第3話 憑かれた人
天音の足取りは軽く、日頃の態度を感じさせないものだった。晴香と共に毎日のように走り込みをしていなければきっと余裕をここまで持ってくることは出来なかったかもしれない。
階段、怪談のネタのひとつにもなるような不思議な存在。同じ感覚で連続した段差は感覚に不思議な緩急をつけていた。夕方の疲れた身体であれば一段数え間違えることなどよくある話なことだろう。手すりの影や通りかかる人々が背の低い窓から入って来る光の降段によって怪奇現象に人知れず化けてしまうこともあるだろう。
有名な退魔師や寺社に持ち込まれる心霊現象の案件は殆どの割合で人の認知の不思議から作り上げられたものだった。
そんな中で甘菜が選んだ依頼なのだからホンモノであることは間違いないだろう。それ以前に病院という命と直接触れ合うと言っても過言ではないその場所。霊は黙っていても気配があまりにもうるさかった。
「三階の次は五階っと」
階段の中間地点、いわゆる踊り場。その壁に張られたラベルに目を向けて縁起というものを重んじ、感情というものを重視した設計構想者の精神性を窺い知ることが出来た。
「死を意識しすぎ。四階が無いだなんてまさに『どうぞ四階に行き着いたら死にますって噂流して下さい』なんて言わんばかりの主張じゃないか」
そこから階段を上ってもうひとつの踊り場へ、さらに上って次の踊り場へ、やがて天音を迎え入れる五階の廊下。
そこに依頼人がいるのだという。
天音の今の姿は白くて薄っぺらな安っぽい着物。帯は色あせて灰色となり年季を感じさせる。この姿を一瞬だけ目にしたものはたちまちその目を疑い振り返ることだろう。万一その姿を再びまみえることがないものだとしたら、その時が新たな怪談の誕生の瞬間だった。
うわさ話から生れ落ちて真実と成る怪奇現象の恐ろしさ、人々の想像力が創造する。人そのものが人の困りごとを築き上げるということの厄介なこと。天音はしっかりとそれを理解していた。理解していて尚対策は講じない。
階段を上がってすぐさま右側に歩いて距離を稼いで遂に目に入った数字、それこそが目的の場所。
ドアを開いたそこで迎えた顔は見覚えのある人物だった。
「まさか、また入院を」
幾度の入退院を繰り返しているのだろうか。九つの歳を数える程の人生の中で最も目に焼き付いている景色は白い部屋に光を通さない緑の分厚いカーテンなのかもしれない。
そこで待っていた少女の隣に健康そのものといった様の男が立っていた。長身でしっかりと伸びた背筋はまさに娘を守り抜く騎士のよう。
「はて、お父さまかい。こちら退魔師にどのような依頼かな」
男は傷ついて白い繊維が所々に見られるジーパンのポケットからタバコの箱を指でつまみ覗かせて目を揺らして仕舞い、頭を掻いて天音の薄茶色の瞳を覗き込む。
「娘がよくケガするんだ。おまけに病気もな」
父が視線を向けると共に娘は目を細めて首を揺らしながらも父を見る。
「俺にも少し霊感があってだな。少なくとも水穂が憑りつかれていることは分かってるんだが」
「なるほど、水穂ちゃんが名役者って御話かい」
途端、細くありながらもたくましい手が天音の方へと伸びて貧相な着物の襟をつかみ、皺を寄せた。
「言ってみろ。もう一度言ってみろよ。俺の教育が間違ってたんだとかぬかすのか」
天音の表情は変わることもなく冷たいまま。男の眼の熱を吸い込むこともなくただ近寄せまいとする感情だけが見て取れた。
「水穂が嘘つきだって言うなら証拠見せてみろよ」
熱い口調、熱を帯びた鉄を想わせる声、激しく揺らめく炎の眼差しの奥には黒々とした影が渦巻いていた。
「見せてみろってんだ」
