第5話 自信
向かい合う者は家族同士。かつてはこの世で真っ当に生きてきたはずの弟と真っ当な道を歩んでいる姿が全くもって浮かんでこない姉。
結果的に今を生きているのが怠惰を選んだ存在ということ。真面目に生きることの馬鹿馬鹿しさが湿っぽさとジメジメとした心地をこの世の隅にこびりつかせていた。
「まさかアンタが亡霊になっていたとはねえ」
堂々たる表情といいこれまでの活動といい、明らかに知っているはずのことに対して惚けた態度を示すのは彼女なりのこの世の歩き方なのだろうか。
「はっ、あま姉こそまだ亡霊みたいな一生過ごしてんだろ」
ソファーに寝転がって酒を煽っては惰眠を貪るような生活ははたして何年ものの熟成態度なのだろうか。晴香は苦いものを噛み締めるような貌を見せるだけだった。
「アンタはアタシが道を示さなきゃまともに歩きも出来やしないのかい」
「黙れ、俺はまた霧葉にこの世で会えるならなんでもいい」
固い意志は決して砕けない硬い石のよう。いつまで死者を追いかけているのだろう。自らもが死者となってまで追いかけ続けるのだろうか。必死に彼女を呼び戻す方法を探る姿は永遠に報われずにさまよい移ろい続ける冒険者。何年も果てが見つからなくて報われない人物。
その亡霊は恐ろしさの欠片も持ち合わせていなかった。
天音の腕が伸ばされその手は扇子に収められた青空を広げる。
味雲の腕もまたしっかりと伸ばされて天音の方を向いていた。
「なあ、あま姉が止めた男、アレは放っといてもいいのか」
天音は目を見開いた。味雲の手にはいつの間にか拳銃が握られていた。否、拳銃ではない、頼りない街灯によって照らされた味雲と同じく拳銃の材質までもが映されているよう。天音はすぐさま答えにたどり着いた。
「玩具なのかい、そんなものでどうしようと仰る」
「こうするんだ、眠れぬ悪夢の夜」
声に合わせて引き金は指に掛けられて、銃弾を引き止める機構は解かれた。銃口から飛んで来るもの、それは天音の想像を裏切った。銃口から勢いよく飛び出してきた弾、その姿は見るからに実弾。進み進んで勢いをつけて。進む弾の回転は空気の寄り付きさえ許さず天音に警戒の意識が近寄る事すら許さない。
それからほどなくして、天音の胸を貫いた。
天音は咄嗟に胸を押さえるものの、そこに痛みは何ひとつなかった。
「何をしたものかい」
「今に分かる」
味雲のすぐ後ろに立つのは男、否、幻覚。分かっていた、分かっていても尚目を離すことが出来ずにいた。抑える胸に痛みはあるはずがない。にもかかわらず、痛みが残されていた。確かな悪夢の痛みが現実に確かに在った。
男はこの世で最も分かりやすい目の色をしていた。明らかに常に機嫌が悪そうで今にも腕を振るいそうな危うさを抱えて生き続けていた。
「この前救ったおばさん、ホントに感謝してると思ってるのか」
「なにが言いたいのかい」
これまた味雲の後ろに天音が解決したタイムカプセルの件の女の幻影が立っていた。
「マボロシだと思ってるのか、嗚呼確かにそうだ」
それを認めつつも味雲の言葉は天音を責め立てるような響きを持ったまま繋げられた。
「でもな、これ、現実でもあるんだ。俺の最初の遺シモノ、眠れぬ悪夢の夜が示してるんだからな」
味雲が紡いだ言葉の切れ端に合わせて男は揺れ動く。彼の腕は今にも誰かを殴りたい、暴力こそがこの世で最も簡単な解決方法。そう信じてやまない、そんな示しの響きを持って震え続けていた。
「ソイツはアタシの見立て通り。娘が不安で仕方ないね」
天音の眼は男の方から逸れて物忘れの呪縛から解放されたはずの女に目を向ける。
その顔は俯いていて、それ以上に濃くて湿っぽい陰を蔓延らせていた。
