第2話 彼女

 階段を上る。一段一段上って行く。何年目だろうか。初めて来た時は高校二年生の頃だっただろうか。あの頃と比べて、これまでの人生のなかで幾度となく上ったこの階段を進む足取りはこれまでで最も軽く感じられた。

 階段の先、ボロボロのアパートの一室にある退魔師が住んでいる。ここ一週間ほどは仕事で家を空けることが多かったものの、普段は家にいることが多い。川海 晴香にとっての心の支え、そんな天音と初めて出会った時のことを思い返した。



 階段を踏み、更に上の段へと踏み出す。あまりにも重い足取り、高校指定のブレザーを着て後ろ髪を紫色のリボンでひとつに纏めた少女は肉付きの良い身体を上へ上へと運んでいた。

 太陽は傾き辺りは茜色に染め上げられていた。こうした光景に心を打たれ思い思いに染み渡る情を無言という形で語る者や目を輝かせる者もいたであろう。晴香も以前はそう言った人々の一員だった。

「来る、時間が来る」

 晴香は空を見上げて茜色に、黄昏時に恐怖を覚えていた。

 普段ならばとっくに却ってしまっている時間。しかし先月から毎日のように肩こりに悩まされていた。霊的なものだと気が付いてはいたものの、母に相談しようにも霊がどうこうと語ったところで勉強のストレスやいじめられておかしくなったなどと疑われてしまうだろう。微量であれども霊感があるのは家族の中でも晴香ひとりだった。

 故にその時は肩こりとだけ伝え、母からのマッサージやショッピングモールの休憩スペースに置かれているマッサージチェアの力に頼ってみたものの、軽くなるのは少しだけ。

 本質的には何ひとつ改善はされなかった。

 どうしてもどう足掻いても良くならない肩こり、それだけならばわざわざそこら一帯にくもの巣が張り巡らされたアパートに足を運ぶことはなかっただろう。

 黄昏時、今がその時間、そろそろ現れるかどうか。夕暮れの空の影、さらに言えば太陽が沈み切った後の暗闇の中から常に視線を感じていた。背中に張り付いた生々しい肉感とひんやりとした感触は絶妙に悪寒を呼び起こす。そんな生々しさは首に纏わりついて肩こりを更に重々しいものへと変えて行った。

 そんな霊の気配に湿り気と粘り気を纏った恐怖感を覚えずにはいられなかった。

 日差しの明るみが失われることによって現れる恐怖は計り知れず底も果ても見えないまま。

 クラスメイトの男子、霊感が強いらしい男子の手から晴香の手へと渡されたメモ用紙を見つめながら階段を、重い足取りを進めていく。

 あの男子はどれだけ退魔師の世話になったのだろうか。話によれば中学時代からの友人に巻き込まれて心霊スポットに足を運ぶ度に持ち帰っては世話になっているそうだ。

 晴香はあの男子の顔を思い浮かべる。優しそうな顔立ちは穏やかな印象を辺りに撒いていて、とてもではないが心霊スポットを巡るような人物には見えなかった。

 隅に埃の溜まったアパート、所々が欠けた階段、風雨によって削られひびの入った壁、そこから生えているものは苔と呼ぶのがいいのかカビと呼ぶのが相応しいのだろうか。

 管理が全く行き届いていないその建物に漂う空気は妙に湿っていて晴香は疑う。

 退魔師の住まいというよりは幽霊屋敷と呼んだ方が違和感のないありさまだったのだから。

 階段に積もった砂と靴が触れて擦れる度に不快な調べを奏でる。

 ようやく階段を上り切った晴香はもう一息だと自分に言い聞かせ、結っている髪のまとめ役を果たしている紫色のリボンに触れ、勇気をもらった。

 紫色のリボンは祖母が昔くれたもの。入院して弱り果てていたあの時、晴香は高校受験の勉強に励んでいただろうか。

 もっと会っていればよかった。後悔はいつの日にまでも響いていた。

 数少ない見舞いの度に祖母は笑顔を向けてくれていた。痛いだろうに苦しいだろうに、そう思っても口にすることなどとてもできない。晴香のことを想って笑顔を浮かべていたのだから。

