退魔師『雨空 天音』の追想夢
焼魚圭
第1話 残シテ
空をも覆い隠してしまう森、そんな大自然のカーテンをも突き抜けて雨は降り続けていた。地面を打ち、溜まり続けて土と混ざり合ってはもやもやとした空気と混ざり合って最悪の心地を作り上げる。
そんな中、白くて安っぽい和服に身を包んだ明るくて薄い茶髪の女は木の影に混ざった影を視た。
「アンタを鎮めさえすればこの御仕事も御仕舞いってことかねえ」
影に隠れた存在は和服の女、雨空 天音が強めに出した言葉でぬかるんだ地面を揺らす度に震えるように揺らめき、ただしかいに映り続けるだけだった。
「姿を見せな、アタシは金払ってもらってんの。霊、アンタを祓わなきゃなんないワケ」
使命感にて動かされるだけの退魔師になびくことなどあるものだろうか。そこからただ木々に溶けるように消え入るという行動がその答えを示していた。
「今日も逃げられてしまいってことか……」
あくまで頼まれてやってきたにすぎないだけの人物によって遺された意識を譲り渡すほど正直な霊ではないということだろうか。
降り注ぐ雨の音と風に吹かれて擦れ合う葉の鳴らす音、自然が生み出した合奏はこの森の中に、木々すら見せない暗闇の中にただひとり残され立ち尽くす天音の虚しさをより強調していた。
☆
階段を上る。疲れた脚を引き摺りながら、泥を吸い込んで重くなった草履の重みは踏み出す一歩を不確かな者に変えていく。水を吸って重みを増して張り付く着物はさながら纏わりつくように憑りついた亡霊のよう。濡れた髪も重たくて頭を上げるのがしんどくて、おまけに顔に張り付いてきて天音の気分を更に沈める。
天音は雨が嫌いだった。背中に届くかどうか、その程度の長さの髪でさえ首を折るだけの重みになってしまう。上がらない頭は首を差し出しているよう。電灯によって作られた影を目にしては謝っているようにしか見えないその姿がこの上なく滑稽に映った。
やがて這いずるように歩く時間の終わりを告げるドアが見えて来る。
仕事を未だに達成できていないという事実がずぶ濡れの身体に重たくのしかかる。身体は冷え切っていてその手に生気が宿っているようには見えない。
重い気持ちを背負いながら、どんよりとした気持ちが上澄みで澱めく視界で、t彼に奪われた思考でただ帰ることだけを考えながらドアを開いた。
ただひとりを収める家、そこには生きていないモノが同居していた。
「ただいま、宇歌」
宇歌、そう呼ばれて寄って来るネコには後ろ足がなく、漂うように浮いていた。
天音が帰って来た事が嬉しいのだろうか。優しく鳴きながら天音の足元で蹲り、安らぎに感情を動かしては目を細めていた。
「アタシはシャワー浴びて来るからちょっと待ってな」
大きな欠伸をしながら前足で顔を掻く仕草はまさに生き物の動きだった。そんな姿を見つめては天音は疲れた顔に差し込む微笑みを見せずにはいられなかった。ペットが癒しだという話は数年前まで一切信じられなかったものの、実際には霊であれども飼ってみれば一気に意見は塗り替えられた。
宇歌に甘える為にも素早くシャワーを浴びて寝間着を纏って帯を結びながら酒を煽る。
こうして気分を変えて宇歌を抱き締めて眠ることが楽しみのひとつとなっていた。
「はあ、あの子は最近あまり来なくなったものだね」
十歳も年下の少女がいつも天音の家に上がってきては炊事や掃除といった世話をしてはだらしない天音のことを叱り付けながらも優しく接してくれていたものの、ここ一か月ほどは天音自身が家を空ける日々が続いていたこともあって会うことすらなくなり始めていた。
紫色のリボンのような恋心は、女同士の淡い恋の縁は消えてしまうのだろうか。
不安に駆られながら宇歌を抱き締めて眠れない夜を過ごし、やがて夜闇が青空に透けようとし始める。薄明の空は夜と朝のメロディーを織り交ぜて何処までも広がって行く。
眠気は強くあれどもそれを無表情で覆い隠す。思考は霧で覆われて、昨夜の森のように何も見通せない。
大あくびをしながら、ネコのような様を見せながら立ち上がりテーブルの上に置いてあるパンを頬張った。
「今日こそは除霊終わらせなきゃいけないね」
薄茶色の瞳に宿る意志は大きくなっていく。大きく息を吸い、拳を握り締め、気持ちを込めて外へと向かう。
天音の彼女は今、大学へと向かっているところだろうか。大学受験を終えてからひたすらそわそわしていたあの晴香の隣に座って落ち着かない空気を味わっていた時のこと、それから第一志望校に合格したのだということ。学校は異なるものの、天音の姪もまた第一志望校に合格したという幸せが溢れて止まらないあの時間のことを今でも忘れられないままでいた。三人並んで撮った写真、天音の肩にねこの姿をした幽霊が乗っかっていたが為に心霊写真となってしまったあの一枚は今でも天音の部屋のタンスのうえで輝いていた。
ボロボロのアパートを後にして既に見飽きた道を歩く。今受けている依頼は近所の森の除霊。そんな簡単で分かりやすいはずの仕事が一週間という時を経ても解決しなかった。
果たしてどのような特殊が待っていることだろう。この一週間の調査で霊の姿を目の端にて捉えることは数多くあれどもはっきりと見た事は一度もなかった。かくれんぼでもしていることだろうか。天音はその答えを自身に突き付けようとはしたものの、それならばとうの昔に除霊の完了にまで漕ぎ着けているだろう。霊の意志だけではここまで長い期間退魔師の目を眩ますことなど叶わない。
それが現実に起こっているということひとつで天音は大いに頭を悩ませて、それでも出勤という姿勢を取って依頼者の家へと足を運んだ。
そこで待っている人物、顔に刻まれる皺が増え始めてきたのは最近だろうか、そんな年齢を想わせる女の姿だった。
