゃあるまいし、あんまし気にしなくてもいいと思うのだけど」

 天音はひとり言で言葉を繋ぐ。

「少ないくせにだらしなくたるんで……どうにかなりゃしないものかな」

 晴香の前では出来る限り美人でいたい、ランニング四日目に天音はそう言った。お化けネコの依頼の時の行動や日中寝転がっている態度を見ている限りは本気というものを感じ取ることが出来ないでいたが、確実に酒瓶の入れ替わりの頻度が落ちているということを知ってようやく本気なのだと悟っていた。

 宇歌は元気だとか世話してみれば案外かわいいものだとか、妖の類いを祓うはずの天音の口から出てくる言葉に対して大した違和感を抱きつつも微笑ましく思えていた。

 息を吸って吐いて、走って進んで景色は流れて。空を吸い込む勢いで息を肺へと流し込んだ。運動というものは勉強に追われる晴香の心に新鮮な嬉しさを、活きのいい安らぎを与えてくれた。いつも決まった時間にいつもふたりで走る習慣、ふたりでならばどこまでも走って行けそうな、どこまで大きな夢でも追いかけられそうな気がしていた。

「なんだいそんなにニヤついて。アタシの走る姿にでも惚れてしまったかい?」

 天音の声は心地よく響いてきた。薄暗い空によく似合う昏めの声は一日の時間が過ぎ去るほどに愛おしい彩りとなって晴香の身体を震わせるのだ。

「何でもない。天音は今日も元気だねって思っただけだよ」

 弱々しい鈴のような声で答える晴香の貌を窺って大きなため息をついた。

「アンタの言葉じゃあ世の中の歩き方の若葉マークは外せないようだね、まだまだ未来のお話かねえ」

 そうした言葉のやり取りの中にも愛おしさや優しさが隠されていて、それが晴香にとって美味な気持ちをもたらす。

 天音の表情はどこか懐かしいものを見つめるようなもので包み込むような大きな感情を持っていた。

 走って走って、向こうからも少年が走ってきていた。まだまだ新しさを隠しきれていない長袖のカッターシャツ、学校指定の制服の胸ポケットには若々しい雰囲気には見合わぬ高そうな古びた万年筆が差さっていた。

 晴香は確かに目にした。万年筆から漂うこの世の物ならざる靄のようななにかを、晴香の髪を纏めて留まる蝶のように結んでいる紫のリボンがかつて発揮していた効力に似たなにかを。

「制服は真新しくあれども、晴香よりも年上に見えてしまうね」

 高校の制服、しかし顔は晴香よりも大人びていた、というよりは晴香の顔が少しばかり幼く見える。それだけのことだった。

「男の子はいいよね、ちょっと暗い顔するだけですぐ成長したように見えて」

 言葉は隣りの女までしっかりと伝わったのだろうか、伝わった上で今の表情なのだろうか。天音は笑っていた。

「そう見えるかい? ありゃあ子供だましってやつさ」

 男のことなど嫌いなのだろうか。そう疑いたくなるような口調で続けられた。

「成長したつもりになんかなられてねえ。浮かれて酔って、知らず知らずのうちに騙されていらっしゃるものさ。自分自身にね」

 棘のある言葉は初めから見下したようでもあり、晴香の中に陰りと不安を与えていた。

「昔なにかあったの?」

 晴香の問いはどこまでも真っ直ぐで眩しい光のよう。直に浴びるにはあまりにも影に飲まれ過ぎていた。

「アンタは知らなくていい世界のことさ。目を逸らして後ろさ向いてなかったと言っておきゃいいってだけのこと」

 天音の声は強張っていて硬さを感じさせる。その手は震えて正気か狂気か判断も付かせない。瞳は空を向いていて空を見ていない。何を見ているのか、予想は既に付いていた。

 晴香はそんな天音を置いて後ろへと駆け出した。

 その様子を振り返って目に捉えながら大きなため息をついた。

「全く、アタシは関わりたくないってのに……『遺サレシ者』だなんて厄介にも程があるっていうのに」

 語られる言葉に偽りは見受けられず、天音の姿は闇に溶けて行くように見えた。



  ☆



 走る少女は軽い走りでは少年に追いつけず、普段からのランニングで培ってきた走りでも追いつける自信はなく、身体も心も乱した動きで全力で脚を動かす。重い身体で息を切らしてどうにか走ってなんとか追いついて。

「あの」

 ひねり出した声は濁っていて、普段のかわいらしさの欠片も残っていなかった。

 振り返った少年は肩で息をする晴香に対して見下した目を向けた。

「なんだ、里予じゃねえなら用ねえよ」

「さと……よ?」

 訊ねる晴香に言ってのける。

「そうだ俺の大事な人だ」

 この少年にとっては里予が全てなのだろうか。気が付けば晴香はそのことについて言及していた。

 少年から返ってきた声が示したもの、それは後悔だった。

「里予はずっと俺のことを想って声をかけてくれた。でも俺はそれをずっと撥ね退けて、気が付いたら里予がいなくなって、ようやく大事なものを知ったんだ」

 続けて紡ぎ出された言葉には闇が宿っていた。

「でももう手遅れかも知れない」

 そう語る男の姿の情けなさはいかに大きなものか、普段の態度など最早飾りでしかないこと。それを自ら証明してしまったものだった。

 そんな少年をこの世の物とは思えないほどに鋭い視線で睨みつける晴香がそこにいた。滾る怒りは心配をも塗りつぶして、棘のある声は感情そのもの、全てがむき出しだった。

「手遅れ? ちゃんと見てあげないからそうなったんでしょ! 話しかけて後悔した」

 そう言いつつ少年の手を取る。

「あなたの名前は?」

 先ほどより柔らかに思えたがそれでもまだ投げやりにも思える声に手を引きつつもそっぽを向いた態度、少年には何がしたいのか全くもって理解できないでいた。

「浜ヶ谷 和春」

「はいはい和春くんね、里予ちゃん探すよ。見つかったら絶対謝ってね」

 晴香は途中で崩された日課のランニングを共にこなすパートナーである天音の元へと向かっていった。



  ☆



 引かれた手は未知の道へと導かれるようで、目の先に映る眩しさの先に見えるジャージ姿の女、完全に頼りにしようとしていた。ジャージを着た女の元にたどり着くとともに事情を身振り手振りを交えて伝え始めるその姿についつい吹き出してしまう。

