第4話 正月以来
歩道を進む女子たちの姿が輝いていた。紺色のスカートが風や女子たちの動きに揺れて可愛らしく舞う。
晴香はそんな彼女たちが横に並んで歩道を塞ぎながら迫る姿を見ては嫉妬していた。妬ましさはどこまでも膨れ上がって大きくなり続ける。
「私もその時から痩せてたら楽しかったのかな」
制服に包み込まれた姿はあまりにも潤しく瑞々しい。そんな美しき一列とすれ違おうにも向こう側は列を崩すつもりは一片たりとも持ち合わせていないようで晴香は段差を跨いで路側帯を歩き始めた。
空は暗くなろうとしていた。歩道と路側帯を分ける境界線は明確な突起があり、夕空と夜空を分ける境界線はあまりにも曖昧。
朱は紅のような色を帯びていて、黒に圧し潰されて空の底を焼くようにそこに在り続けていた。
晴香の目には朱が嫉妬の紅潮に映った。空でさえ見惚れてしまう、それが女という生き物だと勝手に思っていた。
「空が何か考えてるわけないのにね」
無機質な建物たち、背の低いアパートが建ち並ぶその姿は知らない場所でさえも同じように想わせる。
実際修学旅行の移動中に歩いた場所の一部によく似ていた。住宅街など大して特徴的な場所も無ければ殆どが似た姿に落ち着くのかも知れない。
そんな住宅街の中に晴香が寄りたかった場所が、ある種の唯一が見当たった。
小さな公園、その中に納まり佇む神社。
近隣の住民が毎年正月を迎えると共に五円を投げに参る、幸運とのご縁を求めて参る、そんな場所。
ここに住まう神はこれまでどのような景色を見てきたのだろう。フェンスに囲まれた公園の中で遊ぶ子どもたちの賑やかな姿を、時として人々の新しい縁が結ばれる瞬間を、報われない子の霊としての苦しみを。
数々の出来事を見てきたはずの神が特にしっかりと見ていたであろう幼い女の子の霊。今日は彼女の時が止まってから何度目の一年なのだろう。
「どうか天国で楽しく過ごすことが出来ていますように」
その呟きは誰に聞かれるということもなく辺りに薄く広がっては闇に飲み込まれて消え入る。
受験前の正月にお参りしてそれ以来の訪れ。公園の中に納まる鳥居に一礼をして小さな祠とでも呼べるだろうか。祠の中に置かれた賽銭箱の中に五円玉を入れて二礼二拍一礼、神社の礼儀を通して願いを沈黙で述べる。
晴香の場合は願いなどではなくただただ其処に居る神へのお参り。願いなど何も持っていなくて神さまが楽しくいられることだけを願うという形で祈るのみ。晴香には神さまに願う程の望みなど何もなかった。天音との生活、天音と築き上げる年季、天音と結び合う想い。今では何もかもがその手の内にあった。
鳥居を後にして晴香は思う。
賽銭箱があの大きさであれば正月には賽銭が溢れてしまうのではないだろうか、もっと立派なものを置くことは出来ないのだろうか。
そんな想いも公園のブランコに目を移すことで見失われてしまった。
そのブランコで遊ぶ女の子がかつては晴香と共に時間を潰していた。親の迎えを待っているという幼い女の子。その女の子が幽霊だと知ったのは天音が駆けつけてきてからのことだった。
また知らずの内に魅入られてしまっていた。ただそれだけの事だった。
公園のブランコに一礼をして去る、そんな姿を目にした男の子が母に訊ねていた。
「あの人、なんでブランコに向かってお辞儀してるの、変な人」
途端に恥ずかしさが火を吹き始めた。頬を湿らせる汗は焦りの熱による湯気の仕業だろうか。そんな薄手のシャツの涼しさなど感じさせない熱が籠ってたまらない晴香の方を見つめて母は子に諭すように言葉を授けた。
「あんまりそういうこと言わないの」
子どもは地を見つめ、反省の色を見せつつ母の話を聞いていた。
「実はここで昔、交通事故があったの」
「昔って、どれくらい」
それは晴香も知らなかった。図書館に保存されている新聞などを捲り続ければもしかすると見つかるかも知れない。しかしながらそれは途方もないほどの手間。暇でもなければとても出来そうにもない。
「そうねえ、もう十年行くかしら、近所付き合いで仲が良かったのかもね、もしかしたら同級生かも」