女は皮のたるんだ顔を揺らしながら天音を睨みつける。
「いつになったら祓えるの、たかだか霊ひとり祓うのに何日かけてるの。この詐欺師」
この女には想像も付かないのだろう。一瞬で見つけてお経を唱えて終わりなどと言う今どきテレビなどでも見かけないような光景を現実のものだと、それは間違いではないとは言えども全ての霊がそのような対策で終わるなどと思っていることだろう。
「よろしいかい、奥さん。アタシは確かに格安で依頼を引き受けたさ。それで今この有り様、疑われても仕方ないと言えばそれはそうかも分かりゃしない」
疑う疑わない、これはもはや向こうの都合に過ぎない。少なくとも相手は霊のことなど死人の魂が意志もなく残っていると思っているだけの素人だった。
「それでもアタシは手抜きなんかしない、お分かりか」
言葉はきっとうまく通じないものだろう。どれだけ上手に言葉を振り絞ろうともどれだけ親身になって寄り添おうとしても、依頼者本人が中途半端な想いだけしか持って来なくて話も聞くつもりがない、などという状態。当然真面目な態度を取って見せても手際のよい仕事ぶりを発揮したとしても彼女はなにひとつ評価を下さないことだろう。
すぐに終わって当たり前。目の前で年季を見せつける女はその程度にしか思っていないのだから。
今この状況を打破するために取れることなど何があるだろう。ただ単純にいつもの業務を遂行してみせるだけのことだった。
「ところで如何な症状でお悩みで」
女は手に腰を当てて顔のしわを更に深く刻み込んでは天音に特技のトゲを投げつけた。
「入って最初に分からないものなの、その程度なのねあなたは」
「そんなこと出来るなら今頃整体師でも精神科医でもなってりゃ大儲けってものさ。少なくともアンタと出会うことすらなかっただろうね」
性格が悪い。天音の喉から飛び出てしまいそうになった言葉を押し込めて無理やり笑顔の蓋を落とす。
女は落胆をため息に変えながら渋々話してみせた。
「期待外れだけど、これもまたケチったからでしょうね、仕方ない話す」
諦めが顔に出ていた。そう、分かりやすいほど鮮明に露わになっていた。
「私、一か月以上前のことが何ひとつ思い出せない。初めは買い物メモを置いた場所が思い出せないとかそんなことで些細な事、ボケでも始まったのかと思った」
天音は頷きながら手帳に女が語ることを書き留めていた。
「大事じゃないことは忘れる頻度が増えて、大事だと思ってたことは忘れた事すら中々気付かないの。分かるよね。息子の顔も思い出せないの、おかしいよね」
愛情を込めて育ててきた息子の顔も思い出すことが出来なくなってしまった。妙な話だった。
「それ、ただの霊じゃないかも分からないね」
これまでの人生の道のりの全てが消え去っている。それがどれだけ悲しいことなのか、天音は想像を巡らせた。
それは立場を置き換えただけの例え話、天音が同じ症状に罹ったとして。愛する相手、十歳も下の少女と築き上げてきた思い出が何ひとつ残されない。残滓のひとつさえ思い出にならなくて。昨日まで思い出せた笑顔がいつの間にか思い出せなくなって同じ形の最近の笑顔しか出て来なくて。
「そいつはあまりにも悲しい」
悲しみに暮れ果ててしまいそうな現象。思い出の枯れ果てが今目の前に立つ人物の身に降りかかっているということ。現実離れした出来事に対するなけなしの理解を日差しに透かしてみては朝の道路に残された雨上がりの水たまりの中に溶かしてみせる。水たまりが映す景色は人の身も心も到底追いつけないような澄んだ空の色をしていた。
「それが分かれば少しは助かる。妖怪の用になっておられるわけでもないのだろう」
突如天音の記憶に刻まれた痛みが胸に刺し込みながら巻き付いた。触れてはならない記憶は茨であろうか有刺鉄線であろうか。忘れてしまいたい、そんな衝動に駆られながらも痛みの記憶を叩きつけながら前を向き話を紡ぎ続ける。
「何か、昔埋めたとか収納に眠ってるなんてありゃしないか」
訊ねてはみたものの、女は皮を大きく揺らしながら顔を振るだけ。
「一か月前のことさえ思い出せないのなら致し方ないか」
手がかりを持つ本人の記憶から消えているのなら、他の手段を取る他なかった。
本人ですら分からない、誰も覚えていない、そんな記憶の中に鎖されたきっかけというものを、闇に包まれたこの現象の始まりを探すために天音は何度目かの森へと歩き始めた。
小学校と隣接した森、迷いを訴えたところで歩き続けることさえできれば簡単に出口を見つけることの出来る森。そこを歩き、霊の存在を確かめようとする。視界を塞ぐ程に、空を覆う不安定な天井となった木々が景色の薄暗さを演出してみせていた。
「これは迷っても致し方ないものだねえ」
歩いている内に方向感覚が乱されて行く。もはや目で追うことも叶わない。土の踏み心地の良さは、足を踏み出す度に少しだけめり込むが為に形作られる演出。歩きにくさが距離の稼ぎを悪くして、それがまた体感と現実を切り離して迷いの原因へと育って人知れず立ちはだかって来る。
どれだけ歩き続けたものだろうか。やがて天音は無機的な交差を、金網のフェンスの壁を見て、気分を落としてしまった。
「迷った」
その安全性は、まさにその先が小学校であることを語っていた。
天音が欲しかった手がかりは、目的としていた地点はこのような場所ではなかった。昨夜みた幽霊はどこに立っていただろうか。歩いても歩いても変わり映えのない景色、元々どこを歩いていたのかも覚えていないその場所。見つけるのはあまりにも困難で、実際たどり着く気配のひとつもなかった。
「どうしたものかねえ」