「アンタは何を悩んでいるのさ、聞かせてみせな」
女は天音に鋭い目を向けた。中年の怨念が込められたその目が取った反応、天音に対して暗い感情を込めて睨みつける姿は恐怖というモノを改めて教えてくれる。
目を合わせた途端、天音の頭の中に声が響いてきた。
「いやだ、私はいじめをしてた、でも誰かにいじめられてたし、誰も悪くない、そう、誰も」
言い訳を被せることでしか保つことの出来ない心、過去は生温い手を伸ばして天音の首を締めにかかる。
「あの時百合が止めてくれたのに、平気で他の子の大切なお皿を割ってしまった」
決して抜け出すことの出来ない罪悪感の渦。その罪こそが繰り返される日々の在り方をも支配していた。
どのように過ごすことがあってもいざと言う時に誤った方法につい手を伸ばしてしまう。そんな姿がありありと浮かんで来ていた。
女の顔は湿り気のある夜闇に相応しいありさまをしていた。そんな目も当てられない姿を目にしつつ味雲は天音に問いかける。
「こんな過去を思い出してんだ。忘れてた方がよほど良かったかもな。それでも助けてよかったって思えるのか」
見つからない。夜の闇の中に消えて隠れた答えは手を伸ばしても探ってみても何処にも見当たらない。
天音が救うことさえなければ思い出さずにいられた。言い訳という心の蓋を外さないままでいられた。天音の仕事が過ちのように思えていた。
立て続けに責め立てているように見えていた。実際に蓋を開いてみれば責め立てている。それが彼らの目からも見て取れた。
「ああ、そうだこれが彼らの悩みだ、後ろめたさが産み落とした最悪の怪異という魔法が解かれた後の弱い者」
それは果たして事実なのだろうか。本人を見たわけでもなくただ今そこで幻影を見つめているだけ。それでも現実の生々しい感触が心にその手を伸ばしてつかんで来る。妙な温度を持って支配しようとするのだ。
天音は言い返す言葉も見つけられないままただ黙っていることしか出来なかった。晴香もまた、この場所に立って力なく口を開いているだけで精一杯だった。
この場所で機嫌のいい者など誰もいない。この世界の中に生まれたひとつの地獄絵図がこの関わりの中に在った。
味雲は振り返り歩き出す。
その姿をただ見ていることしか出来なかった。
☆
眠ろうと目をつぶる。しかしながらその身体は眠りを取ることを許してなどはいなかった。
瞼の裏にありありと思い浮かぶもの、それは娘の姿。
「助けて、病気と怪我で入院してる頃の方が暴力されなくてよかったよ」
感謝されるどころか責め立てられる。この仕事はあまりにも報われない。そう思いつつ幼いその姿に目を向けた。
水穂の姿は何ひとつ変わりなく、実のところ何も変えられていないのではと落胆した。
この雰囲気を感じ取っていることだろうか、宇歌も床に寝ころんだまま近づいて来ない。
これまでの仕事、そこで救ったと思った人物は本当に救われたのだろうか、もしかすると何ひとつ救われていないのかも知れない。
弱みにつけこみ入り込む亡霊たちは実のところ、弱みを持つ者たちにとっての悪しき心のよりどころだったのかも知れない。必要悪をお構いなしに取り払ってしまっていたのかも知れない。それを想うだけで胸が締め付けられて仕方がなかった。
「アタシのして来たこと、正しかったのだろうか」
辛うじて露わになったその言葉はあまりにも正直で、強さのひとつも練り込まれてはいなかった。
味雲は果たしてどのような悪夢をこの現実に見てきたものだろう。霧葉との出会いはいったい如何なる救いを与えてくれたものか、霧葉の死はどのような変化をもたらしてしまったのだろうか。
眠れぬ悪夢の夜に頭を抱えて過ごした後に迎える朝、甘菜の呼び出しに素直に応じて出て来た。きっと余程酷い顔をしているのだろう。