ことごとく的外れでもあり得たかもしれないと思えるような推察。晴香は想像してしまった。あの子が同級生だったら、同級生のままだったら、今頃どのような人と出会ってどのような成長をたどっているのか。そこに在る鳥居の中で一緒に賽銭を投げて願いを捧げながら一緒に笑い合っていた未来もあったかもしれない。
そんな幻を思い描き夢と成す。全てはこの現実では起こり得なかった出来事で、全ての事実はあの子が大好きだったブランコの傍に置いた黄色の花が示していた。
☆
次の日に晴香は友だちの声を辿ってきた男の顔を見つめていた。
運命の線路を進みこの学校近くの駅にまでたどり着いた若い男。そんな彼の頼みを断ることなど出来なかった。
「向かいのアパートに曰く付きの部屋があるんだ」
曰く、向かいの部屋に常に空き部屋となっている場所がある。誰も住みたがらないその部屋はまさに事故物件。自殺者がかつて出たのだという話。天音としてはただ祓ってみせればいいだけの悪霊。邪悪というだけの男性の霊だろう。そうたかを括りながら話を聞きながら思っていた。
どのような場所なのだろうか。方角はどちらを向いているのだろう。住宅街で敷き詰められた場所であれば窓の位置を選ぶことなど出来ないかも知れない。ある程度の隙間があればアパートの窓同士が向き合うこともあり得るかも知れなかった。
「窓の向こうに茶色っぽい服を着た男が立っていたんだ」
果たしてどのような霊なのだろう。茶色っぽいということはもしかするとコート姿の若い者かも知れない。
天音は想いを薄暗い角に漬け込んでいた。もしも中高生から大学生、社会人になりたての存在であればあまりにも厄介だった。年頃の男程理解の難しい。単純なのだと思えば妙な心持ちを出してきて困惑させる。そんな生き物だと天音の中では結論がついていた。
「やれやれだねえ。若い男と性別問わず頑固な老人は強制除霊しかありゃしないし厄介を極めていらっしゃる。介するほどに厄に化けて出て来るってものさ」
タチの悪い霊を、姿すら見ぬままに思い描く。きっと恐ろしい程に醜いことだろう。自殺者となればあまりにも痛々しい傷だらけの心を魂の色にしてしまっているだろうから。
まずは現場、そう言って晴香を引き連れてみせる。そんな天音の心が分からなかった。
晴香の中ではどのような依頼になら引き連れてもらえることか、どの程度の危険度なのか、全てが霧の中の出来事。
想像する事、夢中の霧中、抜け出すことの出来ない自分というセカイに囚われ続けて晴香は天音の方へと眉を垂らしながら見つめていた。
困惑の色が見えてしまった。天音の顔はそれだけでも晴れ晴れとし始め、苗字に似合わぬ青空模様の輝きを見せていた。
「困ってる晴香も可愛いね、きっとアタシが連れてく基準が分からないのだろう」
訊ねられてただ頷く。今の空気の中に晴香の言葉など必要なかった。そこに流れる沈黙こそが困惑の情を強く色濃く塗り立て今の空気感の主演を務めていたのだから。
「ああ、晴香。そんな困った顔なんかなさらないでおくれ。かわいいけども晴香には笑っていて欲しい。アタシにも引き連れる基準なんて分からないのさ」
「本人も考えてなかったのね」
それだけがハッキリとしていた。きっとこれ以上は何かを述べてもはぐらかしているようにしか見えない本音を突き付けられるだけのことだろう。
やがて天音が外に出る。依頼人と晴香のふたりもついて行くように外へと足を踏み出した。
そこからは依頼人の案内が必要だった。ぶつぶつと文句を泡のように吹き出しながらもついて行くのみ。晴香はそんな天音の顔色を窺いながらついて行く。
未だ青空は爽やかで、この明るみは暗闇とは全く縁のないものなのだと思えてくる。同じ空だというのにそれぞれの貌を演じるのは別の空。そんなことを想いながら晴香は今日の講義は既に終わっているということを真似に伝えてみせた。淡い空気は足を順調に進め続ける。
きっとこれ以上は情緒を預けるわけには行かない。感情の重みが太陽の光と天上の大海原に紛れながら降り注ぐ天気雨になってしまうから。
たどり着いたそこに目を向けて天音は目を大きく見開いた。
「この前祓った部屋のお向かいさんのアパートかい」
どうして気が付かなかったのだろう。首を傾げながらも天音は階段を上り、男の手による導きを受けながら事故物件の部屋へと向かった。