フェンスを伝って森の外へと出て、顎に手を当てて学校を見つめ、視線を森の方へと移す。果たして、どのように動けば手がかりが見つかるものだろうか。
首を捻りながらある場所へと向かった。
☆
積み上げられた資料を整頓し、パソコンに情報を正確に打ち込んで行く。間違いを起こしてはならない、この仕事は頭から尻尾まで全ての従業員に大きな責任が降りかかって来る。格安の賃金で責任だけが立派であまりにも大きすぎるやりがいは会社を潰すことはなくとも人を潰してしまう。
「はあ、妖怪の私がこんな事するなんて……現代っておかしくないかな」
椅子に座りパソコンと向き合うこと三時間、ついにその女は大きく伸びをして途切れた集中力を再び研ぎ澄ませようとしては擦り切れた神経を戻すには食べ物か豪快な休憩が必要だと悟り、それでも取ることの出来ない休憩時間を欲しがりつつ、低下した意欲を無理やり振るって姿勢だけを取り繕ってのろのろと打ち込みを続ける。
それからしばらく経っただろうか。ようやく休憩時間が訪れた。妖怪、化けダヌキの場岳 キヌは人間社会に紛れるということの愚かさを内心嘆きながらも仲間と外へ食べに行く時間を大切に想っていた。
「そういえばたまにようかいって聞こえるけど何あれ」
ひとりの女が質問を投げかけた。全員がスーツ姿でキヌもまた、スーツを纏っていた。妖怪としての姿をさらしてしまわないよう、前髪には葉っぱの形をしたヘアピンを着けて変身している。
物の怪の世について行けないまま人の世を漂ってどうにか生きているという様。ギリギリで生きていて頼る相手のひとりもいない以上は人の世では波風立てるわけには行かなかった。
そんな心境を抱えながらオフィスビルを後にする。今日の昼食はどのようなものだろう。それを想うだけで毎日が楽しみで仕方がなかった。それだけがキヌが人の世に縋りたいと思える理由だった。それさえ失ってしまったなら命の行き場など何処にも残らない。
そんな想いを背負いながら歩いていたところに白い着物の女が立っているのを目にした。
「みなさん休憩時間ですか」
「なにが『ですか』よ、この猫かぶり」
キヌのひと言によって周囲はあの白い着物を身に着けた女がキヌの知り合いなのだとしっかりと把握した。天音の言葉は続けられる。
「そこのキヌよ、私にネコの手をお貸しいただけませんでしょうか。この猫かぶりのアタシに」
その発言、一言一句を聞き届けてはキヌの表情は困惑の笑み一色に染め上げられていった。
「猫かぶりって認めるのね」
にゃん、などと言ってみせるおどけた態度の裏にどのような困りごとが隠されているものだろうか。
「仕事終わったらね、夕方六時ごろ」
「そこはアフターファイブとやらじゃあないのかい」
終業は五時半、という。
終わってすぐに向かうという約束を取り付けてしまった末の想いの尾に申し訳なさが噛み付いた。キヌに自由などない、そんな度を越えた虐めのような有り様が認められるはずもない、出来る限りのことは今の内にしておこう、心にそう記してみせた。
そこから天音はひとり歩き出す。ある場所へ、依頼人の住まう家へと向かって歩み続ける。
呼び鈴を鳴らし、出て来たその顔は何日連続で見たものだろうか。
「今度は何、役立たず」
「記憶喪失のこと、年齢からいらっしゃるものだったことにしてさ。今から昔のクラスメイトにでも会ってみないかい」
そう。今この状況で出す提案は誰かに過去のことや何か悩み事があるのかどうかを知る事。もう五十は重ねたであろうその身体と頭でなら誤魔化しがきく言い訳があった。
「ほう、面白い人じゃん、自分が恥かいたからって今度は人にまで恥かかせようって言うんだ。サイアク」
この女の姿勢は協力からは程遠く、向けられる感情は鉛を想わせる。天音の心に括りつけられた重りは地面と常に擦れていて不快な響きを奏でていた。
「何言ってんだい、悩みがあるから依頼を出しておいでだったのだろう。救われたかったのだろう」
そう、その始まりの感情は間違いなどなかったはず。それが無ければ明確な現象と依頼が共について回るはずもなかった。今の女にあるものは落胆だろうか。それでも天音は大きく息を吸って続きの言葉をひねり出した。
「アンタは内心困ってるはず。大事なことも思い出せずに悩んでるはず。だのに、どうして足の引っ張り合いなんかなさってんだか、聞かせな」
あまりにもタチの悪い客を演じる姿はお客様は神様を自ら主張する禍神のごとし。女はその態度を手放すことなく未だに振り回していた。
「うるさい、こういうのは一瞬で全てが分かって当然。あなたはそれが出来ない素人でしょ、霊祓ってよ、金返せよ」
いつまでも幻想に憑りつかれている女相手に天音は従う他なかった。このままでは解決すら出来ないのだから。
「分かりました、返金いたしますね。その代わり協力願う」
そう述べて財布を取り出しては払ってもらえた金を返し、それでもまだ依頼は続けるといった様だった。違和感を覚えつつも、困っているのは目の前で不機嫌のあまり貌を歪めているこの人物なのではと心で問いつつも天音の中では早く終わらせたいと願う感情が強まっていた。
「いいねいいね、太っ腹。で、何手伝って欲しいの」
天音を家に上げながら女は訊ねる。これまでにない程に醜く聞こえてしまう声に耳を塞ぎたくなるまでの嫌悪を抱きながらも抑えて隠して笑顔という名の化粧を塗り付ける。そんな天音の眼にはガラスの花瓶にささった一輪の立派な白い百合の姿が焼き付けられた。
「百合、好きなのかい」
「ええ、なんでかな、大切なもののような気がして、でも見れば見るほど悲しくもなって」
個人的な話、そこにはもう触れまいと心に誓って話を進める。そこに無駄な感情など書き加える余地もなかった。