甘菜はその顔を見て笑っていた。その声その貌、薄っすらとかかった小馬鹿にする心の色は今の心で見るにはあまりにも心地よかった。
「なんでそんな眠そうなの。あっ、もしかして晴香ちゃんと別れたんでしょ」
「アンタには関係なんか無いね」
眠気は言葉のひとつも上手く運んではくれない。どうにもその声にはぎこちなさが多く含まれていたようだった。
「そんなこと仰らないで、私の仕事分けてあげるから元気出しなさい」
一枚の紙を差し出してはみたものの、天音はそのような物を受け取る素振りさえ見せない。
「いやだ、こんな仕事無駄でしかありゃしない」
表情に違和感を見て取って、甘菜は首を傾げた。
「あなたったらそんなこと言わないで。そんなに晴香ちゃんが恋しいのかしら」
空白は瞬く間の空気を支配した。そこに妙な空気が流れ続けて天音の中に生まれた言葉がその沈黙を打ち破ることで非常に大きく響き渡った。
「アタシたちの仕事、無駄なんだ」
もはや立ち直ることなど出来ない、時間が溶かしてくれるだろうか、人とのつながりが流してくれるだろうか。
「何があったの」
「私が助けてきた人たち、だれも感謝してなかった、味雲のチカラで現れた誰もが私を責め立てる」
最近こなしてきた依頼から受ける精神の負担が大きかったようで、味雲と出会ったらしい昨夜にとどめを刺されてしまっていたようだった。これ以上背負うには重たすぎる荷物。天音の背は、心は今にも折れてしまいそうだった。甘菜は大きなため息をついてわざとらしい仕草で天音を見つめては紙に目を通し、別の紙と取り換えて差し出した。
「分かったわ。浮遊霊のお祓いくらいの簡単なものにするから行ってらっしゃい」
俯き瞳に影を潤ませる天音の頭を抱き締めて母を想わせる緩やかな笑みを景色に滲ませる。
それから数秒を経て、甘菜は柔らかな腕をほどいて、天音の肩を軽く叩いて嫌らしい笑みを塗り付けた。
「はい、これで天音の憑き物は落ちました」
そうして天音を外へと出して、改めて大きなため息を吐いた。
「ありふれた喜びに舞い、ありふれた悲劇に沈む。そうしたことを繰り返して生きるのは当たり前でも大変なものね」
そんな言葉はきっと天音に届くことはないだろう。
「人の苦しみや埃っぽくて湿った感情にばかり触れるのがこの仕事。救いはあったとしてもひとつの死があってようやく依頼が生まれるもの」
この仕事の客が本質的な悩みを抱えているのか憑いてしまったものが大きな悩みを抱えているのか分からない。しかし、依頼を達成する以上はどちらかの苦しみに触れるということ。
「苦しみばかり見てはまともでいられないからアフターケアまで受け持つなと教えたのに」
後のことまで気にしている天音の姿はどう足掻いても甘菜の教えを守ることが出来ていなかった。
天音は歩みを進め、目指す。紙を見て、前を見て。
進み続けて視界に広がる景色、それはマンションの一室、陰気な気配を閉じ込め換気が出来ていない、そんな印象を抱かせる場所だった。この一室だけが切り取られて別の世界をはめ込んでいるような、そんな違和感をいとも容易く与えてくれるそこ。
そこには見るからに思考も思い出も欠片ほどでさえ残さない幽霊たちが宙を舞っては踊る。目には騒がしく、耳に優しい。人によっては別の見え方をするものだろう。霊感の強い姪っ子だったならどのような印象を述べてくれるだろう、晴香の感覚にはどのように感じられるものだろうか。
考えてもキリがない、天音はそんな言葉を与えて扇子を広げる。
「私を助けたせいで、私助けられたせいでいじめが」