「はぁ、アンタ分かってんのかい? ソイツを救おうだなんておめでたい頭でいらっしゃる? あれを助けたとこでねえ」

 そこまで発したところで次の言葉が流れる前に口は塞がった。晴香の悲しげな表情に口止めせざるを得なかった。代わりに発した言葉が意味することは正反対の意見だった。

「分かった、助太刀と行こうか。アタシに言わせれば晴香の心が一番正しいものなワケさ」

 そう、女は晴香に弱かった。捻じ曲げた意見と意思、それに伴い引っ張られる行動。何はどうあれ和春の思うままに行ったために和春本人は朝の空を思わせる爽快な笑顔を滲ませていた。

 天音の話によれば少なくともここまでの道のりの中では見かけなかったとのこと。晴香が曇った表情で疑いの眼差しを向けていたのを見るや否や天音は慌てて弁解していた。

「なんだい、そこまで疑わなくていいじゃあないかい。アンタも見えるだろう? 分かるだろう?」

 そう言って次に出した言葉によって晴香の表情もまた、晴れ空に変わって行く。

「ランニング中に人ならざる気配混じりて漂う少女などいやしなかった、そうだろう?」

 否定のしようのない意見、故に疑いの心のひとつもなしに歩みは進み続けた。ここから先へ、少年が直進し始めた、この道のスタートラインを通り越して、進み進み。

「あてはあるのか?」

 少年の疑問。

「アンタのそれ、愚問でしかありやしないよ」

 天音の回答。

「天音、もうちょっと優しくしてあげて」

 晴香の要望。

「無茶を言わない、コイツの持ってるモノさ知ればイヤになるってものさ」

 辺りは暗闇、目で見ようにも昼間のように明瞭に見通すことなど不可能の領域。闇という目くらまし、太陽の示しのないこの場所で、それでも迷いなく歩み続ける天音に疑惑の目を向けていた。黙って睨む和春だったが、その視線は闇に潜り込んで尻尾すら出さない。出していないと思っていた。

「安心しな、毎日ランニングしてりゃあ退魔師のアタシにはなんとなくわかるものさ」

 果たしてなにを導に気が付いたのだろう。和春は天音の気配探りの鋭さに寒気を感じていた。

 やがて進んで見えてきたそれに目を見開く。何の変哲もないたぬき地蔵、それに用があるのだろうか。

「暗闇のせいかアタシには見えやしないね、里予ちゃん」

 天音の言葉が本音なのか否か、疑いを向けつつも和春はその眼でたぬき地蔵を捉えた。なにもない、だれもいないはずのそこに誰か、どこか懐かしい気配を漂わせた者がいた。たった一日会わなかっただけで懐かしく思える人物、大切な人の名を気が付けば力いっぱい精一杯呼んでいた。

「さとよ! そこにいるんだろ、さとよ!」

 不確かな気配を思い切り抱きしめてそこに確かな君を確かめる。そんな行いの後にその眼に映った姿は見間違えようもない、大好きな里予だった。

「和春くん、来てくれたんだね、うれし」

 その言葉を残して、里予の意識は闇と一体となった。

「寝てる……だけか」

 示された言葉と行動を目にして数秒間、流れた沈黙の果てで天音は声をかけた。

「そこにいらっしゃるはアンタの妄想の世界の彼女かい?」

――気配で分かってるくせに

 晴香は言葉を抱いて口を噤む。無神経な言葉に言葉を重ねて澄んだ闇の空気を濁らせることなどしたくはなかった。

「妄想ってなんだよ」

 晴香の想いとは裏腹に和春は天音の楽しみのために撒いたエサに食いついてしまった。

「辞書で引いてみな、おつむが残念な人にも分かるように書いてあるから」

「そういうことじゃねえよ!」

 じゃあどういうことか、ジェネレーションギャップに惑うこのアタシに言ってみな、ご口授願おうか。などと口走って青い人物をからかい楽しむその姿は、この上なく大人げなかった。



  ☆



 たぬき地蔵の傍を離れてそれぞれの住まいへと帰りゆく。夜闇に隠されたわけでなければ明かりに融けたわけでもない。たぬき地蔵の中に渦巻く数多の想いの中からひとつのものを見いだして共鳴した、それだけのことだろう。里予の姿は何故だか和春以外の何者にも見通すことはできなかった。