「まずは身近な人との連絡、続いて卒業アルバムさ、高校から洗い出そうか。当時クラスメイトの女子は」
もはや当時仲の良かった人物すら思い出せない専業主婦だというのなら、知り合いすら高校時代の同級生なのだという可能性もあった。天音は思い直す。遡りは中学からでいいのではないだろうか。
そこから身近な人との連絡を取り、女は軽い会話だけで済ませて電話を切り、次の人へとかけ続ける。
「何か、大きな出来事でもないものかねえ」
小学校と隣り合わせの山で不思議な現象が姿を現した。最も怪しいものは小学校か、比較的最近の出来事。もしかするとカギとなる時代の特定は不可能かもしれない。案外なにも関係ないところに答えが撒かれているかも知れない。そう思うだけで気が遠くなってしまいそうなものだった。
予定を変更して小学生時代の同級生からかけさせよう、そう心に決めていた。
「小学校の裏の山で関係すると思しき霊を見かけたものさ、もしやして、なんて言って小学と山の関係でも訊いてみてくれないか」
今更天音の頼みを断ることなど出来ようか。女は電話で訊ね、頷いて、はい、などと決まった返事を幾度となく繰り返しては相手の言葉を引き出し続けてお礼の言葉を締めに、受話器を共に置いて天音に向けて大袈裟で嫌らしい笑みを向けて見せた。
「タイムカプセルだそうよ」
六十になったら、それだけの人生を、歳の数を重ねたら、そう言われて何かを埋めたのだという。天音には到底理解できなかった。
「住所や電話番号の載った卒業アルバムだの大き過ぎる目標を立てて埋めるタイムカプセルだの、アタシの世代では分かりゃしないね」
「いや、タイムカプセルは多分この学校が特別じゃないかしら」
記憶はなくとも感覚が覚えていた。そこに記された過去、きっとタイムカプセルの話で他校の出身者はことごとく驚きを声にしたことだろう。天音の表情を見ただけでどこか懐かしくありながらも常に人生と共にあった響きを全身で感じていた。
タイムカプセルのことが分かったのなら、後はどこに埋めたものか。それを特定しなければならない。天音には想像が付いた。きっと数年に一度は埋めているものだろう。六年に一度であれば誰も被ることなく埋められるだろうか、それともある程度の学年だけで三年から四年に一度などと言って見せるものだろうか。
「キヌのやつでも嗅ぎ分けられるか分かりやしないねえ」
「えっ、キヌって」
「助手、霊の嗅ぎ分けはアタシ以上だけども今回ばかりはねえ」
様々な想いが埋められている。例えば五年に一度掘り起こすとして女の年齢は今五十二歳。ここに至るまで多数の年齢層が埋めているということになる。十か所から少なくても九か所といったところだろうか。
「途方もないねとほほ」
ダジャレなど言っている場合ではない、理解はしていても言わずにはいられない。天音には怠惰な根を持ちながらも妖気に打ち勝つために陽気を纏うという癖が根付いていた。良くないと分かりながらもやめられない程に色濃く固まって住み着いてしまっていた。
「構いやしない、どうせがっこは勉強以外何も教えてくれやしないのさ」
学校には出来る限り頼ろうとしない。この程度の理由ではあまりにも弱すぎる。貧弱という言葉があまりにも綺麗に当てはまってしまう。
「はて、誰に頼ろうものか」
かつて教わる者として椅子に座っていた人物には決して分かったものではないだろう。ともなれば教員に訊ねる他なかった。
「はあ、公がどうとかおっしゃるんじゃあないだろうね」
そう言いながらもまずはこの女と同じ教室で過ごしていた人物との電話の繋がりを試みる。
「はい、ええ、その番号におかけすればよろしいのですね」
この時点で天音が予想していた事態に直面していた。そう、実家にいるとは限らないこと。かける度に別の番号へと案内されてかけ直す。その行動ひとつで時間を多大に過去のものへと変えてしまうことを恐れていた。特に今とは異なって結婚こそが人生の幸せの象徴であり同時に夫婦そろって墓場に片足を突っ込むようなもの。避けることなど当時を生きた若者には選ぶことの出来ないものだっただろう。
女は教えてもらった番号に繋いで会話を試みた。呼び出し音が一度、二度、三度と響いているのだろう。待っている様子を窺うことができた。
やがて出て来たと思しき相手に挨拶を交わして記憶が弱ってしまっているということを伝えながら、かつて同じ部屋で同じ授業を受け続けた仲間との会話を続けていた。
「年取ってボケてきたからか最近覚えが悪いの、一か月前のことも全然思い出せなくて」
そこから妙な空白が流れた。何も進まない、虚無の時間。そんな空白の空間には乾いた表情があった。
そんな妙な表情は一瞬を何秒にも感じさせてくれる。時間というものを覚えさせておきながら忘れさせる。妙な空気感だった。
そこから一瞬の後に再びその口は開かれた。
「そうそうもう小学校のことなんて全然。でさ、昔タイムカプセル埋めたよね」
明らかなこと、その疑問に対しては当然の言葉が返って来るものだとふたりとも思い込んでいた。
「ええ、んん、そうなのね、そんなことが」
それから軽い会話が紡がれ続けてやがて電話は切られた。
「どうやら進展はあったようだねえ」
女はしっかりと目を輝かせて答える。その目はこれまでと比べてどこか若々しく感じられた。
「もちろん、おかげでいいことが分かったんだもの。同級生の男の子たちがタイムカプセルを埋めようと運んでいる先生たちの後をつけたそう」
そこから受話器を再び手に取って数字の並んだボタンを押し、かけて見せた。
「はい、もしもし」