「証拠は持ってないけど、アンタが持ってんじゃないのかい。この子は優しい嘘を付いてる。あの目はそんな目」
羅列された言葉はどこまでも水穂の味方であろうとしながらも男の思う味方ではないという、そんな事実だけが沈黙を立て続けに打ち破っていた。
「水穂ちゃんはアンタなんかよりよっぽど大人のようね」
「黙れ」
止まりそうもない言葉の戦い。それぞれに武器もルールも異なり目指す結果だけが対となっていては終を迎えそうもない。そんな戦いに遂に終わりの幕が降ろされる。
「迷惑です、ケンカなら他所でやって下さい」
白い手がふたりの間に潜り込み、男の手首をつかんでいた。ふたりの注目を浴びた人物は全身を白に包み特徴的な帽子を被った女。この病院の正しい在り方を保つために従事する看護師だった。
「お前も加わろうってのか」
「お父さんやめて」
細く力のない声は頼りなかったものの、父の耳にはしっかりと届いたようだった。
「水穂」
水穂は父の目をしっかりと見つめて続きの言葉をたどたどしく紡いで行った。
「いいの、私もね、その、ごめんなさい」
「お前が謝る必要などないんだ」
父の慰めの言葉は水穂の耳には届いただろうか。しかし、上澄みをかき混ぜただけに過ぎなかった。何度も何度も謝っては止まらない。
「要らない、無実のお前が謝るな」
突然出て来た叫びは水穂を大きく震え上がらせ、父に向けて頭は下げられた。
その様を薄茶色の目は見逃さなかった。目に映ることを素直に捉えるに娘は父に怯えているように見えた。怯えている以上はその相手が近くにいるだけで素直に話すことなど叶わない、脅威に敵わない頭脳、環境に適わない身ではロクに物事を考えることすら出来ないだろう。
やがて父は天音に向けて叫び始めた。
「てめえのせいだ。こんな奴が来なければ、もっとまともな人間が来れば水穂の件は解決できたんだ」
まだ始まってすらいない。その段階でいちゃもんをつけ始める時点で顧客としては最低、天音の内ではそう評価が下された。
「なるほどねえ、これは甘菜もまた嫌な依頼を押し付けたものだね」
日頃からこのような態度であれば初めはうまく隠し通して妻が出来たとしても化けの皮がはがれた途端、関係は終わりを告げてしまう。分かり切ったことだった。
看護師に耳打ちして天音は一度お辞儀をする。
「アタシは一旦立ち退かせていただきますとも」
「二度と来るな」
門前払いも同然の扱いに天音は両手を緩く上げながら病室を立ち去り、裏で手帳に筆で御客の態度、被害者の親の方に問題有と書き込んだ。
「アンタに解決する気が無いのならどれだけアタシの方から手を差し伸べても無駄でしかありゃしない」
天音は時というものを選ぶことにした。看護師に出来る限り時間を造らせるように命じてみせて。糸を繰るように意図で操るために与えた指示の通り、看護師は水穂を引き連れて現れた。
「クレーマーっていうのかい、ありゃそういう類いの人物だね、厄介なことこの上ない」
何が気に食わないのか、彼の考えなど理解できなかった。デタラメで上げた思考の速度などについては行けない。頭ごなしに否定する様はさながら自称評論家、人間評論家とでも呼ぶべきくすんだ輝かしさに充ちた名を授けるに相応しかった。
「ニンゲンサマ評論家は偉いものだね」
常ににこやかな笑みを浮かべる看護師の案内を受けて白く塗られた壁と滑らかな歩み心地の濁りにも見える独特な白が特徴的な廊下を歩まされ、曲がり角のすぐ先の階段を降りていく。嫌に長い階段を降りて、そこから更に下へ下へと歩み進み。ふたりの女が連れ込まれたそこは精神科の診察室。心霊案件は精神の問題とでも言いたいのだろうか。
「アタシが精神科医の配置されるとこに座るだなんて腰が砕けてしまいそうなもの、いやあ、高すぎて座れませんこと」