 里予の小さな身体をしっかりと抱き締めて、見失ってしまわないようにただ傍に。

 やがて目を見開いた里予は顔を赤くしていつもより甲高い声を上げていた。

「えっ? えぇっ!? かずはる君」

「今までごめんな」

 謝った、その事実だけで全てが許されるのだろうか。里予の頬の赤は先ほどとは異なる色をしていた。

「ダメ、一回謝っただけじゃ許さないよ」

 曰く、昔のように仲良く接してほしい。ただそれだけのこと。あまりにも純粋で難しい話だった。

「昔みたいに……かあ」

 変わってしまった心、和春のこれまでの言葉の裏側に隠れ潜んでいた想いは表に現れて、正気を奪ってしまうのだった。

――無理だろ、なんてったって

「だったら顔どうにかしろよ」

 眩しすぎる笑顔。直に眺めることなど出来そうにもなかった。

「失礼だよね、こんな顔してたらだめなの? もっと可愛くなきゃダメ?」

 もっと可愛く。



 なってしまえ、いっそのこと


 その顔じゃなきゃ……それでも



 どう足掻いても里予は里予で、顔が変わろうと声が変わろうと、結局はそれが里予になってしまう、そう気が付いた。

「いや、どこが変わっても里予は里予だな」

「どういう意味?」

「これ以上言わせるな」

 抱き締めている。それを今更強く実感して内から滲んできた熱にあてられて、思わず手を離していた。

「分かってるよ、かずはる君は優しいからまた昔みたいに」

「いやだから無理だって」

 思わず顔を逸らして叫んでいた。おかしな気持ち。高鳴る想いに湧き出る気持ち悪さを感じつつもどこか心地良いものを見ていた。里予の笑顔を見ているだけで、落ち着きから最も遠い所へと心が持って行かれてしまうのだった。

「好きだよ」

――こっ告白された!?

 突然送られてきた言葉、和春は初めて見つめた想いに振り回され続けて朝を待っていた。



  ☆



 朝は人の想いや意志になど目もくれずに訪れる。本来であれば今頃席に着いて楽しくもない勉強の話を会いたくもない大人から聞かされ続けているところであろう。

 今ふたりは和服の女の元にいた。紫色のリボンを後ろに結んで蝶のように留めた少女は今いず処へ。きっと例外ではなく学校だろう。目の前の白くて安っぽい着物を女は大きなため息をついて話を進める。

「で、アンタらふたりして遺サレシ者と共鳴してしまったってワケかい」

 ふたりして、まさにその通り。

「遺サレシ……者」

「そう、死してでも生霊でも、この世界の過去に置いて行かれながら生きる、怨霊のようなものさ」

 天音の丁寧な説明によって完全に理解はできた。誰もが思い浮かべる霊のような思念と言ったところであろう。

「ただあんたには見えてないんだろ?」

 和春の手は空虚に向けられているようにも思えたが、天音は気配で見て取っていた。

「ご名答! アタシには見えていやしない」

 そう、天音は目で見ているわけではなく、不可視をナニカで視ているのだった。

「ただアンタらと違って見る必要もありやしないからねえ」

 そこから続けられた言葉で意志をようやく感じ取ることが出来た。

「そこにいらっしゃる人とアンタ、ふたり一緒に助けたい」

 更に紡がれる言葉はしばしの沈黙をあけて訪れた。眉間にしわを寄せる様子は不本意の証だろうか。

「だからさ、アタシは『かえるのて』を借りることにしたのさ」

 それだけを伝えられてふたりは歩き進められ、ある場所への案内を受けた。

 案内する和服の女、この時点で怪しさ満点であるにもかかわらずたどり着いた場所、目の前の日本家屋を目にして和春の頭の中に更なる怪しさ、不信の想いが流れ込み、混沌の乱れは容赦無く支配しようと覆いかぶさった。

「待ってくれ、ここ、和菓子カフェやってる和菓子屋じゃねえか」

 家屋の引き戸の上に打ち付けられた木の看板、そこには『てのるえか』と書かれていた。

「しかも名前わけわかんねえ」

 そんな少年の様子、理解しがたい文字列に頭を抱えるその姿を目にして天音は声を上げて笑い始めた。

「なっ、なにがおかしいんだ」

 顔を赤くして叫ぶ少年の顔を嘲笑い、言葉を返した。

「アンタくらいの年端もいかぬ男の子の好きそうな文字っていうのに存じないかい?」

 そこから更なる嘲りが重ねられる。

「そうかい、悪かったねえ、心は若々しかったみたいで、アタシも配慮ってのが足りなかったよ」

「その反応が一番配慮足りねえよ」

 目を閉じ腕を組み、頷いて聞き流していた。

「何か言えよ」

「配慮よりも舌が足りない方が分かりやすかったかねえ」

 コイツ、思えども塞ぐ。ただただ揶揄われているだけのこと。きっとこの怪しい宗教の信者が神の教えなどには目もくれず、人の心を弄んでいるだけのお話。分からないことは分からない、素直に認めて看板の事実を訊ねることにした。

 曰く、反対から読んで『かえるのて』なのだとか。

 正しい読み方を教わって、すっきりした気持ちを胸に引き戸に手を伸ばした。



  ☆



 入った先、店の中、並ぶ和菓子は果物の入った色とりどりの水のようなゼリーやかわいらしい大福、ごくごくありきたりな羊羹や柏の葉に巻かれたよもぎ餅にせんべい饅頭。満点のバリエーションと温故知新という言葉が似合う配置。古来より残りし落ち着いた想像通りの和菓子と色彩豊かなイマドキの物が混ぜて並べられて織りなされるそれは商品を並べるというよりは飾っていると呼びたくなるようなものだった。

 天音が店員と何やら言葉を交わしてからの流れ、店員からの案内でカフェの方、黒い椅子に座る。光沢のある木の椅子とテーブルはそれだけでなかなかの値段を想像させた。

 橙色の着物と深紅の帯を身に纏った女が和紙で飾られたお品書きを差し出す。お辞儀をする若い女の顔を見つめながら手を振る里予だったが、その姿はきっと覆い隠されているのだろう。