きっとそんな言葉で会話の始まりが示されたものだろう。やがて女の姿勢は前のめりに、心の行き先を示していた、心の在り方を体現していた。
「そうですか、そうなのですか」
紡がれ続ける会話の中に、女の意を示す言葉は殆ど含まれていなかった。相づちを打ち続けるだけ、言葉のキャッチボールというよりは一方的に話されている。年老いた男が顔を見せることなく熱く語り続けている様子が容易に見て取れた。
「はい、おぼえてるのですね」
天音の中で期待は高まり続けた。この上なく明るい湯気となって昇り続けて目頭に熱を込めながらうろついて落ち着きを与えてなどくれない。
「ええ、はい。はいわかりました」
通話など終わらせてしまいたい、そんな感情が顔の表面を這うように、肌に吸い付くように流れていた。その眼から呆れの情が現れては引っ込んでいた。
見え隠れする想いなど電話越しでは見えるはずもなくただただ長々と語っている声が、熱のこもった言葉が意味を伝えずに音だけを天音の耳にまで運んで来る、響き続けては男が楽しそうに話しているという事実だけを伝える。
天音の中に生まれた呆れは大きくなり続け、身体の中に収め切れずにため息に変わってはみ出ては退屈という感想を生み出していた。
この状況の中で天音が女を救う方法などあまりにも単純。天音は大きく息を吸っていつもより少しばかり大きな言の葉を扇いだ。
「お母さん、そろそろお買い物行くよ、このままじゃ晩ごはん作り始めまでに日が暮れるよ」
言葉を受けて女は自然と受話器から少しばかり身を離しつつ、はーいと答えて受話器の向こうの男に通話の終わりの意志を伝えて見せた。
「ごめんなさい、買い物行かないと冷蔵庫空っぽなもんで」
そうして通話は無事に終了を迎え、落ち着いた空気を取り戻した。
「やれやれ、仕事に生き続けて寂しさを覚えたオヤジなんかに関わるものじゃあないね」
先ほどまで音だけで繋がっていた向こう側の世界にいた男はどのような人物だったのだろう。既婚者なのだろうか、子どもはいたのだろうか。どちらも違うように思えた。実家に住んでいる以上は左手の薬指に愛の証を結び付けているようには到底思えなかった。そろそろ身体が限界を迎えているかも知れない両親の世話は無事に続けられているのだろうか、それとも既にひとりで住む状態と化していたのだろうか。
あの世代に生きるにおいては実に特異な存在だっただろう。きっと己よりもひと回り以上の若さを持つ者にさえ小馬鹿にされたことだろう。
その様を想像して鼻で笑いながら天音はことを進める。
「アタシは必要になるだろうものをいくつか用意しに行くからアンタは待ち合わせできそうで下心少なそうで在り処知ってるおっさんでも探しておきな」
そう、あくまでも場所を知っていなければ意味がない。知らなければ天音の、何よりあの女の願望など叶わない。絡まり合った悩みの糸をほどくことなど出来なかった。
女はその事実を認めて心に刻みながら次の相手へと電話を掛けた。
☆
それは日が傾いた時間のことだろうか。夕暮れの朱は雲に隠されて、わざとらしい紅に染め上げられた雲から滲み出るように微かな優しい朱が零され散りばめられていた。
ここまで来て達成不可能だということはないだろう。霊現象は様々で取り扱いもまた様々ではあるものの、今回に関しては天音の中で殆ど答えが定まっていた。
今回の答えが天音の中で反響して胸を締め付けて来る。緩やかながらも強く、曖昧でありながら確かな痛みにも似た息苦しさが天音を責め続ける。
かつて天音には弟がいた。
ひとりの美人を愛し、ひとりの美人と共に人生を歩み、ひとりの美人に心を奪われて本気の想いを揺らめかせて共に愛を紡いでいた。
やがて彼は、ひとりの美人を失った。
それからすぐのことだろうか。弟の味雲は桑色の半纏から何を感じ取ったのだろうか。それを纏って消え入るように死にかけて。
天音が半纏に遺サレシ者を鎮めようと、味雲を救おうと手を伸ばした。
「要らない、俺は霧葉と一緒にいられないくらいなら、死んだほうがマシだ」
伸ばした手は、味雲の勢い付いた手によって跳ね除けられて、繋ぐことさえ、共に悩むことさえ許されなかった。
「霧葉、絶対に呼び戻すからな」
そもそもこのままでは自身が死ぬという状況の中、未だに諦められないのだろうか。
「このまま死ねば、きっと永遠に」
「死んだら御仕舞いだよ、そんなことも分からないのかい」
届けてみせた言葉も通用しない。この男は完全に全てを放り捨てて亡霊と化してこの世の者から外れてでも、そこまでしてでも今は亡き彼女とどうにかもう一度繋がろうとするのだろうか。
残された味雲の手に握られていたものは光を跳ね返して立派な輝きを放つ白銀のペーパーナイフ。
それは天音の身をも震わせる。味雲はそのような代物には確実に興味がなかったはず、おまけにそこに微かに遺された想い、断末魔の残響が枯れ果てた声を天音の耳にまで届けていた。
この世で最も虚しく移ろい彷徨う魂。そんな言葉を思い起こさせた。
「お待たせ登美子さん」
極端に低くしわがれた声が力なく響いていた。そんな力ない声が天音を現実に引き戻すだけの力を持っていた。
「待ってましたわよ円治さん」
わざとらしい程に丁寧に作り上げられた口調は天音の笑い声をおびき寄せていた。卒業アルバムに載っていた名前を述べたに過ぎない登美子は果たして円治との会話を繋げることが出来るものだろうか。
「最近物忘れが激しくてですね、一か月前のこともロクに思い出せないもので」
そんな人物が自身のことを覚えているのだろうか、それでも呼んでくれたことが嬉しかったのだろうか。円治は柔らかな微笑みを貌に現わした。
「嬉しいですよ、それでも呼んでくださって」
もしかすると本物の大馬鹿者なのかもしれない、天音はそう痛感していた。