わざとらしい言葉、演技臭い声は思ってもいない事を述べていることが透けて見える。言葉の裏に感情を隠すつもりなど皆無だった。
「では、表向きはカウンセリングとして誰も入らせませんのでのでお好きなようにどうぞ」
深いお辞儀を言葉に添えて看護師はドアの向こうへと進んでしまった。
残されたふたりの間に流れる沈黙が気まずい膜を張ろうとしていたその時、そんな膜の内側に飛び込むように水穂が言葉をひねり出した。
「あの、天音さん。昨日に引き続きよろしくお願いします」
昨日の出会いは偶然でしかなかった。そんな中で勇気づける言葉を授けたこと、天音の記憶にはしっかりと残されていた。残そうと思うまでもなくしっかりとくっきりと焼き付いていた。
「よろしく」
飾りも人々が必要だという余計な言葉も書き込まない、ごくごく普通の返し方でやる気を示しだしていた。
「その、初めに謝っておかなければいけないことがあります」
「なんだいなんだい」
天音の耳打ちは縁起のようでいて本気を感じさせる。そんな姿が不思議で堪らなかった。
「昨日、宿題だけじゃなくて、嘘ついてごめんなさい」
既に真実を悟っているのが雰囲気に表れていたのだろう。正直に謝る姿を見つめて天音は笑って許し、本題へと入る。
「水穂ちゃん、アンタに憑いてる霊だけどもアンタ自身に執着してるみたいだね」
霊が憑いて来るにも様々な目的があることだろう。憑りついた相手に直接伝えたい想いがあること、本人などではなく身内や在籍する会社に恨みがある場合、他にも土地だったり単に金や物に憑いていたこともあれば何ひとつ理由なく事故のようにたまたま憑いてしまったなどということも起こり得た。
「なるほど、成人男性か。嫌らしい恐ろしい邪魔くさい、早々に消してしまおうか」
そんな天音の診断に水穂は意見を加えた。
「それだけじゃないと思う。私、お父さんに酷いことされてるから」
父の性格や水穂の反応から想像していた事態。昨日のウソのホントを水穂は語る。彼女の数々の入院の内の身体的な怪我。その原因は父の暴力なのだという。天音は幼い口から正直に語られる言葉の数々を聞き届けてしっかりと耳に入れて噛み締めるように目を閉じる。あまりにも重々しい話は小学校に通う少女の口から語られているのだということ。天音はしっかりと見ていた。
「なるほどねえ、もしやすると霊が憑いてるからそうなるのかも分からないね」
病気がちだという点には目をつぶり、暴力からのしっかりと病院に送るという違和感には目を背け、一生完璧な幸せは得られなくなってしまった少女に向けるわけにも行かずにただただ行き場を失い迷い続ける感情を抱き締めて隠し通してみせる。
そうした表情の歪みを覆い隠すように扇子を広げてみせた。端の紺は夜空、広がるごとに薄くなりやがて白い朝日に通じるそのデザイン、真夜中と夕暮れの茜が取り除かれているが為に丑三つ時と逢魔が時を避けているよう。
「憑き物祓いはお任せあれ、アンタからの報酬は病院食に添えられたお漬物払ってくれりゃそれで構わないよ」
扇子を大きく振り、動きの流れの軌跡となって轍を残す袖は流水の如し。これから行なわれる祓いはこの上なく単純で相手の意志など聞かないもの。
天音が一度扇子を振り上げては男の霊は頭を抱えて地獄のような唸り声を上げて、振り下ろした途端男の頭は地面に叩きつけられてそのまま下へと一直線に落ちて行った。
「お祓い完了。これでもう悩むこともあるまい」
病気はきっと引き起こされはしないだろう、男の暴力沙汰は男の影響であればすぐにでも止むはずで、一方で男の習慣そのものであればきっと天音の手には負えない重みを持った出来事。お祓いを経て水穂は腰を深く折って礼を示す。