 そんな祖母からもらった紫色のリボン、それはいつでも晴香に勇気を与えてくれる。

 借り物の勇気と一緒に歩いてたどり着いたそこ、特に変わったことなど見当たらない一室。

 呼び鈴を押す。

 どこでも似たような音、聞き慣れた音に耳を澄ましたそこでしっかりと聞き慣れない声を耳にした。

「ちょっと待ってな、片づけなければならないことが、おおっ」

 余裕のない声と共に焦りを感じさせる。そんな声がインターホンの向こうから流れてきた。

 果たして何をしているのだろう。幽霊とでも戦っているのだろうか。

 そうこうしているうちにも晴香の首に這う恐怖感が蔓延ってきた。生々しい視線と感触は浸透するように纏わりついていて、恐怖を絶え間なく運んで来る。そんな恐怖から逃れるように晴香はドアを開いて室内へと滑り込んだ。

 上がり込んだ先で目に映ったその光景に晴香は思わず目を見開いた。

 辺りに立てられた酒瓶はビル群のミニチュアを成し、転がった酒瓶やたばこの箱、テーブルの上にて暴れた後の祭りを想わせる具合いに散乱したスルメ。

「汚いよ」

 それは霊とでも悪戦苦闘した爪跡であろうか、否、明らかに天音の性格の表れだろう。

「こちらが雨空 天音さん、ですよね」

 その問いは、目の前の白くて安っぽい着物を纏った女の耳に無事に届いた。

「ああいかにも、ええそうとも」

 天音の細身の体を包むそれにはおはしょりすらないということ。自身の背丈に合わせて選んだものなのかはたまた幼いころからその身を包み続ける思い出という染料のみで色付けされたものなのだろうか。何ひとつ判断をつかせない。

 そんな視線に気が付いたのだろうか。天音は明るい茶髪を揺らしながら顔を軽く傾けて答えてみせる。

「この服が気になるかい、これはねえ、布屋さんに余り物を加工してもらったものさ」

 一から十まで他人頼りでおまけに金は出していないのだという。ケチの範囲の中心地を踏もうとしていた。

「素材はいいだろう、なかなか」

 安っぽさは軽いくたびれによる印象か、あるいは扱う者の性格の表れだろうか。

「それはそうとアンタ、名前は。アタシのことは名乗るまでもなくお分かりなのだろう、ここにいる時点で」

「はあ、川海 晴香です」

 戸惑いつつも答えたその名を耳にして、天音は妙に艶やかな唇をゆっくりと動かして、晴香の目を覗き込む。

「可愛らしい目だねえ、後綺麗なリボン、何が憑いていることやら」

 天音にはその正体はつかみ取ることが出来るのだろうか。晴香の頬に手を添えて、ふっくらとした頬の温度に手を馴染ませながら語る。

「アンタ、愛されてんだねえ、これはおばあちゃんか、まさか母などとは言うまい」

 訊ねる形ではあるものの、全て答えは天音の中で固まり切っていた。晴香の見ざる知らざるそんな世界。霊の声でも聴いているのだろうか。

「心配かい、確かに優しそうだものねえ、抱え込みすぎもいじめも不安なのは分かるとも」

 この会話の全てを聞き取ることが出来ない、それが悔しくてたまらなかった。聞き取れない感覚の先に、大好きなおばあちゃんがいるのかも知れないというのに、その視線すらも怖れて何ひとつ見てあげようとしなかった、そんな自分に嫌気が差していた。