そのまま円治は古びた紙を登美子に手渡した。すぐさま天音の手に回り、天音の眼に映される。
「娘さんでしょうか」
訊ねられてはただ笑うだけ、それなのに顔中を這い回る熱が、内側に籠もって蒸される感覚が襲って来る。恥ずかしがり屋を演じるということがこれほどまでに恥ずかしいということを学んでいた。
やがて円治が去ったのを確認し、ふたりして嫌らしい笑みを浮かべていた。
「アイツ、流石に馬鹿すぎでしょ」
「まさか利用されているだなんて思いもしていやしないだなんて」
そう、あくまでもあの男は目的の為に少し呼ばれただけのこと。
「数十年ぶりだとかだったらなお愚かでしかありゃしないね、それとも分かっていらっしゃったのか、まさに大馬鹿者じゃないかい」
そんな会話も挟まれた言葉によって切られてしまう。
「女狐ふたりの集いにタヌキの私は要らないんじゃないんじゃないの」
高くて程よく心地よい声が響いてきて、ふたりは顔を同じものに向けた。
「キヌ、ちゃんといらっしゃったようだね」
「呼んだの天音でしょうが」
「呼んだの天音でジンジャー」
ため息を吐いた。天音の反応の軽さは疲れたキヌには心地よく感じられるものの、用事を進めようと思ったその時にはあまり良いものとは思えなかった。
「あの後着物の不審者と仲良しこよしとか馬鹿にされたんだから」
ため息を吐いた。人間という生き物はそこまでねちねちと問い詰め続けるものなのかと。
「流石は狩猟民族、このタヌキ狩られるところだったわ」
「猛獣がニンゲンサマの社会に溶け込めるものかねえ」
天音の視線がキヌを撃ち抜いていた。蛇のような鋭さを想わせる雰囲気の割には全くもって鋭さを持たないその目は見ていて愉快な気分にさせてくれる。感想はただひと言。
「滑稽な顔」
キヌの言葉が刺さった、細かい破片なのだろうか、刺さった破片は光を受けて薄だいだいに、緑に、思い思いに色を変えては天音の内側にまで澄み渡って行った。
「ああ、人間の埃っぽさなんかより自由な妖怪の方がよっぽど幸せなニンゲンの面をなすっているようだね」
人が自然から身を離し、都会という空間の中で生きること、それが建物の隅に溜まった埃と同じような姿形を持った関係を、汚れ穢れに澱み切った空気を漂わせては社会という無機の色を人の手垢、油汚れで染め上げて行く。ここから更に人の心まで下品な染め物としてしまうものであった。
天音は先ほどまでの女との話や行動を思い返しては純粋だった子どもの頃のことを思い出す。
心の隅に人知れず溜まった埃のような想いは果たして風水にまで影響を及ぼしてしまうものだろうか。退魔師としては持っていない方がいい心境、立たない方がいい境地なのではないだろうか。
「人は自然から生れ落ちていながら自然から遠ざかって勝手気ままな世界を造ろうとするものだから。妖怪としてはたまに嫌になっちゃうね」
キヌは人との関わり方を覚えながら、環境の合わせ方を覚えていながらもどこまでも純粋な自分というものを忘れていなかった。
「今から探すのは子どもの頃の関係でしょ。自然に溶け込む純粋さはあるけど霊の気配まで出ていれば問題ないよ」
天音はキヌの言葉に打たれて昨夜のことを思い出した。記憶は言葉の反響を受けて鮮明にその姿を現した。
「昨日の夜、多分あれが幽霊じゃあないか、ふふっ、その姿目に入れたアタシがいるんだ。カンペキだろう」
「さっきまではゴメンね、依頼無事に終わったらお金改めてちゃんと払うから」
そうした感情の変化と意見の結び合いが三人を森の中へと誘う。小学生が描いた地図という頼りない代物を手に、まずは小学校を目指した。
天音としてはたまに通る程度で変わり映えのしない道、キヌにとっては自然の外側で人の手が壊した環境の成れの果て。
女の目にその道はいったいどのように映ったものだろうか。四十年ほど前、この道は同じ姿をしていたものだろうか。
その答えは女が道を辿ると共にキヌが代わりにさえずり奏でていた。
「あのね、昔はここ、畑だったの」
人の手が森を切り開く段階にいたその時代、そこには田畑が広がっていたのだという。
「あんまりにも敷き詰められていたものでね、作物が植えられてなかったらみんな畑の土を踏み締めて走ってたの」
天音はそうした見知らぬ光景を目前に思い描く。今立っているここもまた、畑。時代が違えばその場は既に柔らかな土の上。
「野菜とか植えられてたらみんな近道出来ないって文句言ってたの。その野菜や米に命をもらってるって後になって知るの、まさに成長よね」
女の記憶は未だ封じられていたものの、取り出すことも出来ずに詰め込まれ続けてはいたものの、身体は覚えているものだろうか、その目の端には涙が浮かんでいた。
「そうそう、もう時効だから話すけど、私の食料を恵んでくださるありがたい生物の努力の結晶でもあったね」
「この害獣め」
毒づいては見せるものの手は下さない。天音の中では完全な信用はないものの、完全な不信でもない。妖怪ならば祓うのが当然といった印象に対しても問答無用で祓うことには反対、それが天音としての意見だった。
「害ありゃ祓おう、そう思っていたものだけどもねえ、今はこの形か」
「祓わないのありがたい」
「ただただ消せばいいってものじゃあないからね、無闇に祓おうものなら他の妖怪どもまで出てきて余計に人に被害が及ぶかも分からない」
いつになく真剣な眼差しを、いつも以上に熱のこもった目の色を見てキヌの中に静寂の空気が生まれて広がり始めた。やがてそれは中心に固まり確かな形を成し始める。
それは隠し通された。上からかけられた想いの布、それは人という生き物ならばきっと持っているものだろう。感情と呼ばれるものだった。