診察室を後にして、看護師が病室へと水穂を向かわせる中、天音は廊下を歩いては病院中で蠢き続ける気配に頭を抱えながら滑らかで艶やかな床を歩く。辺りを見渡してみればそこら一帯に広がるのは死した人々の歪な影。そうした存在の主張が目や耳、肌から染み込んでは頭を揺らす。ぼやける視界、震える身体をこれ以上誤魔化すことなど出来なかった。やがて天音の目指す場所へと通じる白の口から外の景色へと身を思い切り放り込んだ。
大きく息を吸っては吐いて、その繰り返し。深呼吸の数だけ天音の気分を回復へと導いていた。
「やっぱ視える人には病院は苦し。もしやしてそれ味わいたくないから任せたとかそんな奴か」
「いいえ」
すぐさま返ってきた言葉に目を見開いて振り向いた。そこに立つ目の大きな女は薄紫の服で手首まで覆い隠していた。
「この季節、そろそろ暑いとは思わないか、肌は霊の湿度を感じれる代わりに温度を感じ取れない、そんなとこかい」
「そっちは放っておいて、ただの趣味よ」
服はしっかりと太もも付近まで身を覆っていて、そこから伸びる脚までもが黒々とした分厚いストッキングに覆われていた。
「それより天音、本当に何も感じなかったのかしら」
天音は首を傾げた。何を感じ取れというのだろう。病院の中は霊が魚群を成していて常に何かを感じ取らせていて、そんな中でも強い気配が人に憑く可能性を示しだす。水穂に憑いていた霊はそういった類のものだった。
「電波の混線のようで正しく見極められないのなら、私の勝ちね。後が楽しみ」
人の失敗を嘲笑う性格の持ち主だろうか。薄汚れた人格の底を見透かしたつもりを演じて天音はニヤけ面を浮かべてみせた。
「アンタ、このままアタシが終わりだと勘違いするとでもお思いでいらっしゃるか」
甘菜の言葉が無ければ本当にそのまま終わりとしてしまっていたことだろう。そう、完全な見落としを残したままミスを抱えたまま。甘菜としては非常に都合が悪かった。ただただ知らないまま終わるのではない、天音には、気づかなかったという事実とどうしようもないという結果を残してもらって力不足に悩んでもらわなければならない。今この時この瞬間にも天音の脳裏には自信が砕ける音と心に忍び寄り伸びる影のふたつが残響を残しながら支配しようと手を伸ばし続けているところだろう。
「今に見てな、アンタのその性悪、斜め四十五度で叩き込みいれて治してやろうってものさ」
天音の言葉には見え透いた虚勢が見えていた。表情からはこそこそと悔しさが見え隠れしていた。そんな格好付かないさまを見通して甘菜は思わず吹き出していた。
「昭和のテレビか」
声を微かに洩らし笑う、その姿は鳥のさえずりを真似しているようにも見えた。
☆
それから一週間、天音は病院へと向かうこともなくただただ引きこもっては晴香や宇歌とじゃれて走り込んで、キヌが来た時には呼び止めては秘密の会話を延々と繰り返していた。
「ふうん、私にそんな犯罪紛いのことやらせるの」
「頼む、そもそも人でもないならニンゲンサマの作った法とやらに縛られる必要さないだろう」
キヌは顔を傾けて理由を表情で訊ねながら言葉では別の音を奏でていた。
「郷に入っては郷に従えってニンゲンサマとやらは言ってるんだけどね」
「頼むよ、女の子がひとり永遠に幸せを失ってしまったんだ、これ以上誰も手を差し伸べないのは」
言葉を止めて、大きく息を吸う。そうして改めて言葉を紡ごうとする天音の眼に宿る感情はキヌの妖怪としての心をも撃ち抜く鋭い光を纏っていた。
「これからのことにも見て見ぬふりだなんて、あまりにも残酷でありゃしないかい」