「多分見えてないから注文は俺がする」

 妙な優しさと視線のズレを感じて、里予の笑顔は一瞬曇りつつも優しくてぬるい微笑みを浮かべた。

「ありがとう、甘えるね、かずはる君」

 そうして再び現れた女へと注文を言い渡して待つこと7分、女が持ってきた物をテーブルに一度置いて、ぜんざいと深蒸し茶を和春の元に寄せて、あんみつと抹茶を里予の元へと運んでみせた。

「ありがと、大好き」

 笑顔で礼をふわりと投げる里予に対して揺れ震える想いがあった。

――さとよを絶対に助けるぞ

 里予さえ笑って過ごすことが出来れば。想いは強くて暖かで、里予にしっかりと向けられていた。

 そうしてふたり、食べたものの感想を分かち合って、穏やかに笑いながら緩やかな空気と和菓子やお茶の美しさや香りに触れて、心を柔らかな感情で充たし合っていた。

 この景色を拝み、薄っぺらな感心を顔に張り付けて天音が歩み寄る。

「いやあ、感心だねえ。命を張ってまでお姫様を救おうだなんて考える主人公のようでよろしゅうございまして」

 言葉からはあからさまな嘲笑が見て取れたものの、それについては、その感情だけをきれいに腫れ物として扱い和春は話を進めにかかった。

「里予を救ってくれるんだろ」

「おやおや、アタシは救わないよ、アンタらが救われるのを手伝うだけのことでしかありゃしない……『遺サレシ者』と来ていただいてはねえ」

 つまり、憑き物を振り払うことができる状態にするまで。そこからは本人の意志で消し去るしかないのだという。天音は白くて安っぽい和服の袖を揺らしながら続けた。

「霊祓うから金払えってワケでさ、アンタらから各一万五千円、お札会の大物とヒロイン一人ずつ分いただくよ」

 高校生としては出そうに出せない可能性を秘めた金額。ふたりともアルバイトの経験もないがために、見え透いた結果が待ち受けていた。

「仮に失敗したなら金は取らない、死に目をつけられた手から渡された金なんかすぐ地獄に流れるかも分からないからね」

 明らかに言葉は真剣ではないが前半の言葉の意味までふざけているわけでもないそうだ。

 説明を続ける天音の隣に、細身で胸だけが豊満な堂々とした佇まいの女が現れた。

「で、天音が連れ込んだ客とやらは」

「そこさそこ」

 ふたりの顔を、気の抜けた顔で見つめ、重々しい声で奏でる言葉を落ち着いた空気に乗せて綴る。

「ふうん、私は女の子の方を担当するからあなたが男の子の世話をお願いね」

「ちっ、世話の焼ける……」

 毒づく様子を妙な空気に纏わりつかれながら見ていた。

 みんなの心情などお構いなしなのだといった様子で和春の手を掴む和服の女。天音に引っ張られ、導かれるままに移動を始めた。

「今日のお祓い、晴香には見せられないかも分からないね」

 そう語る天音の貌には仄かに冷たい陰が覆いかぶさっていた。



  ☆



 少女は説明も理解の贈りも知識の貸し与えも無しに薄くて白い一枚の布を、里予をこの場にまで連れ込んだ女が半襦袢と呼んだだろうか、そう言った物を着せられて、燭台に囲まれた暗い部屋の真ん中で座らされていた。肌襦袢に衿がとりつけられただけの粗末なそれは、里予が一度は着てみたいのだと憧れ目を輝かせていた着物の高貴さからはあまりにもかけ離れていた。

「文句あるなら天音とか言うオンナに言いなさい。アイツ、私の希望をねじ伏せなさったんでね。振袖を着せようと思ったのに」

 天音の言葉によれば死者の命と向き合う儀式におめでたい礼装など死へと向かうことを祝ったり冥婚を思わせるとのこと。目の前の女の意見では人の悩みに入り込む者からの脱出、悩みから進み大人へと成って進むための儀式。


 同じ業種に、人の想いと向き合う姿勢に、正解などないものの考え方の違いはあまりにも大きすぎた。


 もう何も見ずに消え去って、やり切れない想いに朽ち果てて、いなくなってしまいたい。そんな想いに憑りつかれていた里予だったものの、想いを振り返ればそこに偽りなどという文字は入って来るだけの余白も隙間もありはしないものの、今となっては生きていたい、和春と共に人生を歩み進めたい、そんな想いが強くて存在の願望が既に打ち勝っていた。

「うん、既に想いの準備は出来てるようだわね。強い子いい子ステキな子」

 たぬき地蔵、道脇に建てられたあの道の添え物に一体どれだけの想いが亡霊となって募っていることだろう。

 今でも生きている人物がかつて置いて行った想いやこの地に思い入れを持ったまま世界を去ってしまった人物、恨みを遺した者、そしてきっと里予と共鳴してしまったであろうツラいことから逃れてその場に足を運んでいた人物。

 女の眼には視えていた。里予と繋がっている者の姿が。

 それはたったひとりの無力な幼子。声を上げることも叶わずに親や教師の前では笑顔を見せて嘘を塗り付け上塗りして更に更にサラサラに想いの質を色を誤魔化して、果てにたぬき像が祀られた小さな祠の前で、泣きはらし続けた日々のこと。

 誰にでも抱えることのありうるもの、その内のひとつ、それは彼にしかない想い、近くても違う想い。

 重なった似通った二色の想いを女は先を削って持ち手を作った卒塔婆を手にして掲げる。持ち手に書かれた文字たちは明らかに年季を感じさせなくて、きっとこの女が書き加えたものなのだろう。