「大家さんまでお待ちとはそりゃあ手を焼いたことでしょうとも」
そこにて待ち続けていたのはブクブクと太った男。顔に皺が寄り始めていてそれまでもが垂れ始めていた。アパートに住まう人々から吸い上げた金で作り上げられたその肉体は溢れ出る醜さを想わせ天音は顔をしかめた。今にも崩れ出しそうなその姿を目にし続けて数十秒、ようやく顔に無表情という唯一のメイクを施していた。
「頼む、安値で貸すなんて御免だ。しかもそれでも借り手が付かないし誤魔化しても次の人がすぐに出てくんだ」
男は顔を歪めて今にも泣きだしてしまいそうな表情を作っていた。顔に強さを滲ませた男がこれほどまでに情けない貌をする。天音は呆れ果てていた。
「妖気に勝るは陽気。そんな陰の気を呼ぶ顔なんかしてんじゃないよ」
目に見えて作った優しさ。そんな簡単で単純な声でもあっさりと元気を出してしまうこの男の扱いやすいこと。相場を知らずおまけにそれなりに金を持ったこの男への請求は多めに見積もろう。和紙で飾られた表紙を捲り、手帳の中にそう書き込んだ。
「まずは入ってみる他ないね、鍵、開けな」
ただそう言って天音の眼はほぼほぼ閉じられた。微かに開かれたその目に何が映るというのだろう。
大家は言われるがままに鍵を開け、天音を引き入れる。
「半眼、ご存知か。存じないね、分かってる」
霊視の為に、霊との接触のために使われる行為のひとつ。人と触れ合う世界においては見ることすら叶わない存在を前にする時、この世という視線から半歩逸れて見つめる。その手段として用いられる物、この世界を直視しない事。隙間を見ること。
晴香は天音の姿から滲み出て来る不穏な気を感じた。妖気に勝るものが陽気だと言い張って生きるこの女が、日頃から自堕落の塊のような生き様を描く人物が今ここで明るみを全て闇に包み隠され今どのような心持ちでそこにいるのか。
流れる沈黙はその場に居合わせる人々の協力の証。誰も茶々を入れないことで天音は集中することができた。
やがてその沈黙は天音の情の動きによって解かれた。
「味雲」
「えっ」
晴香は短い返事を考えも無しに出してしまっていた。それだけの不意を突く言葉。ボロボロの和服を着た女は目の前で明らかに知り合いの気配を視ていた。
そこから一秒も数える隙を与えることなく天音は目を思い切り見開いた。今にも飛び出してしまいそうな目は上下左右に揺れては過去と今と人の世と霊視の世界を行き来して忙しない脳裏はやがてひとつの事実に対する言葉を絶え間なく産み落としていった。
「どうしてアンタがここに。何をしに来た。何がどうなってその感情を抱くか。此処に何の縁があった。どうしてどうしてどうしてどうして」
明らかに強い動揺が見て取れた。揺らめくというより震えているようで、見ているだけでも目を閉じ耳を塞ぎたくなってしまう。鳥肌が全身を覆う。晴香にとってはそこまで不気味なものだということ、それに気が付いた時には既に一色の感情に染め上げられてしまっていた。
「ああ、アンタ、何の目的があるって言うのかい。此処にいらっしゃられないのだとしてもお聞かせあれ、ダメダメでも、姉のこのアタシにさ」
天音が視ているモノ、それはどうやら弟のよう。果たして彼女の中にどのような色が渦巻いているのだろう。不明と不明瞭な霧が天音というひとつの意識を蝕んで行った。
これ以上続けたらきっと精神に大きな負荷がかかる。そう判断した晴香は天音の背に一度優しく手を当てて大きく引き離す。
そこからすぐさま勢いをつけて背中を叩いた。その音は当然のように部屋中に大きく響き渡った。
☆
そこは和菓子屋。ただ和菓子を売るだけでなく抹茶がウリの喫茶店もやっているという現代の経営難を分かりやすく見せつけるような場所だった。
向かい合って座る天音の顔をまじまじと見つめながら晴香はアパートでの件を思い返していた。天音の動揺、あの光景が頭から離れてくれない。いつまで経っても色あせない強烈な粘り気を纏っていた。
あの後の行ないはあまりにも単純だった。部屋に残留する気配と残存する霊を祓って金を受け取って終了。それだけのことでも天音は身体をふらつかせて声も無しに限界を訴えていた。