きっと今回の件に関して言えば協力しなければ霊騒動だけでは済まされない事なのだろう。既に人の手が絡んでけが人が出ているのかも知れない。
キヌは大きく頷いて天音に協力することに決めた。
「いいわ、その代わり部屋にあるお酒ちょうだい」
「了解、妖怪にお供え物なんてホントはしたくもない事なのだけども」
そう告げながらも手を力なくひらひらと振りながら酒を選べと示してみせる。キヌは笑顔を満開に咲かせては夜闇を背景に愛おしい雰囲気全開の酒瓶たちを手にとっては伏した目で撫でながら床に置く。幾度かそうしている内に決めたのだろう。雪が融け残ったように白く柔らかな澱が底に積もった緑のビンを、にごり酒を手に取りキヌは窓を開け放って滑り抜けるように消えて行った。
「あんまし気持ち悪い動きしないで頂きたいね」
残されたのは天音と静寂のふたつだけ。観客など床に立てられた酒瓶たちのみで天音の声はあまりにも空しく響いては室内を冷やすことさえなくただ空しさを引き立て強めるのみだった。
☆
一週間が経過して、水穂は無事に退院した。それはきっと本人にとってはあまりにも不幸なことだろう。この世の大きな不幸を避けるためにまだ受け入れられる不幸を望むという思考はもはやなにも思わずにはいられない、目も当てられない、しかしその感情を直接言葉に表すことも出来ない程に痛々しいものだった。
退院の間際に水穂は天音と握手をして再び窓を見つめていた。
「また会えたらいいね」
そんな言葉を受け取って誇らしいのだろうか、天音は優しい笑顔を明るさ全開で浮かべながら水穂の黒い髪に覆われた小さな頭を見つめる。
「ああ、大丈夫。出来る限り毎日あの可愛らしいお姉さんと走ってるから八時くらいにタヌキ地蔵のとこにいりゃいつでも会えるさ」
初めて出会った日のことを思い返す。あの日も晴香と走り込んでいる時のことだった。近頃は晴香の都合で八時頃の始まりで少し時間が遅く感じられ、怪異の類いも視えてしまうふたりにとっては視界が騒がしく感じられたものの、それでもこの習慣を途切れさせるつもりは毛頭なかった。
そんな意思から感情を取り除いて水穂に伝えた天音はその手に握りしめている紙に目を通す。握手を交わしたその時に手と手の温もりを伝って渡されたそれには水穂の文字と思しき美しい線で住所が書かれていた。
「アタシよりよっぽど立派なものだねえ」
文字を見る限り水穂は性格に濁りは見えない。こんなにも純粋な幼子が裏に抱えているものは重々しくて思わず出てきてしまいそうになるため息を無理やり抑え込むほどだった。
そうした重さの表れが握手の際に紙を渡したという事実だろう。
そうして彼女が窓を眺めている内に父が迎えに来て水穂の手を引いて退院の手続きを始めた。
そんな姿を目にして天音は奥歯を思い切り感情のままに噛み締めていた。日頃の行ないを隠すように堂々としたあの姿勢が許せない。幼い子どもに向けて、それも血の繋がった娘を平気で殴りつけているというあの男の神経が理解できなかった。
やがて時は感情を溶かして平常というものを見せてくれたその日の夜。
唐突にその時はやってきた。
部屋では男が白目を剥きながら拳を振り上げて、娘の方を見ているのかいないのかそれすらも理解できない。周囲を見渡しても見通すことが出来ない、そんな暗闇の中で男は娘の方へと向かって一歩踏み出した。荒々しさを示しているはずの挙動に対してあまりにもしっかりと伸びた背筋、拳に身体を少し引っ張られているようにも見える身体、生のひとつも感じさせない足の踏み込み方、まるで糸に引かれて操られているようであまりにも気味が悪い。