脳裏を走るそれは幻聴だろうか。眠れない程の責め苦を与えて来るあの悪夢の夜はとうに過ぎ去っているにもかかわらず、未だに天音に爪を立ててはひっかいて来るものだった。
「おかげさんで宇歌が近寄って来なかったじゃないか」
怒りなどと言うひとつの燃え上がる感情で無理やり鼓舞しようとしていたものの、穴でも開いているのだろうか。想うようには膨らんでくれない。
情を殺し、上澄み程度のものなどこぼして捨て去って。
湿っぽい雰囲気渦巻く陰気の室内に向けられた扇子は思い切り室内に風を送り始める。
扇ぐたびに霊は減り、室内には明るさが戻って行く。しかし、それでも全てが消えるわけではなく。
天音はその事実を目で認めて線香に火を灯し、室内に香りと煙を撒いてぶつぶつと何かを唱え始める。今どきごくごく普通の人々には読むことも聞き取ることも出来ないような言の葉たち。そんなものが流れ続けて数十分、ひたすら見映えの変わらない光景に退屈感を覚えたのか煙たさに嫌気が差したのか、いつの間にか消えて無くなっていた。
「終わりか」
沈み切ってしまった心では喜びを形にすることも出来ない、無情の祓いはある種の理想形ではあったものの、天音としてはどうにも納得がいかなかった。
窓ガラスの水面から潜り込んで来る光はいくつもの途切れたカーテンを生み出して室内をアクアリウムのような様へと色付けていく。
一度大きく息を吸っては身体を伸ばし、あふれ出る気怠さに身を任せて床に寝転がり空を眺めてはただただ無為に時を潰す。
やる気の欠片も残されていないこの身体を引き摺って幾年の月日を流し続けたものだろうか。
どれだけの時間を過去のモノへと変えてしまったものだろうか。
時間というモノはどのような生き物だろうか。日々を過ごすだけで常に過去の存在に変わるそれはあまりにもか弱くてあまりにも愛おしい。
「このままネコにでもなって御仕舞い、そんな生活が在ったらなあ」
「そんなの認めないわ」
「えっ」
不意に飛んできた返事に天音の身体は震え、それこそネコのような態度で起き上がる。
「こんにちわ、ちゃんとお祓い完了したみたいね」
目に映るそれは間違いなく甘菜。あの女は何を考えてこのような依頼を与えてみたものだろうか。思考は正解やゴールなどと呼ばれる場所にたどり着くこともなく、迷い続けるだけ。そんな中で天音は疑問をさえずっていた。
「なに故にこんな依頼をアタシにお任せなすった事やらだね」
甘菜はため息をついては天音の手を取る。すぐ後ろに立つ若い男が天音に言葉を贈った。
「甘菜だって心配してたんだよ。俺も心配してたけど、少しは前、向けたか」
疑問は天音の口から回答そのものを引き出すことは叶わない。沈黙を肯定と取ることが如何に危険なこともあるのか、天音の表情をみて思い知らされた。
「まだっぽいね」
「確かに今回の仕事は何事もなく果たせたけどもさ、次の仕事はどうか、その次は。また人に憑いた怨念を祓っては恨みを買うんじゃないだろうかって」
今回の仕事は感情の入る余地がなかった。なにも考えることなくただ淡々と仕事をこなし続けるだけ。
ただ天音が抱える悩み、味雲の手によって突き付けられたそれは今回の業務とはあまりにもかけ離れていて幾つこなしたところで心を前に向けることなど叶わなかった。
そんな情は顔から見抜かれていたものだろうか。男は紙切れを一枚手渡した。
「じゃあ、夕方の六時に晴香ちゃんと一緒に行ってごらん。きっと何か変わることが出来ると思うから」
小さな紙きれには予想だにもしない場所が書かれていた。
天音は首を傾けては疑問を転がし続ける。やがて、閉じられていた口から疑問は飛び抜けて言葉に変えられる。
「お供え物する相手なんかいただろうかねえ」