「安心しな、この子はもう大人さ。んん、晴香の高校卒業まで生きていられなくてごめんなさいか。死のタイミングなんて選べたものではありゃしないからねえ」

 その会話の内容は、欠けたものは全て晴香の想像巡るセカイで補う他なかった。

「えっ、挙式に参列できなくてごめんなさいだって。待ちな、アンタさっきは高校の卒業式を見届けるまでは生きたかったって」

 そんな言葉を聞き届けて晴香は思わず軽い笑いと共に目の端に涙を浮かべた。

「晴香は晴香でどうしたんだい」

 晴香の白い指が涙を掬い上げ、鼻を啜りながらひねり出された言葉に天音はつい表情を緩めてしまった。

「間違いないよ、おばあちゃんだね。いつも話してる内に夢が大きくなって行って気が付いたら欲張りみたいになるの」

 涙に滲んでしまった声だったものの、それでもしっかりはっきりと伝わっていた。晴香の涙はあまりにも優しくて温もりが強くて。

「おばあちゃん、大丈夫、アンタの孫娘は優しいけどもそれ以上に強いよ。優しさを貫き通すための強さを持っているものさ」

 天音が扇子を取り出し開こうとしたその時のことだった。

「おばあちゃん」

 晴香が振り返りその目に輝かしい魂を焼き付けながら祖母の旅立ちを見送った。

 天音は扇子を仕舞いながら目を優しさに細め、薄くありながらも眩しい輝きをその目にして呟いた。

「アタシが祓うまでもなく離れて昇れるだなんて。おばあちゃんこそ、優しくて強かったのかもね」

 そうして天音と初めて会った日の除霊は終わりに結び付けられ完成を迎え入れた。



 晴香は呼び鈴を鳴らして立ち尽くす。思い返すその出来事は今でも夢のように感じられつつも現実の確かな感触を持ち合わせていた。

 あの日の夜をひとりで繋いで眠れないまま涙の流れ星を見つめ続けて迎えた朝はどこか空しくありながらもおばあちゃんと一度だけとはいえ顔を合わせたことを、本来許されない出会いを許してくれた天音に感謝していた。それからその日の夕方にスズメの死体を埋めて手を合わせた結果スズメの霊を持ち込んでしまったことへの罪悪感もまた強く刻み込まれていた。

 呼び鈴の響きは向こう側からの声をしっかりと呼び起こした。

「開いてるから入りな」

 きっと誰が来たのか想像が付いているのだろう。晴香は遠慮することなく家に上がってそのまま立ち尽くすばかりだった。

「またお酒増えてる。いつまでも片付かないんだけど」

 インターホンから聞こえて来た返事からして一度は立ち上がっているにもかかわらず、再びソファに寝転がったのだろうか。晴香が入ってきた時にはいつもだらしないありさまを見せつけていた。

「今日もランニング行くよ」

 その誘いは天音にとってどれだけ甘美な響きなのだろうか。すぐさま立ち上がって裏へと潜って着替えを手短に済ませ、ねこオバケの宇歌とじゃれ合う晴香の手を引いて外へと踏み出した。

 辺りは既に暗くなり始めていて、何も見通すことの出来ない大きな闇の手が空の端にまでたどり着こうかと言った具合い。太陽も睡眠の時間を迎えようとしているように見えて来る。

「このランニングも中々長く続いてるものよ」

 天音の言う通り、ランニングの習慣はもう半年以上、天音の仕事が夕方にまで及ばない日は、晴香が受ける講義が最後の時間にまで現れない日は毎日行われていた。

 その結果、高校生の頃はふくよかな晴香は、高校三年生の秋までに更に太り続けていたその身体は、目に見えて痩せていた。

「晴香も随分と痩せたものね、どんな晴香も可愛いだなんて妖術よりも強いじゃないか」

「大袈裟だよ」

 天音の称賛はあまりにも眩しく照り付けてきて晴香の心を騒がせる強い日差しとなる。走っているせいだけではない、あまりにも強い暑さは晴香の身体を更に細めて行きそうだった。

 天音の目に映るのはタヌキの地蔵。いつも通りの通り道の脇にいつでも堂々と居座っているそれは年季と寂しさを感じさせた。

「まだ霊的な気配を残していらっしゃる様子だね」

 かつては天音の方へと依頼人を運び込んだタヌキ地蔵、そこにはおびただしい程の人の思い出の残滓が残されていた。

「昔から子どもたちに愛されてたんだね」

 晴香の言葉を聞いているのか否か、天音は駆け続けていた足を止めて地蔵の方へと歩み寄って行く。

「もう夜だよ、早く帰んな。さもなきゃ怖いオバケがひと思いに人さまをバクッと丸飲みしてしまうよ」

 そう告げる天音の向こうに居座る者はあまりにも小さく力ない気配だった。

「帰りたくないよ、宿題やりたくない」

 そこにいるのは幾つの年を重ねたものだろう、幼子がタヌキ地蔵にしがみついていた。

「宿題かあ、アタシもやりたくなくてよくサボってたっけな」

 ここで賛同を連ねる天音の意思が晴香には理解できなかった。そんな晴香を置いてけぼりにしてただ話を進める。

「いいかい、確かに勉強なんかアホみたいにつまらないけども、しっかり勉強しなかったらアタシみたいに酒ばかり飲んでいつも金ないとかいう生きたまま物の怪と成り果ててしまうよ」

 天音の目に宿っているものは果たして如何なるものだろう。羨望なのだろうか後悔なのだろうかそれすらも枯れ果てた後の自堕落な生活だろうか。底辺のそのまた底辺を想わせる天音が見上げる先に広がるものは果たしてどのようなものだろう。