終わったこと、過ぎ去ったこと。しかしながら天音にとってはこれで終わりではなかった。終わりにするなど到底叶わない事だった。身内が気配を漂わせていたのだということ、既にその場にいないのだとしても色濃く残されたそれは最近までそこに居たのだという証となった。
そんな事実に打ち破ることの出来ない重い靄を抱えながらも晴香はメニュー表とにらめっこして注文を定める。
晴香の顔色を窺っていた天音はそれなりの表情の揺れを見て、眉が微かに緩んだのをその目で認めてテーブルに置いてある小さなベルの取っ手をつまむように持ち上げて必要以上の激しさを込めて鳴らす。
「はい、ご注文はお決まりでしょうか」
天音の眼の動きに促されて晴香は先に注文を述べた。
「白玉ぜんざいと深蒸し緑茶でお願いします」
それに倣うように続けて天音が言の葉を提げた。
「わらび餅に玉露お願い致します」
その声を聴いて注文を取っていた女の表情が曇った。
「わらびに玉露、考え直しなさい」
「いやだね、甘菜のやってる店はそのくらいの心遣いでも問題ありゃしないのさ」
更に表情を迷宮のさ中に。目の前の女、神在月 甘菜は呆れを表にし始めていた。
「何言ってるの失礼にも程があるわ」
「おかげさまでアタシだと分かりますありがとうございますと仰いな」
仲が悪いのだろうか、晴香の目には慣れ親しみ深め終えた熟成済みの茶葉のようなものに思えていた。
「で、私の退魔業についてく気にはなったかしら」
全然、身振り手振りでそう語っていた。泳ぐ目はきっと甘菜と仕事を共にすることへの気まずさから来るものだろう。
このふたりは正真正銘の仲良しこよし。互いに態度の化粧とふたりの間に流れる作法だけで誤解を与えていた。
「あなたの能力は買ってるの。大丈夫、弟くんの時みたいなことはもうない、させないわ」
先ほどの霊視での一件をなぞる光景が色鮮やかによみがえる。あの時の動揺はあまりにも大きくて天音の中では非常に強い影となる衝撃だったのだろう。
「ええと、その、今日の霊視で」
「言わなくて宜しい」
言葉に言葉を上塗りしてまで止める様を見てただ事ではない、天音のトラウマだと気が付いて口をそっと閉じた。
「苦しくなったらいつでも私の所においでなさい。無理のない依頼を選んで出すから」
甘菜の言葉にどれだけの優しさが込められていただろう。晴香にしてみればとても鮮やかな友情の話に見えていた。天音は向かい合って座る晴香に微笑みながらいつのまに出されていたのだろうか、テーブルの上に置かれていたわらび餅を口へと放り込み言葉を吐く。
「その言葉、その表情、どこまで本気なのだかねえ」
甘菜の目は見開かれて固まっていた。それでも浴びせる言葉を止めるつもりなどなかった。
「この前の依頼、お子さんの除霊だけじゃあ終わりやしなかったよ、暴力父さん、憑りつかれてただけでなく自分の意思も加えられていたようにも見えるのだけど」
指摘を受けては思わず目を伏せてしまう。
「伏した目で内容と聞き込みでもなすっていたのかい、アンタらしくない」
「ごめんなさい、私もそこまでのことが隠されてるなんて知らなかったから」
今の天音には何も通らない。どのような言葉も過去の出来事に固く縛り付けられた心にまでは届くこともなかった。
「まあまあアンタもカンペキ様なんかじゃあないってこと、人さま操ろうだなんてお思いになる前に自覚を落とさぬように持っておきな。しっかりと」
そこまで言われても尚言い返す言葉を見つけることなく何もかもを受け止める。そんな姿が晴香の目には立派な大人の姿として焼き付いていた。
「アタシとしては裏切られた気分さ。と言ってもアンタもふざけてるわけじゃあないならこれ以上責めるわけにもいかないだろうとも」
そんな言葉を引いてきて重ねるように積まれて、改めて頭を下げる。
「そろそろ許してあげようよ、甘菜さんも人間だから間違うことくらいあるよ」
「ありがとう晴香ちゃん。その態度で天音のことちゃんと躾けておいてね」
「アタシは飼い犬か」
そうして甘菜が混ざった会話は幕を降ろして和菓子とお茶を味わい終えて外にはふたりきり。