その紙切れに書かれた場所は生花店。住所に目を向けて天音は更に疑問を深めて行った。
この辺りではどう足掻いても小さな個人の店程度のものしかなく、お供えが目的であればスーパーマーケットにでも行った方が手軽で格段に早い。
疑問を深めては理解不能の色をした霧に覆われる天音。しかしながらそれ以上の疑問を挟む余地も与えられないまま甘菜の案内で次の仕事へと引っ張り出され、アパートを後にした。
進みながら天音は想いを巡らせ指先にまで這わせて目の前の景色を見つめる。その景色は天音の住む町、天音がよく通る場所、建ち並ぶアパートや小さく纏まった公園、歩道の向こうに映るはコンビニエンスストア。いつ見てもなにも思うことのないそのごくごく普通がどうしてもどこまでも空しく映っていた。賑やかな中年の女性たち、その話し声がどこまでも響いてきて天音が話に加わっていないという事実ひとつでどこまでも世界から外れたように思えてくる。この世界に居場所など残されているのだろうか、時は進んでいても尚、自身のものだけが止まっているように見える。
「これから行くところだけど、ねえ聞いてる」
疑問ではなく聞いてという意思表示、訊ねるように見えて指示を出しているだけ。分かり切った話だった。しばしの沈黙のように思える一秒以下を経て天音は答えてみせる。
「聞いてる」
甘菜は肩を落としながら明らかに聞いていない天音の肩を掴んで参った姿勢で懇願をこすり付ける。
「頼むからしっかりしてよ」
頷いては見せるものの、それさえも何処か覚束ない。天音は地に足のつかない感覚を、得体の知れない浮遊感を踏み締めながら心ここに在らずといった言葉が天音の今というパズルの最後のピースとなりながらも綺麗に当てはまらないスッキリしない、そんな雰囲気を態度に纏っていた。
甘菜がため息をついては天音の眼を覗き込んでいる間に代わって夫が説明を加えた。
「今からある建物に行くんだと言ってた」
男の話によればそこではどのような店をやっても数か月で閉店してしまうのだという。そうしてラーメン店から書店に精肉店まで二年程度で様々な店へと姿を変えてはどれもこれも長くは続かない。そんな物件だった。
「まるで職業体験みたいじゃないかい」
「そうだね、適職ないのかな」
普通に考えてみれば交通量や建物としての見映えといった立地条件や地域住民の顔ぶれといったものが合わなかったと読み解くべきだろう。実際に天音はその線を疑っていた。
しかしながら歴代の経営戸締りの条件は好調の波に乗り始めた頃。経営に追い風が吹き込んで来た頃に起こるのだという。
経営の波風に押されて賑やかになってから一週間と持たずに閉まるのだと。
うるさいとまくしたてるように起こる怪異、それは従業員や店長の大きな怪我として残り、まさに幽霊へのテナント料の未支払い分の取り立ての烙印のよう。
そんな話を聞きながら歩く景色はやはりどこか空しくて、会話の内容もまた、理解できているようで出来てなどいないようにも思えて不可解な心地に苛まれていた。
「行ってみればわかるわ。そんな目立つ悪しき怪異だもの、気配だらだら垂れ流しじゃないかしら」
やがて見えてきたのは車の通行が大変賑やかで纏まりのないリズムを打ち続ける道路。クラクションが鳴り響いては人々に構うことのない車の主は自身を王様とでも思っているものだろうか。
「大変お偉いもので」
甘菜の言葉を無駄に噛み締める。この世界は天音ひとりが壁に突き当たり歩みに困っていたところで構うことなく時を進め続ける。天音には壁に見えても人々には風のたまり場のひとつやふたつ程度にしか見えていないのだろうか。すり抜け通り抜け日常を紡ぎながら世界を大勢で動かす様はこの社会全体がひとつの大きな機械のよう。人々の大半が細かくありながらも立派な部品のように思えた。