人としての味気も感じさせないその動きに震えながらキヌは慌てて男を止めに入る。家という境界線、何者たりとも侵入は許さない、そんな意志を感じさせるもの、外と内は区切られてそう簡単に入ることは出来ない、人々はそう思っている、そうした幻想が現実へと変わり果てる。今回の脅威もそう思って油断していたことだろう。しかしながらそんな話は今回は通じない。
誰でもいいから助けが欲しい、そう強く念じる幼子が何者の侵入でも許してしまう。開け放した窓、そんな想像を浮かべながらキヌは閉じられた窓をすり抜けて上がり込む。
「どうみたって幽霊案件じゃない、祓い残し」
キヌは札を取り出して目を閉じて念じながら意志が無いように見える男に放つ。男に向かって飛んでいく札はしかし空中に留まっていつまでもその場に在り続ける。
「水穂ちゃん、天音呼んで」
キヌの声には焦りが滲んでいた。少し荒々しい声ではあったものの、不思議と感情の棘は一欠片たりとも見せない。
そんな声がしっかりと伝わったのだろう。頭の中へと沁み入って理解へと変換されたのだろう。
水穂は慌てて駆けて受話器を手に取ったものの、固まったかのように立ち止まる。はたしてあの女が頼りになるものだろうか、退魔師などという人物が本当に信用に足りる人物なのだろうか。怪しさ全開の職業だったものの、今の状況こそおかしなこと。
心にそう刻み付けてボタンを押し始めた。慣れないそれだったものの、押してしまえば恐ろしい程に簡単なことで。
すぐさま呼び出し音が受話器越しに届けられる。出てくれるだろうか、走り込みの途中ではないだろうか、いつどのような生活をしているのか分からない。配慮が出来ない相手。
四度ほど鳴り響いただろうか、機械的に繰り返される無機を感じさせる音はプツリと切れて女が電話に出た。
「もしもし、こちら退魔師雨空 天音です」
「あ、天音さん」
慌ては声を上ずらせて上手い言葉を引き出してはくれない。恐ろしさに身を震わせながらよく分からない女が父を止めに入ったことと天音を呼ぶように伝えられたことを話す。
あまりにも落ち着いた声による返答が耳越しに水穂の恐怖に冷め切った心を温めてくれた。
「安心しな、キヌはアタシがよこした味方さ。今行くから待ってな」
そうして恐ろしい程に素早く電話は切られ、水穂の目は父の方へと向けられた。女が必死になって止めているという状態はあまりにも見苦しかった。自分よりも背の高い相手のうでを押さえることでやっとと言ったところ。明らかに正気を失っている父。水穂の身体は動くことが出来ない。暴力や凄みに押し込まれて行動が抑え込まれてしまっていた。暗闇に佇む姿は幼いひとりの子どもそのもの。脅威の混ざった闇は力なき子のひとりを震え上がらせるには充分すぎた。
それからというもの、時間の流れはあまりにも遅く、身内という存在はこの狭い部屋の中であまりにも恐ろしくこの世の者とは思えない雰囲気と挙動の違和感で空気を震わせていた。立ちすくんで動かない、震えは立ち上がることさえ困難に感じられるほどに足を揺らしては心の地盤の弱さを思い知らせていた。
そんな中、全ての雰囲気を打ち破るインターホンが響き渡った。
それでも足が震えて、地面が揺れる錯覚に、頭のふらつきに負けて動くことも叶わない。キヌはそんな水穂の姿を端目に告げた。
「行きなさい、この男は私が止めてるから」
言葉にされた優しさは水穂にまでしっかりと流れ込んでは来た。しかしそれだけでは目の前の恐怖の大きさにすり潰されてしまう。動くことも叶わない。
「あなたが助かるため、それだけじゃないわ」
男はキヌの腕を振りほどき、床にたたき落とす。それから躊躇いのひとつも無しに、言葉も吹き出すことなく歩み寄ろうとしていた。
そんな容赦も感情も引き出すことのない男の右足を掴んでキヌは続きで水穂を打つ。