晴香は天音に向けて疑問を放った。
「弟くんと何があったのか教えて欲しいの」
そこから流れる沈黙は天音の本音だろうか、それとも重々しさで口が閉じられたままというだけなのだろうか。
「いや、いいの。ツラいならこれ以上は触れないよ」
晴香の慌てようは身体をも軽く揺らしていた。震えというよりは揺れ。彼女には遠慮というものがしっかりと備わっているようだった。
「アタシは弟の味雲が纏っていた半纏に憑いた霊の取り除きに失敗した」
「えっ」
「アタシは味雲と共鳴してぴったりと張り付いた想いに、『会えなくなったアナタと再び会いたい』ってモノに見事に敗れてしまったのさ」
同じ意味を繰り返した言葉。次第に詳細になって行く意味に晴香の目は耳は心は完全に魅入られていった。
「それは数年前のことだった」
味雲には美しき恋人がいた。美人は敵、美人は綺麗な顔の裏で何を考えているのか分からない。美人は見た目だけで良く扱われて努力のひとつも無しに美味しい想いをしている。母が数年に渡って絡めたそんな思想の鎖を、言の葉という呪縛を断ち切って愛してしまった。悲しみに歪んで崩れかけた目に枯れ切った声、これが良いように扱われた人物だったのだろうか。
味雲が愛した女、甘土 霧葉と名乗った美女は高校生活を最後まで送ることなくその生涯を終えたのだという。
彼女の親族の教えなどによって背負った退魔師としての業やそれに生徒たちが後乗せした虐めに圧し潰された霧葉は自らの手首を切っていた時期さえあったのだという。
そこから得た束の間の幸せこそが味雲だったのだろう、悲しみに暮れた霧葉に対して味雲の方はと言えば初めの方こそは抵抗していたそうだが霧葉の過去を知ると共に煮え切らない情を持ち合わせて寄り添った。このふたりが愛し合うのはもはや神さまが取り決めたことのようにさえ思えていた。
そんな恋の想いが重なり合って糸となって結びついて輪と成り絡み合う、そんな恋のあやとりと成された想いは突如として切り落とされて片方が失われた。
どうしてなのだろうか、事故なのだろうか事件なのだろうか、それさえ判断が付かない。
ただ分かることは霧葉が死したということだけ。味雲自身の想いと桑色の半纏に遺されたそれの連なりだけが彼女との永遠の別れを示していた。
目を通して、祓おうと手を伸ばしたものの、救いのための手を伸ばしたものの、それは見事に跳ね除けられてしまった。
そうして代わりに差し伸べられた言葉はあまりにも痛々しい響きを持っていた。
「霧葉に会いたいんだ、死んだ彼女を呼び戻すまで、諦めない」
味雲は声を鎮めることなく、想いを鎮めることなく、ただ苦い水に自ら沈むだけ。
「これから長く生きたとしても霧葉に会えないなら、こんな命」
続きを放つまでもなく口は動きを止めた。腕が垂れ下がり力を残すことなく惰性で揺れ続ける。
語られてからというもの消えることのない声、今でも何処かの誰かを祓うとなった時に響いてくることもあるのだという。
けっしてなかったことになど出来ない、これまでの退魔師としての業務の中でも最悪の結末をよりにもよって弟に対して叩き付けてしまった。それだけでもこの世界の終わりのような心地で息を荒らげていたのだという。坊さんのお経を読み上げる声が、床一面を敷き詰める畳が、それらの独特な香りに線香のこれまた独特な香りが織り交ぜられた葬式があまりにも心苦しくて息をするのがやっとだったのだという。
「そう、アタシは、最も身近な家族という存在を前に最悪の失敗をしたのさ」
酒を空けた瓶を無理やり酒屋にまで持って行かせたり実家での力仕事を押し付けたり、嫌な扱いは散々だという程に行なってはいたものの、それでも不思議なことに家族というものは大切の極地だったという。
「寧ろ大切に想ってたからこそ本音を押し出し話せていたのだろうね」
ここまで聞いた話、それだけで晴香の目には天音という人間の過去が、掠れても薄れない強烈な色彩たちが目の前の光景の如く浮かび上がっていた。
「こうなるなんて分かっていたのならさ、もっと大切にしてたのに」
後悔は先になど出来ない。悔いが間に合う内ならば、そう思う程に深みに嵌り続ける業の深淵から抜け出すことはあまりにも難しいものだった。