「ここの交通マナーは法律よりも法律してるみたいね」
「でもその律令、車優位の暴君が作ったみたいだね」
この夫婦の会話を聞き届けてただ頷く天音。その姿はいじけた子どものようにも見えていた。
「そろそろ着くから気を引き締めて」
言葉にするとともに目の色を変えた。強張る様子はそれだけでも如何に甘菜にとっての脅威なのか、強く強く訴えては止まらない。
これ以上は甘く弱々しい気など持ってはいられない。それはただ足を引っ張るのみの話。天音もまた息を大きく吸っては吐いて、肺の奥まで空気を吸い込み切れない回しきれない、そんな心持ちを抱きながらも建物を前にして立ち止まる。
甘菜は建物を指して語る。
「この湿っぽい気配、見えるかしら。私には触れて来るように感じ取れるわ」
人によって霊の気配の読み方が異なる。香るように現れることがあれば声だけでなく気配そのものまでもが聞こえてくることもある。それぞれがこの世の者でないモノを視るために研ぎ澄ます感覚はそれぞれに向いている方法によって行われる。人によってはこの世界では弱いと思っていた感覚が霊視の時には役に立つなどと言ったことはよくあること。
ふたりが霊の気配を感じている内にも夫は鍵を取り出してドアノブのすぐ下に差し込んで回す。そこから軋むような音を立てながら開くドアの向こう、誰にも見せないという意思を見せた黒いカーテンを捲りあげてひとりひとり潜り込んで行く。
待ち受けていたそこには人は当然のこと、余計な物のひとつもない部屋。片付けの美学という言葉を想わせるものの、実のところはそれさえも許さないただの虚無。
「見えるかしら」
甘菜の言葉に天音は言葉も無しに一度大きく頷いた。
「じゃあ、この札を貼って回って、四隅から次第に攻めるように走り回りながら」
甘菜の頼みを断ることは叶わない。ただ流れに従うように、思考を捨て去って足を動かし始める。隅に一枚貼って、進み始める。
途端に部屋の真ん中に明確な何かが現れた。人と呼ぶことの出来ない人のような何かしらのモノ。常識でははかり知ることの出来ない何者か、天音や甘菜がこの人生で幾度となく見続けてきた存在のひとつ。
そんな怨霊は鍬を手に持って天音に飛びかかろうとする。その瞬間に目に入ったものはボロボロの麦わら帽子と長い袖の分厚い服。
「危ない」
何処から取り出したものだろう。甘菜はいつの間にか札を手に持っていた。それを怨霊に放ち、呻くような声で祝詞を唱える。不可思議な言葉は意味が分からずともあまりにも特徴的で訊いただけですぐさまそれだと気が付いてしまう。
耳を傾けたが最後、鍬を持つ手は縛られたように動きを失い震え始める。
「行くわ、天音は早く」
今はただ従うのみ。天音は言われた通りに足を進めては次の隅へと向かって札を貼り付ける。
更に更にと心ばかりを焦らせて、余裕のひとつも残さないまま次の隅へと駆けては札を貼って次の隅、四隅の最後へと向かう。
しかしながら怨霊は、年老いた男はただでは消えてくれないものか。痺れを解いて天音の方へと突撃を試みる。
「させないわ」
最低限の言葉以外は要らない、そんな態度に怨霊の気が済むはずもなく、甘菜の術式を打ち破り鍬を両手で握りしめて振り上げる。
しかしながら甘菜もまた、ただでは済まさない人種。
「祓いに六文銭は要らないでしょう。それ以上の運賃かけてるのよ」
そう言い放って札を怨霊に貼り付けて筆の姿を持ったペンを取り出して加筆を行ない祝詞を唱える。
ただのそれだけで燃え上がる服、鍬もまた力を失って木製の持ち手から折れて使いようを捨て去る羽目となっていた。