「誰彼構わず祓ってたら天音というか退魔師が廃業するからかと思ってた」
天音はただ笑ってみせるだけだった。キヌというモノ、化け狸はきっと人里がコンクリートやアスファルトや鉄など自然界の物質が姿を変えた物に、自然から生まれたにもかかわらず自然というものを感じさせず人々に無機物などと呼ばれる物によって世界が塗り替えられる様を見届けて来たものだろうか。
「妖怪を最も効率よく消し去る手段は科学と物の怪の類いの結びつけと人の手による世界の掌握よ」
完全にセカイが科学というひとつの括りに纏め上げられた時、人々の思想から非現実的というレッテルを貼られて怪異が信仰から消えた時、果たして妖怪の類いはどれだけ生き残るだろう。
小学校へと向かうだけの道が遠く感じられる。それ程までに話は歩みを緩やかにしていた。これがある意味妖怪の仕業なのだと理解している天音にとってはその理解こそが普通のことを異常だと錯覚させる原因にもなりえるのだと実感する瞬間ともいえた。
そうして過ごした三十分の間に語られたこと。キヌが見てきたというこの街の歴史の一片はこの舗装された道路のように蓋を落とされていつの日だろうか、気が付けばその目に入らなくなってしまった追憶という名の亡霊。
もしかするとキヌが見ていた景色の中にこの女の幼き姿のひとつやふたつは映っていたのかも知れない。それでも景色の中に、キヌの見つめるセカイの中にそのヒトが収まっていたとしても、そこに『居た』のかどうか、伝えられなかった。
やがて小学校が見えてきた。立派な校舎は間違いなく工事を経て作り直されたものだろう。当時の面影など残されていない事など、天音でさえ分かっていた。
「着いたね、はて、ここからこんな地図がどれだけ役に立つことやら」
天音の眼には子どもの遊びそのものにしか映らない。天音が幼い頃とは違ってやることできること、そう言った可能性の幅が狭かったが為に狭きの中に広さを見いだした彼らが行なった被害無き悪戯とも幼き体にて背負うには大きすぎる冒険とも言えた。
小さくてまだまだ経験の浅い指が描いた道筋はどこまで頼りに出来るものだろう。恐ろしさを覚える程に正しかったとして、四十年近くの時を経てもなお使える代物なのだろうか。木々によって、人の手によって、通ることの出来ない段差や自然の壁が出来ているかも知れない。自然は生きている、全くもって違った道のりを辿ることになるかも知れない。それを心に留めた上で森の中へと身を放る。
そこはもはや道なき道で森の外の道路は何も見えなくて。唯一の目印となる学校を方位磁針の代わりに扱っていなければ迷ってしまいそうな程に人の歩く場所の姿を成していない。
天音は昨夜の雨を想いながら進められる一歩ごとに纏わりついて足を引っ張り続けるぬかるみを睨み付けながら女の方へと目を向けた。五十を過ぎた身体には負担のかかる運動かも知れない。そう思うだけで見守ることがやめられなかった。
「それにしても忌々しい地面じゃないか。よくもまあ崩れぬままでいられたものよ」
言葉は地には伝わらないだろうか。キヌの耳が天音の声を聴き届けると共に身震いと鳥肌のざわめきを覚え、気が付けば縮み上がってしまっていた。
「そういうこと言うのやめて、必要以上に怖いから」
恐ろしさは一度染み付いてしまえばとめどなく駆け巡る。どこにいるのか、どこに目的のものがあるのか、それさえも眩ます木々の茶色の壁や葉の天井は揺れて気ままに風に囁きかけながら独自の景色を繰り広げていた。
辺りに舞い、跳ねて、這いずり回る。そんな虫や蛇に向けて邪気をふんだんに盛り込んだ視線を放ちながら、森のひんやりとした心地よい温度に肌を馴染ませながら歩き続ける。
恐らく地図の示しに忠実に、思考を放棄して歩き続けたはず。そのはずが目前に木の根や土の段が立ちはだかる様を目にして大きなため息を吐いた。
「まあ、四十年もすればこうなってもおかしくありゃしないか」
昨夜の天音はどのように行き着いたのだろうか。暗闇のセカイ、夜と名付けられた時間、それも影を追いかけた上でようやくたどり着いた場所。確実にたどり着こうなどと思っても再現は容易ではなかった。
「こうなったら、記憶にあるかどうか、封じられているのか消えてることやら、呼べるかも分からないけども、霊を呼ぼう」
依頼者がそこにいること、様々な情報を、特にその時代を過ごした物質がある。その事実が天音の決意を呼び起こした。
「これから起こすことは霊に存在を誇示すること。まさにどうぞコチラですって言うようなもの」
女は首を傾げ、キヌは顔に影を蔓延らせていた。怪異に対する理解や経験が生んだその差はまさに個々の生きる道、人生の形を述べているようだった。
「もしやすると関係ない霊が現れるかも分からないけども、絶対に耳も目も貸すんじゃないよ」
天音は黒い棒のようなものを取り出した。右手に構え、右手を掲げ、棒のように見えるそれは棒の姿をやめた。広げられるそれは扇のかたちを現わす。親指の先に待つ隅は黒々とした夜空の青、それが次第に薄く明るく優しく広がるように染められた絹の扇子。まさにそれは日本の空の青の様々な貌を示しているよう。
「完全な黒と黄昏だけは省かれている。霊的に危うい時間のふたつ、黄昏と丑三つ時のない空、退魔師らしいだろう」
霊とある程度共存しなければならないと言ったあの天音の姿はどこに行ったものだろう。キヌは問うものの、返って来たのはこの上なく単純な言葉だった。
「祓う時には嘘でも情けを無くせ」
あくまでも霊と対面するための扇子、そう捉えているようだった。安っぽい純白の着物の袖がはためくと共に青だけで作り上げられた虹が震えるように振るわれる。