 掲げた卒塔婆を持つ手に加えられた力は心の強さを思わせて、里予の目に映すだけでその想いをしっかりとつかんで離さない。

「さあて、念仏は唱えずに頭に叩き込む、衝撃と共にね」

 勢いよく振り下ろして、里予の隣に立ち、空気に張り浮く薄っすらとした存在を捉えて張り裂いて。そこから溢れ出るものなど何もなくて、里予の中に溢れ出るもの、生まれた想いは安心の二文字そのものだった。

「はいおしまい」

 里予の安心感はあまりにも大きくて、生まれて初めての安らかな感情の極地を噛み締めながら着替えて喫茶店の席に戻された。里予に出来ることなど残された役目などただひとつ。和春の儀式の終わりを待つのみだった。



  ☆



 爽やかな秋空の下で穏やかな春空を塗り浮かべていたのは、すっきりとした葉や花が舞う現実の中で柔らかな花が咲き誇りのんびりと花びらのように蝶が舞う姿を想っていたのは、紛れもない里予だった。

 心の中は春の空、なかなか過ぎ去ることの無い、いつまでも味わっていたいその季節の穏やかさを運び込んでくれるキミのことをずっと待ち続けていた。

 そうして日常を再び紡ぎ始めた彼女の気など知らずに時間は平等に流れて心の移り変わりや出来事の変化の運び屋となっていた。


 薄暗い部屋で和春は天音の指示に従って服を脱ぎ、ボロ切れを思わせる小汚い布を身に纏わされていた。ロウソクの火によって薄っすらと染められた景色、その中に自分自身もまた含まれていて、今身に着けている布の正体がその目を通して知らされて行く。

「これは……着物か」

 あまりにも薄っぺらで粗末な布は儀礼用の衣なのだという。

「アンタが今何考えてんのか分かりやしないし世間も知らずに全てを知った気になる全能者の考えなんか知りたくもありゃしないけど」

 いきなり見下されているのが見受けられて、和春の顔には自然とほめることの出来ない色をした貌が張りつけられて行く。

 この少年の表情の変化を見届けて、天音は瞳に宿る光を強めて言葉を紡ぎ続ける。

「ここでちゃんと表情が変わる人物だったことは救いかねえ。それだけでいいか」

 それから更なる説明が続けられる。どうやら敢えてボロ切れのような衣を着せてそれが今の和春の姿なのだと口によって理解を強要されていた。

 和春の眼は小汚い着物に向けられ、自分自身と重ねて天音を睨みつけた。

「おやおやお気づきでない? アンタは無様だってこと、人間なんてどう足掻いても無様で惨めから抜け出せやしないものさ」

 つまるところ、誰が相手でもこのような衣装を用意するつもりだったのだろう。そう、全てを軽蔑しているようにしか見えない発言。しかし、その目に映るものは醜さへの尊敬の火でもあった。ロウソクに灯る小さくて美しい火、綺麗なカタチの火に重ねられた感情の色は分かりやすい程に見え切っていた。

「アタシは人間の汚さは大好きなのさ、アタシもおんなじだし人のこと言えやしないけど、ここまで汚れが過ぎると却って綺麗に見えて来るものさ」

 言葉は静かな壁に当たって跳ね返り、独特な反響の調べを奏でていた。音の波はロウソクに灯る火をもゆらゆらと揺らめかせるか。静かに揺れては芯にしがみついて辺りを照らし続けて綺麗な魂の姿を取り続ける。

 暗闇の中で薄っすらと輪郭を映す女は白い着物の袖を舞わせて一度大きく手を振った。そうした行動の流れに沿って袖は揺れながら宙を形で彩る。動きに自然と目は動いて気が付けば天音の動きに視線を心を誘導されていた。

 そうした視線は和春の目の中で動き回る輝きの姿で辛うじて見届けられてつかみ取られる。天音は不敵な笑み全開で、声を張り上げて訊ねた。

「アンタはあの女の子を助けたいのだろう」

「当然だろ、それすら出来ねえやつに男名乗る資格なんかねえよ」

 考えるよりも先に飛び出てきた言葉、限られた視界の中で天音の動きに、動きの主の言葉に、言動の主体を奪われていた。

「だったらアンタ自身も救われねばどうにもならないねえ」

 金のことなど気にするな、その程度のことなら後ででもどうにでもなる。天音の表情は口にもしていない言葉を語っていた。

「安心しな、金よりも大事なことはちゃんと取りこぼさずに拾い上げるから」

 それが金を拾い上げるのだと、天音の存在そのものが圧で語っていた。

 和春はふと思う。里予が実際にどのように考えているのか分からないものの、この非現実の内の何処までが現実なのかも見通すことが出来ないものの、全てが終わった後の現実だけは目に見えていた。いつもの飾り付けたようなカッコよさと思っているあのダサいことこの上ない心の衣は剥がされ捨てられていた。

 母にはきっと宗教のことで騙されたのだと言われて警察署に連絡が入ってしまうだろう。更に面倒なことが襲いかかって来ることは間違いない。

 里予と和春の財布の中身を確かめたくて仕方がなかった。和春の所持金額はどうにかひねり出して一万円と少し。里予がどれだけ持っているのか分からなかったものの、足りなくとも里予が親に頼み込んで少し足せば行ける程度の無理のない金額だろうと頭の中に思考を刻む。

 その時、和春の脳裏にある考えが浮かび上がってきた。思考の水面を突き破る勢いで、一気に上がってクリアな水柱を立てる。和春というひとりの、それも世の中のことも大して知らない年端も行かない少年の思い付きなどたかが知れていたものの、本人にはいい考えのように思えて仕方がなかった。