「きっと、また近い内に出会う、そんな気がするのだけど、その時あの子の味方でいられるかどうか、自信がありゃしないよ」
それは死者と触れ合う仕事であるが故の言葉なのだろうか、それとも天音が天音というひとりの人間であるが故の言葉なのだろうか。
「アタシが依頼を受けたその近くにいらっしゃった」
甘菜から差し出された依頼、それはひとりの子に寄り添うだけでは解決できないというあまりにも悪質なものだった。
「偶然かも分からないけども」
もしかすると味雲は未だに霧葉に会いたいと思いながら彷徨い続けるのかも知れない。
「もしもまた出会えた時、味雲を祓うことになるのかも分からない」
既にこの世界の何処を探してみてもいない、この世界に住まっているわけがない。そんな追憶という名の亡霊に憑かれてしまっている。
救われない話、どこにでも転がっている悲劇という名のありきたりな特別の延長線上の出来事だった。
「天音」
それ以上は言葉にもならない、何も言うことは出来ない。あまりにも痛々しい思い出の傷跡は未だに血を吹き出してそこに居るぞここに在るぞと示していた。
やり切れない気持ちの置き場にも困りながら、それでもふたりの行き場には困ることはない。
日差しは影に覆われて、黄昏時の美しさと空を焼いて青を破る朱の危うさ、同じものなのにどうしてここまで異なる情を持っているのだろう、どうしてそこまで異なる感情を同時に呼び起こすのだろう。
空の色は心の色、例え同じ青空であっても雲に覆われていても、想いによってどのようにでも感じ取れてしまう。
あまりにも気が乗らないが為にふたりの意見はジョギング無しで帰ろうというもので一致した。
「じゃあね、また明日」
「またね、天音。明日は良い日になりますように」
交わされた言葉は未だに響いていた。この心で見た空にはちょっとした言葉でさえも砕けて舞って世界を彩る飾りのひとつになってしまう。
そんな雰囲気に浸りながら迎えた夜闇は微かに顔を出し、空の上に積もる澱のよう。
空に構っていてはいつまでも進まない、振り切って前を見つめながら歩き続けていた晴香。しかしそれは掴まれた手によって止められた。肩を掴む手は天音の色によく似ていたものの、不思議と生を感じさせない。
振り返ったそこに立つのは桑色の半纏を羽織った薄茶色の髪をした少年。力強い光が射し込んだ茶色の目が晴香を捉える。
「紫色のリボン、そこに遺ってるな」
声にも姿にもどこか天音の面影を感じさせる。一瞬で理解できた。彼こそが天音の弟なのだということ。
祖母から受験を頑張るようにと応援の言葉を受けながら結ってもらったあの日のことを、形見として大切に今でも結っているという今、そのふたつが重なり合った。
想い出の形、そこに手が触れられて。
想い出は流れる水となって味雲の心へと入り込んでいく。
途端に味雲はその目を見開いた。
「あの時のばあさん」
「えっ」
晴香は戸惑いながらも味雲の顔を見つめる。驚きの貌とそれについて行くように指の力が抜ける様にほどけて固まり続ける。晴香の足はすぐさま駆けることを選ぶ。祖母に感謝を込めながら、得られた隙を無駄にしないように全力で走り抜ける。
「待てよ」
味雲は遅れて走り出すものの、想ったように進まない。もつれる足が全てを語っていた。
やはり死者なのだと確認しながら晴香は走って向かう。天音のいるあのアパートへと素早く足を進めて行った。
その途中でのこと。気が付けば空は闇に覆われていたそこで白くて安っぽい着物が街灯によって開けられた闇の隙間に映り込む。
「天音」
静かな闇の中で晴香の言葉は容易く届いたようで、天音は振り返る。
「ああ晴香、忘れ物かい」
緊迫して静電気を散らす雰囲気を見て取った天音は立ち止まり、晴香の言葉を待った。
「あ、あの、味雲さんが」
晴香が指した指、その向こうに立っている影が歩みを進め、街灯に照らされる。
桑色の半纏、数えても数えきれない、そう言いたくなるほどに顔を合わせた弟の姿が確かにそこに在った。
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