「妖怪金なしババアにはなりたくないよ」

「だろう、なら立派な大人になろう」

 そうした言葉を受けたものの、子どもは首を横に振る。否定の意を示すように、意見を横薙ぎにする鋭い動きだった。

「ムリだよ」

「どうしてか、諦めるにはまだまだ早いじゃないかい」

 しゃがみ込んで幼子の顔を見る。まだまだ世界の汚れのひとつも染み込んでいない純粋な顔立ちをした女の子だった。そんな彼女がどのような悩みを持っているのだというのだろう。心の浅瀬に触れてみた。その波の音は彼女の口によって奏でられる。

「お父さんが言うの。お前はあの女の娘だからどう頑張っても無駄だって。お母さん、そんなに悪い人だったのかな」

 そこから更に幼子が話したことによれば母は既に他界しており、この子はしばらくの間入退院を繰り返しているのだという。どこかが治ればまたどこかが悪くなっては病室に籠もる生活。今は病気が治ったばかりの平穏のはずが父から細かいことで怒られては心に黒くて粘り気のある想い水を溜め続ける日々なのだという。

「やれやれ、アタシが優待券もってるあの抹茶屋の店主の夫みたいな男はいないものかねえ」

 晴香も天音に引き連れられて行ったことのある和菓子屋のことだった。

「天音にとっては抹茶屋さんだったんだ。私には和風喫茶だったけど」

 ふたり揃って本来のものとは異なるものを見いだしていた。

 それから子どもに天音の電話番号を教えた上で「いつか助けになるから」といった綺麗なひと言を添えて帰らせ、ふたりはランニングの続きを繋ぎ始めた。

 いつも以上に立ち止まる時間が長く、おまけに休憩らしい安らぎなど一切得られない険しいひと時となった。

 そんな彼女たちの姿を見守る月と大空を舞うホタルを想わせる星の群れは暗闇と共に世界中に降り注いでいた。



  ☆



 いつ見ても変わり映えのしない景色、そこで紡がれる数々のドラマは時として心を弾ませてくれる。しかしながら時として退屈で、それでありながらも見ていられるほどの出来に収まっているもので。天音は現実というものが、人間模様というものが如何に不思議で複雑なものなのか思い切り思い知らされていた。

 そんな世界からも遮断された朝のこと。腕を伸ばし大きく口を開いてあくびをして、カーテンの隙間から差し込む日差しに目を細める。

 歩み寄ってカーテンを開いて迎え入れる陽射しに身体を慣らしながら昨日の子どものことを自然と思い浮かべる。あの表情があの声が頭にこびりついて離れない。天音の過去を想わせて、いつまでも消えてはくれない、消したいとも思えなかった。

 天音の両親も、あまり良いとは言えない道のりを歩んでいた。仲の良かったはずの家族、少なくとも天音の目にはそう映っていた。それが偽りだと知らされたのは弟が小学校に上がって少し経った頃。きっかけや如何なる争いが行なわれていたのかはよく覚えていなかった。ただ言えることは突然仲が悪くなったということ。父は酒に溺れて母と言葉を交わす度に嘆いていた。母もまた同じように争うものでもはや関係の修復、元通りの言葉など掲げることが出来なくなっていた。

 運命が変わる日、それが訪れるのは争いの日々の向こうに待つ遠い出来事などではなかった。

 仲が目に見える程、透けて見える程に悪化してから半年と待たずに離婚が成立した。お互い様だと互いに理解していたようで天音は母に、弟の味雲は父の手によって引き取られて離れ離れ。

 それ以降、母が施す教育の中に美人が嫌いだというモノが加えられた。様々な不満を述べてはいたものの、母にとっての夫が浮気をしていたのだろう。今ならそう考えの底に足が着いてしまうものだった。今となっては分かっているものの、恨みや薄暗い感情の込められた教育はどれだけしつこく頭にこびりついたものだろうか。天音は美人過ぎる女が見事に嫌いになってしまっていた。

 そうして二年ほどの時が経った後だろうか。きっと多少遠い程度の所に住む父、当時の天音には外の国にでも旅立ってしまったかのように遠く感じられるほどに遠くへと行ってしまった父が死したのだという。

 それから弟も加えられての生活が幕を開けたものの、天音も母も弟の扱いに困っていた。二年の旅立ち、それがここまで家族の距離を離してしまうなどいったい誰に予想が付けられたものだろうか。