 そうだよな、俺がこのままいなくなれば報酬はひとり分、それだけのことだ


 じゃあな、世界……里予だけでも幸せになってくれ



 愚かなる意見は瞳の色に表れて、阿呆は顔に滲み出ていて、その全てが天音という大人の目によって見透かされてしまっていた。

 天音は一歩近寄り、更に一歩踏み出し、もう一歩足を進め、やがては目と鼻の先にまで迫った。

 しゃがみ込み浅い考えを続けて自らの命を投げ捨てようと、それで何もかもが丸く収まるものだと、そう思い込んでいる知性の欠片すら感じさせない少年の顔を見つめること三秒間、ロウソクだけが揺れて静寂に包まれた時間を経て天音は腕を伸ばした。和春の胸倉をつかみ、顔を歪めて眼には冷たい刃のような氷を滾らせ、和春を遂げだらけの心でつかみ上げた。

 衣装がはだけてしまおうとも和春の表情に臆病な本心が現れようともお構いなしに、思い切り引き寄せて、容赦を捨てて怒鳴りつけて。

「アンタ、死のうとか思ってんじゃないよね。見えてんだよアンタみたいな浅はかな男の考えることなんか」

 天音の瞳は揺らぐ。その目に映る過去の像、追憶のレコードは心を激しく叩いて殴りつける衝動を運んできては天音の髄まで沸かす黒々とした蒸気となって己を責め立て続けていた。

 天音の失敗、弟が桑色の半纏を身に着けて死へと向かって行く道筋を断つことが出来ないでいる自分、救えなかった弟の最期の顔がずっと目に焼き付いて離れてはくれない。

 あの男も確か、好きな人のために命を捨てた。好きな人を生き返らせるために死して魂のみを世界に置いて瞳のセカイのピントを遺サレシ者に合わせて。やがてひとつ見つけては関係のない人物に憑りつかせてはその効果を確かめて放置する怨霊と成り果てていた。

 きっと愛する人を生き返らせるために作用するモノを探し続けているのだろう、今もきっと誰の迷惑になってもお構いなしに自らの願いの為だけに動き続けているのだろう。


 目の前の男もまた同じだった。好きな人のためならと命を捨て去ってしまおうとする姿勢が重なって、この上ない怒りを呼び起こしてしまう存在。

 天音は人の気持ちも考えずに命だけ払えばいいなどと考える軽々しい男がこの世で最も嫌いな種族になっていた。

「分かってんのかい、アンタの浅はかさアンタが一生不幸で生きてこうとかどうとか知ったことかって話でしかないのだけどさ」

 完全に見放すような発言だったものの、そこに刺々しい気持ちは込められていたものの、何故だろう、何処か力が込められていなかった。

「アンタが死んだらどれだけの人が悲しむと思ってんのさ、家族はどう思うか考えた事ありゃしないようだね、それになにより」

 一旦口を閉じ、和春を掴んでいた手を放す。叩き落すような投げつけるような乱暴で荒々しい仕草で和春の身体を落としていた。

「アンタの好きな里予ちゃんのこと悲しませるんじゃないよ。あの子はアンタを、たったひとり構ってくれる男の子を犠牲にして得る自由なんて欲しくもなんともありゃしないのさ」

 純粋な男の目はしっかりと見開かれた。その目が見つめているものは暗闇なのだろうか、映されているものは未だ抜け出すことの出来ない暗い場所なのだろうか。

「いいかい、アンタがいなけりゃアンタが幸せにしたい彼女さんも幸せになれないわけ。その命はもう……アンタひとりのものじゃあないのさ」

「さと……そんな」

 浮かび上がる笑顔、映し出された明るい表情は一体いつ頃から見かけるようになったものなのだろう。想いを巡らせて、記憶をたどる。あの日見た景色の香り、あの日聞いた笑顔の味、声が肌に染み入る感触、彼女と過ごした何もかも。

 いつからだったのか、和春の態度の変化は。中学生の頃からだろうか、三年生に上がりたての頃、そこが始まりだった。名と比べて少しばかり遅れてやってきた中学二年生の病。思春期の風が運び込むデタラメな心情。何をしても滑って格好つけた鎧を着込み心構えだけは万全な子ども、というよりは「ガキ」という言葉を当てはめるに相応しい存在でしかなった。

「分かったなら、助けて、里予ちゃんの幸せのために自分も幸せになるから、そう言ってお仕舞いな」

 眼を見開き、上を向いた。暗闇の中に沈み込んだ和春の目には暗黒に包まれ飲み込まれている天音の姿がロウソクの光と共に輝いているように見えた。天音は目に見えないであろう表情を視えるようにと意識を込めつつ、卑下な笑みを見せつけ語って見せた。

「全部求めて抱えてみせな。欲張りや意地汚さこそが美しい、そんな世の中なのだからさ」

 語られた言葉の意味は何処まで和春の心に入り込んだだろうか、どれだけ和春の想いを変えることが出来ただろうか、天音には分からなかった。和春は顔を上げる。

 里予がどのような事を想っているだろう、和春がいなくなってしまったのならばどのような顔をしてどれほど泣きながらどのような言葉をどのような声で発しているのだろう。

 考えれば考える程に和春の中で自身という存在が大きなものへと育って行く。

 責任という言葉の重さ、その始まりの一角を和春はその目で触れて身を震わせていた。

「恐ろしいかね、アンタの気持ちなんか分かりやしないけど」

「全然だな、俺があの子の中でどれだけ大きいのか、やっと分かって嬉しいだけ」

 嘘。中身のない強さ、重さに対する強がりで和春なりの気持ちとの向き合い方だった。

 天音は額を押さえ、溢れこぼれそうになる想いを言葉を無理やり脳裏で留めては言葉を紡ぎあげる。

「そうかいそうかい」

 若々しさ、悪い意味での勇気という想いに触れながら天音は和春の肩に手を置いてみせた。それなりだろうか、それ以上だろうか、肩を掴む手からは温もりを、心の色を薄っすらと映しているようだった。