「お父さんを救わなきゃ、もう暴力なんて振るわなくていいように」
そうした言葉がどれだけ幼子の足を支える杖として立派なものだっただろう。水穂は眼の色を変えて走り出した。揺れる闇、追いかけようとしても地に引っ張られるように動けない。
水穂が小さな足で踏み出した狭い一歩は不規則なリズムを踏んでようやくドアの前にたどり着いた。
鍵を開けてドアノブに手を伸ばす。その先で待っていた女は相変わらず闇の中で目立つ白い和服を着ていて、しかしながら少し汚れて見えた。
「天音さん」
力なく震える声に答えて天音は水穂の肩に手を置いて上がり込む。
「大丈夫、アタシが来たからには。全部終わらせるから」
上がり込んでゆっくりと歩み寄る。糸を引かれたようにぎこちない断ち方をする男の姿を目にしてニヤけながら扇子を広げる。
「アンタ、霊につかれてるだけじゃあないみたいね」
袖をはためかせながら扇子を扇ぐように振り、扇子というひとつの世界に収まる空を広げてみせた。
「そうかいそうかい、自殺者の霊、自分語りでもしてみな」
この女は霊と直接話すことでもできるのだろうか。霊はそのまま口を広げては内に封じられていた言葉を雪崩に変えていった。
「ああ、ああ、あああ、どうして。後輩の指導をしていただけなのに」
今回の現象に開かれた口。全ては一瞬にして繋がった。
「それはアンタが悪い。教育ってのはさ、人の一生をも左右するものなのさ」
単純には終わることが出来ない、そんな簡単に分かることも現場の中では簡単には理解できないのだろうか。
「人さまの一生を台無しにしておいて自分は死んで可哀想でしょだなんて」
大きく息を吸い、睨みつける。その顔に宿る瞳、そこに輝きは何ひとつ残されていなかった。
「ホントウニカワイソウナヒト」
声から滲み出る感情はあまりにも分かりやすい。可哀想などと思うよりも軽蔑を込めているという印象の強い言葉。男に憑りついた霊の身勝手気ままなこと、そんな愚かさを横薙ぎにするように否定していた。
☆
そうして霊は祓われた。一瞬で終わり、残された青の残像は未だに水穂の中できらめいていた。キラキラとした心情は晴れやかな暗闇に輝く星々のようだった。
幾度となく頭を下げる男に対して間を開けることもなく金を受け取っていた。躊躇いのひとつも見られない姿勢にキヌは大きなため息をつきながらも帰った先で待っているにごり酒に待ち遠しさを得ていた。欲を躍らせながら家を後にするキヌに向けて水穂は朗らかな笑顔を浮かべ、手を振っていた。
キヌもまた振り返す。
そんな微笑ましいやり取りの向こう側で天音は男に向けて真剣な眼差しを送り込んでいた。
「いいかい、アンタが憑りつかれたのにはアンタ自身の弱さがあるわけさ」
男は申し訳なさそうに頭に手を置いて短い髪の密集した頭を掻いては腰を曲げる。
「暴力で解決したい、キレれば済む、そんな考え改めな。水穂ちゃんのためにも」
言いたいことは全て言い終えたのだろう。そこからただ真っ直ぐを見つめたまま出て行く。
天音が祓ったこの怪異、怪奇なことこの上ない現象の始まりから仕舞いまでの全てを向かいのアパートの窓から見つめていた者がいた。若い男、まだ高校生くらいだろうか。既に梅雨明けにもなるこの時期であるにもかかわらず桑色の半纏を身に着けた少年。鍵がかかっているはずの空き部屋にいかにして忍び込んだものだろうか。
この事態の収束を目の当たりにしてただため息をついては首をゆっくりと左右に振っていた。
「今回も呼び出すには足りなかったか、霧葉」
言葉のひとつ、ただそれだけを残して少年は部屋を後にした。
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