 そんな少しだけ歪な家族関係。少しの歪みが大きなひび割れを引き起こしては救いようも救われようもない運命を描いていた。

 これはそんな女の今、二十八の年を重ねて今年で二十九という数字を身体に刻まれる女の今の状況。空っぽの酒瓶は倒れて転がり夕飯の代わりにしていたおつまみも残されたまま。イカの足が袋の向こうからその身を覗かせていた。

 どうしてこうなってしまったのだろう。離れた父にも血の繋がりはあるということだろうか、母のことがそこまで嫌いだったのだろうか。酒瓶を手に過ごす夜の姿、ソファに寝そべってはごろごろと睡眠時間を稼ぐ姿。まさに天音の父にそっくりだった。

 そんな天音だったものの、朝からアルコールに飲み込まれる趣味など持っていない。

 そんな天音を迎えた日差し、そこに陰鬱な想いの全てを溶かして今日もまた、幸福な人生しか歩んでいない道化を演じる。態度の変化こそが天音にとっての化粧と言って差し支えなかった。

「宇歌、ごはんの時間だよ」

 音もなく近付いて来るねこは尻尾を振って機嫌の良さを示していた。天音が差し出したお供え物のかつお節は宇歌の好みに合っているようで見るからに毛並みが嬉しさを奏でていた。

「あの娘さん、依頼出せるかねえ」

 幼い子どもの病気、それだけならばただ身体が弱いというひと言で片づけることが出来ただろう。しかしタヌキ地蔵の傍にいた事、それが心に引っ掛かったまま深く味を出していた。気がかりなことが魚の骨のように刺さったまま抜けてはくれない。

「料金取れないけどもあの子は放っておけないものな、と言えどただ働きだなんて」

 金など取れない相手、キヌではないがそれこそ落ち葉の一枚二枚で手を打たなければならない相手ではあった。

 深いため息を吐いた後、コンビニで買ったサラダにチキンを乗せて電子レンジで温めるだけで出来上がったどこかくたびれて見える白米と共に一気に平らげた。

 そんな天音を収める一室に呼び出しの音が流れてきた。天音を訪ねるものは何者かと内心で訊ねながらドアを開きに行く。タンスとのすれ違いざまにそこに置かれた時計の針の動きを確認して天音の願う者ではないことを確認した。晴香なら確実に今は電車の中ですし詰め状態の通学の道の真っただ中だった。

 ドアを開いて確認した顔、壁の一枚さえ隔たりの挟まらない空間の中、天音はドアを勢い良く閉めて隔たりを作り上げた。

「ちょっと待て、あなたに良い仕事を持ってきたの」

 ドアを幾度となく叩く。声も次第に荒くなりお隣様にはさぞ鬱陶しく感じられたことだろう。近所迷惑とお隣さん、そんな状態を解消すべく渋々ドアを開いて背の高い女に目を向けた。

「甘菜め、ここまで来て妖怪祓いに何か用かい、門前払い食らいたくなけりゃ即座に言ってのけな」

 目の前の女は不自然にすら見える程に膨らんだ胸を張って許された会話を始めた。

「依頼よ、メモに住所は書いてるからそこまで行って」

 言葉の端に繋がれた仕草、紙を手渡す指は短くありながらも綺麗で可愛らしい印象を与えた。

「こんなとこまで出向くだなんて、抹茶屋はいいのかい」

「和菓子屋ね」

「晴香は和風喫茶て言ってた」

「はあ何それふたり揃って」

 目の前の女は、神在月 甘菜はただでさえ大きくて目立つ目を更に大きく見開いていた。深い関わりの糸を紡いできた気でいた甘菜にとっては裏切られたような気分を味わうひと時。その苦みは濃茶の底に溜まった澱のような深緑。

「一応本業は和菓子屋なんだけど、かえるのて」

「本業隠しだろう、てのるえか」

「逆から読むほど昔の由緒正しき看板だから」

 天音のニヤつきに対して顔をしかめてこぶしを握り締める。そこに滲んだ汗が余裕のなさを語っていた。

「とにかくよ、あなたにちょうどいい依頼が入ったからこなしてちょうだい、料金は比較的高いから」

「アンタらの引き受ける依頼の数は人知れず。と言えどアタシなんかを頼るもの、どこの業界さ行ったとこで人手不足は深刻なものだねえ」

 天音のニヤけ面に嫌らしさが加えられ、この上なく不快なメロディを織り成し奏でる。無言でさえも嫌気が騒がしかった。

 そこから天音は無音を飾り付けては嫌悪感を差し出して甘菜の貌で作り上げる薄汚い感情の生け花を眺めては笑い、先が毛筆になっている漆塗りの万年筆のインクを確かめ和紙を想わせる擦れた手触りの表紙の手帳を手にして玄関の向こう側へと、大空の下へと足を踏み入れた。