そうした行動の中に天音の声によって森に染み込む音も判らぬ歌声のような低い呟き。それはいわゆる祝詞と呼ばれるものだろうか。
「いつも思うけど、流派が分からないのは困るわ」
限られた人物しか知らない。それの意味することは防ぎ方も分からない。キヌもまた妖怪であり、その術式に引っ張られそうになるのは当然のことで、それもどのような行動で防ぎきれるのかも分からないという状態だった。
髪に止められた葉っぱのヘアピンが取れてしまいそう、変身が解けてしまいそう。そんな様を目にして天音はキヌに耳栓を手渡し未だ術を唱え続ける。
「助かった」
女は不思議なモノを視るような視線でキヌを包み込もうとしていたものの、キヌはそうした感情を受け付けてはくれなかった。
木々は木の葉はケタケタと笑うようにざわめき、流れてやがて街を流れる川と成りゆく水は揺れながら天音の行ないを見張っていた。これは果たしてどのようなことを引き起こす妖術の類いであろうか。
口を動かし唱え続ける天音の眼は心なしか宙を泳いでいるように見えた。天音には人とは異なる存在が視えているのだろうか。
やがて天音は口を開き、扇子を舞わせていたその手を止めた。
「そこのアンタ、アンタだ」
天音の目に映るそれは姿を鮮明に現わすこともなく日差しに掠れた影。その姿がどこかへと向かおうとする瞬間を目の内に捉えて想いのままに追う。そんな天音の姿をふたりして追いかけるばかりだった。
それからのこと、影が木々の間をすり抜けるように走り、天音は息を荒らげながら追いかけ続けてキヌもまた、その影に意識を向けていた。
「向こう、そうかい」
果たしてたどり着いたそこ、それこそがタイムカプセルが埋められた場所なのだろうか、天音には全くもって分からなかった。
「キヌ、ここかい」
訊ねられて鼻を利かせて匂いで嗅ぎ分ける。
「ここで間違いないわ、人の香りと微かな妖気。有象無象の中から探せば見落としてしまいそう」
タヌキの鼻を持ちながら出て来るのはその言葉、あまりにも弱々しい気配は天音にとっては何もないに等しかった。
「ここまで来て何しようっていうつもりか教えてもらえない」
女の問いは天音に届いたのか否か。きっと届きはしているだろう。しかし彼女は見て見ぬふりの聞かぬふり、といった態度を取り続けていた。
天音は追いかける際に閉じていた扇子を再び広げる。
「ここで最後の儀式を始めようか、アンタとそこの遺シ者を切り離すための儀式を」
人の想いは留まり何時までも何処までもそこに在り続ける。そうした思い出に心を強く馳せる人々が残した想い。
天音は木々を七本選んで紐をくくり付け、それぞれを中心、タイムカプセルが埋まっていると思しき地点へと向けてそれぞれ対になる二本ずつを結び付けて残りの一本でそれらを一纏めにして顔だけ振り返り女へと向けて笑みを浮かべてみせた。
「七が縁起のいい数字、そんな思想がしっかりと根付いた後、その思想が一般的に一番強いからねえ、これが一番効果的」
確かに他にも様々な模様や縁起物はあったものの、七という数字が最も分かりやすく最も単純だった。
「特に向こうさ子どもさ。これほど分かりやすい物のほうが効果てきめんってワケさ」
子ども、やはり当時そこに埋められた物のひとつが強い反応を起こしているのだろうか。
天音はタバコを取り出し火を点けて、煙を勢い良く吸い上げて吹き出した。
「マナーなんか知ったことか、自然様の世話こそが全てのここに法律なんてまかり通せない」
「わざわざそんなこと言わなくても山でタバコ吸うの禁止されてないから、今のとこ」
キヌの指摘を受けながらただ笑い、儀式は続けられる。
「時の流れに取り残された想いの亡霊よ、この場に取り残された霊的な残像よ、行き場を失い縛り付けられし未練の果てよ、アナタの最果てはここではない」
言葉によって影は揺らぐ。風に吹かれて消え入るほどに弱い存在だっただろうか、人の言葉で終わりを告げるようなごっこ遊びだっただろうか。
「さあ、在るべき処へと帰りゆけ。想いの花よ返り咲け」
こうした言葉によって姿を消し去ることなど決められたセリフのような物。天音が作り上げた流れに沿って、ただ従って想いの残滓は地中へと帰りゆく。優しい風が満遍なく吹き、葉を鳴らすことさえなくただこの儀式を見守り続けるだけ。やがて想いの影は完全に飲み込まれ風は収まる。
女はその場でしゃがみ込み、地面を見つめる。
「そっか、私、間違っちゃったんだ」
何があったのだろうか、詳しく語られないまま、しかしながら言葉に過去の端を見ることは出来た。それを続けることしか出来なかった。
「そうね、ちょっとしたケンカをしちゃって、彼女の大切なものを持ってっちゃったの」
それがタイムカプセルに埋められた物だという。
「忘れたくても忘れられなくて、ごめんなさい」
それはきっと軽い心で行なわれたちょっとした過ち、そのつもりでいたのだろう。しかし、軽い罪ではいられなかった。いつまでもどこまでも追いかけて来ては女の胸を砕けたガラスの鋭さで刺し続け、まばらな痛みを延々と与え続けていた。
「ごめんなさい、今でも大好きだよ、許してなんて言えないけど、一緒に居られたら。それも、我が儘だよね」
きっと彼女の罪は永遠に許されることはないだろう。相手は忘れない、自分も忘れない、そんな罰から逃げてしまった。そんなひとつの現象が今回の困りごとの正体だった。
「せめて、家に飾らせて、あなたと同じ名前の花を」
タイムカプセルが埋められたその地の上に、穢れを知らない一輪の白い百合が咲いていた。
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