 それから始まった舞い、やがて引きはがされて行く遺サレシ者、その姿に和春はようやく触れることとなった。



 それはある日のこと。男は紙を用意して、万年筆を握りしめて思考の光を巡らせていた。

 書き綴るべき想いは、手紙にして届けたい想いは幾つかあって、幾つもの気持ち、重複する想いから別々の存在まで、書き通し綴り伝えたいことは脳裏を泳ぎ回り続けるものの、どのような文字でどのような言葉でその紙に刻み込み、相手の心に刻み込めばいいのだろうか、男には全くもって分からなかった。

 何も書けなければそれはただ立派な飾り、ペンの値段の重さはその手では握ることさえ出来ないのだろうか。綴ろうとしている想いの重さには敵わないのだろうか。届けようとしている想いを紙に落とすことは叶わないのだろうか。

 結局何ひとつ書くことも出来ずにただただ青くて白い綿を泳がせている広い空の海に想いを飛ばす。風船のように飛ばして、何も書いて見せることが出来なかった。

 想いを寄せる少女、陰ながらに頑張るあの子、目立たないまましっかりと真面目に過ごす同級生のことを思い出すと共に淡い色が広がって漂い続ける。その想いの色は淡いにもかかわらずしっかりと甘くていつまで噛み締めても味は薄まるどころか更なる甘みを持ってきていた。軽い挨拶のひとつだけでも、周りに見せる笑顔と自分に見せる笑顔、同じ物だったことは分かっていても男にとっては向けられた笑顔というものは特別に思えていた。

 そんな想いを伝えたくて筆を握り紙と目を合わせてにらめっこを続ける。どのようなことを書けばこの想いを伝えられるだろう。自身の想いはどのような文字でも言葉でも伝えられない唯一のもののように思えて仕方がなかった。

 結局のところ、彼は感情を選んで相手に分かるように伝えるという考えを知らなかった。素直という基本的で重要なことから目を背け続けていた。

 そうして時は流れて想いは亡霊と化して、それでも心の底のどこかで残り続けては時たまチラついて男を苦しめるのみ。

 素直になれなかったかつての己。心に残ってそのまま亡骸と成り果てて形だけ見せる想い。それを万年筆と共に机の中に閉じ込めて、青春にさよならを告げてそっと引き出しを閉じた。



 眼は暗闇を捉える。見えない景色というものが視界いっぱいに広がっていた。

「あれが俺の父さんの過去」

 和春がどこかおかしな皮を被って煮え切らない部分だけを見せてはどこかズレた人物を演じていたように素直になれない中で何かを必死に伝えようとして結局は筆を想いを伝えるための手を、闇の中に放り捨ててしまっていた。

 やっていることは違っても素直になれずに生きていることは同じ、根は何ひとつ変わりなくて、親子なのだということを実感させられていた。

「素直になれない、アンタとお父さんは結局のとこおんなじことで悩んだってわけさ」

 天音に告げられた言葉を噛み締めて、ただ立ち尽くす。何も見えない闇の中、想いも言葉も何もかもひそめてしまっては誰に気付かれることもなく永遠に埋もれて想いを身と共に墓場へと埋めるしかなくなることだろう。

「安心しな、アンタはお父さんは違う。アンタはまだ全然手遅れなんかじゃあないのさ、手を伸ばしたい相手は『今』にいるのだからさ」

 贈られた言葉は単純そのもの。気持ちをそのまま伝えるということ。乗り越えなければならない大きな試練は自分自身だった。自身の持つか弱い心だった。

 和春は天音に手を引かれて、元の喫茶店へと足を運ぶ。きっとそこにこの儀式最後の過程が待っているはずだった。

 自分勝手はいけない、相手のことも思ってこその好き、それでも、伝えることは自分のこと。

 店内で座って待っている少女は最中を頬張って抹茶を啜っていた。

――全く減ってないねえ、ありゃあ、あの子も素直じゃない

 しかし、時には素直にならないことも必要なのだということ。里予には既にそれが分かっているのだろう。

 里予と向かい合うように座って、目を見つめる。輝きは薄茶色の澄んだ色に透けてどこまでも美しい。

 息が詰まる、喉が締め付けられる。

――乗り越えろ、これが、俺に必要なこと

 心臓は、強い脈を打ち続け、和春に落ち着く間のひとつも与えてくれなかった。

――行こう、頼む、言葉出て

「さ、さとよ」

 里予は彼の声を聞き届けてゆっくりと微笑んで見せた。柔らかに緩く表情を変える姿はますます緊張を高めて行った。

――なに、ええ可愛すぎるだろ待ってえっ、ちょ

 息は吸っても吸いきれない。頭に熱が昇って来て、もういつも通りではいられなくて。

――だめだ、逃げるな、素直に、じゃないとここまで過ごした時間が全部

 時間の価値がゼロへと向かおうとしているそこで、和春は勇気を振り絞って想いを告げた。

「その、今まで、ごめん。ああ、素直になれなくて、さ」

「いいよ。あと……今の和春くんカワイイね」

――やめて、そんなこと

 和春の勇気は今にもはち切れてしまいそうで破裂してしまいそうで。その前に、勢いに任せて言葉を無理やりひねり出した。

「好きです、さとよのこと。だから、付き合って下さい」

 果たして答えはどのようなものが来るのだろうか。空白は一秒にも満たず、最も緊張していたその中で、里予の言葉が優しく突き刺さった。

「ありがとう、これでずっと一緒だね」

 その笑顔は世界の何よりも野に咲く花と呼ぶに相応しい穏やかで可憐な色をしていた。



  ☆



 お祓いは無事に終了して和春と里予がきっと仲良く接し合っているだろう。そんな光景を想いながら天音は清々しさ全開の空の下を歩く。雨空とは程遠い景色だったが、天音の心の中はアメソラでいっぱいだった。