 そんな彼女を迎え入れる太陽と澄み切った空の彩りは昨日と変わりはしない。天音のやる気はどこの部屋の隅に置いて来たものだろうか、押入れにでも仕舞っておいたものだろうか。その顔からは欠片ほどの気力さえ感じさせない。

 だらしなく丸められた背中を叩きながら大きな目を甘菜なりに細めて口をとがらせる。

「ほらほらちゃんと歩け。私に退魔師として見習いしてた頃はもっと背筋が伸びていてカッコよかったよ」

 甘菜の尖り切った声に対して思考よりも先に口が動き条件反射の言葉を放り始めた。

「十何年も経てば頑丈な板にも傷やへこみは出るってものさ」

 高校に入学してからすぐのこと。親と共にたまたま入った店、それこそがかえるのてだった。そこで甘菜は天音の何を見たのだろう。母が抹茶を飲み終えてトイレに向かうと共にコソリと天音を勧誘した。それこそが天音の退魔師としての第一歩だった。

「晴香だっけ、あの子と一緒に歩く時にもだらしない姿勢してるわけか」

「力を残してんのさ」

 言い訳とはぐらかしのふたつ。それだけで会話を成り立たせようとしている天音だった。

 昔と比べて随分と増えた建物の群れを横目に天音はニヤけ面を崩すことなく話題を、口の主導権を取り換えてみた。

「十何年か。なんてこと、嗚呼、甘菜の歳が恐ろしいことに」

「失礼にも程があるわ、三十半ば、夫も同じくよ」

 甘菜の様子を窺うに天音の退魔師としての能力は買っているようで、性格や言動はどこかに売り払うか綺麗な感情に買い替える際に下取りに出したいとでも思っていることだろう。しかしながら人というモノはそう簡単には変わることが出来ない。退魔師としての仕事の経験が、人とのふれあいの数々がそれを物語っていた。

 甘菜は眉をひそめながら天音が脳裏に思い描いていた通りの言葉を流してみせた。

「あなたの能力は認めてる。だから私たちのところで働く気は無いか」

 思っていた通りの言葉と表情。目の前の相手は見習いをしていた頃と特に変わりが見当たらない。癖は未だにそのままそこに在って、天音の中にふんわりとした懐かしさを呼び起こしては煙のように広がり続ける。

「無いね、悪いけどもアタシは彼女と過ごす大切な日々があるんでね」

 清々しい口調で断る様に澱みや濁りは一切見受けられなくて一直線な想いはいつ折れてしまうだろうかと冷や冷やさせられていた。

「退魔師なら、人に憑いたモノを祓うなら、もっと人のことを考えてみたらどうかしら。そんな考え方じゃいつかつまずいてそのまま折れてしまうわ」

「安心しな」

 言葉と同時に視線を病院へと逸らし、傾いた顔に合わせるように身体もまた病院へと向けられる。

「既に折れた身でしかありゃしないし、また折れたらここで診てもらうとするわ」

「そう意味じゃない」

 そんなやり取りを最後にふたりの言葉は切れて離れ離れ。きっとこれから天音は生活の為に働き続けることだろう。一般的な現実から半歩ズレた仕事であろうとも、社会的に偉いと言われようと底辺だと罵られようとも今の社会では金を前にしては頭を床に擦り付けることさえ躊躇わない。

 甘菜の身体は天音の歩みを見届けると共に後ろへと向き変り、日差しの中で隠すことも誤魔化すことも出来ない不気味な笑みを浮かべながら歩き出す。

 向かった先のスーパーマーケットでカゴを持ち照明にも負けない明るさを放つ男の方へと速足で寄り、笑顔を向けた。

「天音には会って来たのかな」

「ええ、残念だけどまた一緒に働くのはダメみたい」

 キャベツをカゴに入れながら男は甘菜に諭すように告げる。

「あまりズルいこと考えてたら信用失うぞ」

「仕方ないじゃない。今回の件で心折れたら私のとこで働いてくれるかしら」

 男は髪を掻きむしりながら力のひとつも込められないため息をついて鮮魚コーナーへと向かった。

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