「早く、四隅を繋ぐように貼って、ここまで来たら夫のカエルの手も貸すから」
そう言いながら甘菜は祝詞を唱えて怨霊の動きを封じ込め、その手で壁を遠くからなぞるように示した。
ここからは全ての工程が滞りなく進んで行った。数多の札を壁に貼り付けて隅と隅を繋いで結界に新たな意味を成す。貼り付けた札たちはその場を動くこともなくただざわめくように揺れていて鳥肌を呼び起こして行った。
やがて札が壁を囲んだことを確かめると共に甘菜は瞳を閉じて祝詞を唱える。怨霊に向けて唱えられる長い呪文のようなもの、果たしてそれは祝いなのか呪いなのか。同じ言葉でも感情ひとつで意味合いががらりと変わってしまうこともある。甘菜の口から発せられる言葉の意味も裏に潜む感情も分からないまま言葉を聞き続け、立ち尽くしていた。
ここにいる者甘菜を除いては誰も分からないが唱えられる言葉の中で怨霊は消え去る。
「はい、お仕舞い」
甘菜の言葉に合わせて天音は札を剥がし始める。言葉のひとつも無しに片づけをただ淡々とこなしていく。心ここに在らず、そんな心持ちの欠片を宿しながら片づけるその姿には魂のひとつも感じられない。
それ故であろうか。甘菜の言葉を耳にすることさえ遅れていた。
「だから天音。そう、これでもダメなの」
きっと何度か呼ばれたことだろう。この人を救うと称して正反対のことを行なっているようにも見える人物によくもかけられる言葉を持っているものだと感心しながら耳を傾ける。
「もうそろそろ晴香ちゃんもかえるのてにいらっしゃることでしょう、あなたもおいでなさい」
そう言われては抗う術も何もない。言われるままについて行って、例の和菓子屋にたどり着いた。
店に入ったそこにはすでに晴香の姿があった。椅子の中に上品な様で収まっているつもりだろう。実のところは幼い子が可愛らしく居座っているように見えるだけだった。
「ほら、ふたりとも揃ったならすぐに行きなさい。間に合わなくなるかも知れない」
差し出されたメモ、そこに記された場所、これから向かうのは花が売られているあの場所。
向かって足を進めてはふたりで確認を取って急ぐように急かしたあの顔を思い出しては足を速めて。
六時を迎えようと言ったその時だろうか。甘菜に頼まれた花を買おうと店に入った時、目に映ったその姿に天音は大きく目を見開いた。
「あなたはタイムカプセルの」
「あの時はお世話になったね、若い子ちゃん」
その女は手に百合の花束を持っていた。
「おかげさまで物忘れもしないで済んでるよ、感謝してもしきれない」
「でも、想い出ってツラいことも多いんじゃないかい」
ついつい口をついて飛び出す天音の言葉。そうした声を奏でる表情の影を見て取って女は天音の眼をしっかりと見つめて言の葉を散らす。
「そうね、色々嫌なことはいっぱいあった。今でも思い出すだけでイライラすることもあるわ」
それが事実、それこそが現実だった。
「でもね」
続けられた言葉に天音は顔を上げる。
「やっぱり忘れちゃいけないと思う。悲しいことも嫌なこともあったから今こうして人の痛みに寄り添う人でいられるのですもの」
更に女は言葉を付け加えた。
「ありがとう」
たったのひと言、ただそのひと言はあまりにも温かくてあまりにも輝かしかった。そんな言葉に照らされた天音の顔を目にしては女の口元も緩んで行った。
「さっきまで憑き物でもいたみたい。うん。今の顔が断然いいわ」
声にもならず、女の励ましに感謝を抱いて明るみを見せる。ただそれだけで周りの人々が明るい暖かみに包まれて行くように感じられた。
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