 救うことの出来なかった弟のことを考えていた。きっと救いようがなければ救われようもなかった男。彼女が好きすぎて自らの身体すら捨て去ってしまったあの愚かなことこの上ない男。

「味雲、なに故にこうなったものか」

 分かりやしないね、ため息と共に力なく吐き出された続きは味雲への理解の足を踏み出せていないことを自白していた。

「アタシがアンタのこと助けてあげられたらもうちょい綺麗な未来でも辿れたものかねえ」

 語られるのは重苦しい失敗の話。きっとこれからも天音が抱えて行かなければならない、そんな過去のことを想いながら変えようのないことを今の瞳に映し歩いていた。

 それは逃避なのだろうか。苦しみの過去の奇襲なのだろうか。

 晴れた空、吸うだけでいかに過ごしやすいのか語って来る秋の空気。天音が肌で触れている心地よさは心に影響を持ち込むにはあまりにも主張が弱すぎた。周囲には楽しそうにふざけながら歩いている高校生やふたり並んでプラスチックの容器に入ったパフェのようなものを食べながら笑う若い女たちがいて、晴れた空を更に明るい色に染めて塗り付けて、陽気を彩っていた。

 そうした人々が流れて行くのを目にしながら天音は今の心に正直に向き合う。薄暗い影を思わせる色が射し込まれた瞳は本来の明るい茶に深みを与えていた。


 ここまで虚しいひとりきり、それは果たして何年越しに訪れたものだろうか。


 ゆるゆると歩き続けて気が付けばいつもはランニングをしているはずの場所にまでたどり着き、日頃から走る方向とは逆を向いて足を進め続けていた。

 永遠に付き纏う失敗の追憶。家族という関係は重りとなり、更に積まれて心にのしかかっていた。

 家にたどり着いたのは晴香との待ち合わせの時間を幾らか過ぎ去った後のこと。ドアの前でしゃがみ込み待ち続けていた丸々とした少女の姿を見て沈み込んだ気持ちを静めて言葉を向ける。

「晴香、待たせてゴメンよ、ほら行こうか」

 晴香は顔を上げて、声の主を見つめて、力なく立ち上がる。その姿は授業という時間と天音の遅刻を経て疲れ果てたように映り、更に天音の心を抉っていた。

「天音は仕事だったんでしょ、じゃあ仕方ないよ」

 生活が懸かっている、特に天音のように儲けが少ない業種に携わる者にとっては仕事のひとつが命綱と化している、それは理解していた。

「まあ、報酬は受け取れやしなかったけどねえ、高校生ふたり、しばらくは一緒に退魔師が経営する喫茶店で働くことになるんじゃあないかねえ」

 天音の手にまで回って来る金額はふたり合わせて一万程度、依頼者への職場の紹介料や天音の協力代金に場所の貸出料金で計二万はむしり取られたのだという。

「何故にアタシが金持ってかれなきゃならないのさ、親じゃあるまいし」

 晴香と話している内にあの苦しみはすっかりいなくなってしまったのだろうか。少しだけ気が楽になっていた。

 晴香は天音の顔を覗き込み、声に耳を澄ませ、愛する人のことをずっと味わっていたのだろう。突然大人しい声が奏でられた。

「あのさ天音」

「どうしたのかい」

 晴香は天音を見つめたまま歩き出し、そのまま天音のお腹にしがみついて言葉を続けた。

「ムリ……してないかな。してるよね」

 もたらされた問いは語っていた。天音の心に這う陰などお見通しなのだということを。

「あんまり無理しないで話してよ、お願い、私には隠し事……しないで」

 天音は無理やり微笑んで晴香の身体を引きはがした。

「いいけどアタシが話す前に放しな。あんまし細身についただらしないお腹の肉に触るんじゃないよ」

 余程気にしていることなのか、ただ少し誤魔化したのか。後者だとしてもそれは過去の後悔を遅らせるだけのことに過ぎなかった。

「それ言ったら私なんてもうすんごい太りっぱなしなんだけど」

 床が抜けるのいつかな、そんな重苦しい冗談を交えつつも天音の心の奥に隠れている陰の正体を引き出そうとしていた。

「まあそれは走りながらか後でしっかりと話すから、まずはランニング行こうかね」

 一緒に走る期間が長かったところで未だに理解していなかった。走りながら込み入った話など出来ないのだということ。

 ふたり走り抜け結局家の前にまで戻ってきていた。晴香の時間の余裕を確認した上で家に上げて、天音の過去のことが打ち明けられた。

 誰にも話すつもりのなかった過去、仕舞い込んで永遠に引き出すつもりもなかったというものを晴香という身近な人物に話している光景は夜空の中、より一層暗い空気感を纏っていた。

 今まで一切触れて来なかった弟の味雲の話、それを話し終えて空を眺める。晴香は何ひとつ物を言えずに天音と共に肩を寄せ合い手を握りしめた。ただただ強く、しっかりと離れないように。

 冷たい過去の暴露と触れ合いでの温もりの分かち合い。天音の中に理由すら見いだせない予感が蔓延っていた。


 いつの日か、亡霊と成った味雲と向き合う日が訪れるのだろうという不確かな事実でありながら確かな予感に心を打ち付けられていた。

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