涙を飲む

雨上鴉(鳥類)

第1話 涙を飲む

人魚の肉が、不老不死を叶えるというのなら。

涙は、一体なにを叶えるのだろう?


廊下をパタパタと軽い足音が走っていく。僕の予想が正しければ、足音は僕のいる部屋で止まるはずだ。

「チトセー!遊びにきたよー」

ほら、やっぱり。

「ウナバラ!今日も来てくれたんだな」

入り口の方から、元気よく来訪を告げる声がした。彼女の名前はウナバラ。いつからか僕の病室に遊びに来るようになった、幼い来訪者だ。高めの声色が彼女の幼さを告げている。

「チトセ、チトセ!今日はこれを持ってきたの!新しいCD!おねーちゃんが持ってたやつ、もういらないからってくれたんだ」

「本当かい?それは嬉しいなぁ。えーっと、ウォークマン、ウォークマンは」

「はい!昨日違うところにしまちゃったでしょー?2段目に入ってたよ」

「ありゃ、僕としたことが。ありがとう」

ウナバラが探してくれた古いウォークマンを受け取る。目が見えない僕にとって、いつもと違う場所にものが入っているのは結構困るのだが、元来のうっかりはなかなか直ってくれないらしい。

──そう、僕は目が見えない。この病室に来る前は見えていたけれど、いつしか見えなくなっていた。病気の進行によって視力を無くしてしまったのだ。だから、今目の前にいるであろうウナバラの姿も見た事がないのだ。僕の世界は音だけ。最初はそりゃ、悲しかったしなんで?とも思ったけれど。ウナバラに会えてから、その気持ちもだんだん薄れていった。

「セットできたよ。はい、ウナバラの方ね」

「うん!」

二人でイヤホンを片方ずつ分け合って、CDを再生する。ほんとは最新の機種の方が、音がいいのかもしれないけれど。僕はこっちの方が好きだったりする。ウナバラが持ってきてくれるCDを、すぐに再生できるしね。

「これはなんだろ、ロック?」

「ジャカジャカしてるねー!」

「お姉さん、結構尖ったもの聞くね?」

ウナバラがもってきてくれるCDはさまざまだ。今日みたくかっこいいロックな曲のこともあれば、静かなピアノ曲のこともある。大抵は家族のお古らしい。音楽が好きな家族なのだろうか。

シングルCDだったのか、3曲ほど流れて再生が止まった。

「あー楽しかった!今日のはノリノリだったねー!」

「そうだね。こういうのも結構好きだな、持ってきてくれてありがとう」

「どういたしましてー!」

ウナバラは弾んだ調子で鼻歌を歌い始めた。先ほどのCDに入っていたうちの一曲だ。一回聞いて覚えられるくらい耳もいいようで。曲を聞いた後は大体こんな感じだ。僕は昔から音痴なので少し羨ましい。

しばらくウナバラの歌を聴いていると、アラームが鳴った。

「あ。そろそろ検査の時間だ」

そろそろ看護師さんが来る時間だった。検査といっても、なにもなければ血圧とかそういう普通のやつだけなんだけど。

「もうー?はやいねー。じゃあ、また来るね」

「うん。いつもありがとう」

「ばいばーい!」

賑やかな少女は、今日も元気に帰っていった。

しばらくして、入れ違いで看護師さんがやってきて、そのままいつもの検査が始まった。


今思えば、ウナバラにあったのは目が見えなくなってしばらくした頃だった。

「チトセ、私と一緒に遊んで!」

「え?」

突然現れた少女に、最初は戸惑った。さっさと親を探して、引き取ってもらわなければと思った。けれど、ウナバラはマイペースで。

「ねぇねぇチトセ!CDが聴けるものってある?」

と聞いたのだった。最初に聞いたのは、静かなアコースティックギター単独の曲だった。

勢いのままに一緒にCDを聴き、また数日経つと現れる彼女。それを楽しみに思うようになったのは、いつからだったのだろう。そのぐらい彼女は僕の病室に遊びにきてくれる。

病室の窓の外に顔を向ける。潮騒の音が聞こえる。ほぼ真下が海だった気がする。目が見えなくなる前の記憶だから、わからないけれど。

──けれど。僕は。

彼女のことを、なにも知らないのだ。


最後にウナバラがきてからしばらくして、僕の病状は悪化した。病室に来客立ち入りが禁止になるほど。

どうやら、僕の人生もこれまでのようだ。何年も治療しても病院から出られなかったのだ。薄々勘づいてはいた。

この一人しかいない病室に移ったその日から。どこか、ここから出ることを諦めていたような気がする。それでも生きるのだけはやめなかったのは。

何度も何度もそっけない僕のところにやってきてくれた、ウナバラのおかげだった。

最後に。旅立つ前に彼女にお礼だけでも言えればよかったのだけれど。僕は彼女のことをなにも知らないから。手紙の一つも送れないのだ。

「ウナバラに、最後に一度だけでも、会いたかったなぁ」

星も眠る静かな夜に、僕のそんなつぶやきが響いた時だった。

「呼んだ?チトセ」

会いたいと願った存在が、目の前に現れたのだ!

「うわぁ!?あ、あれ!?ウナバラ!?え、面会ダメなんじゃ」

「しーーーー!!!看護師さんにバレちゃうから!!!」

「あ、うん。しーーーー」

思わず真似をしてしまったが、一体なぜここにウナバラがいるのか。この夜の病院にどうややって忍び込んだのだろう?

「細かい話はなし!時間がないから!今日は、チトセにこれを渡しにきたの。飲んでくれる?」

「飲む?」

ウナバラはそういうと、僕の手になにやら小さな瓶のような物を握らせた。蓋を頑張って開けてみたが、特になんの匂いもしなかった。

「これを飲むの?」

「うん。お願い、チトセのためなの」

いつもの明るいウナバラと打って変わって真剣な声色だった。

僕は覚悟を決めた。

「あとで、病院から出されてもの以外を食べたこと、一緒に怒られてよ?」

瓶の中身を一気にあおる。なんの味もしない水のようなそれを飲み干した。

「ありがとう、チトセ。よかった、飲んでもらえなかったらどうしようかと思った」

「結局、これはなんだったの?」

「目を開けたら、わかるよ」

「目?」

僕の目が見えないことは、ウナバラもとうの昔に知っているはずだ。何か見えるというわけでもない。僕は半信半疑で目を開けた。

「……え?見え、る?」

数年ぶりにみた外の光。誰もが寝静まった夜でも、僕には充分眩しかった。

「よかった。ちゃんと効いたね」

声のする方を見る。初めてみたウナバラは、想像通り幼い少女だった。真っ赤な髪が、窓から入る海風に揺れる。

「ウナバラ、これは一体?」

「チトセは、人魚の肉が不老不死の薬になる話は知ってる?」

「え?ああ、うん、まぁ。有名な話だね?」

SFでたまに出てくる不老不死の薬の一つだ。けれど大抵は紛い物だったり、相当なリスクがあったりするという不思議アイテム。

「けれど、何で急にその話を」

話の文脈として、あまりにも急な話題転換だ。

ウナバラは、そっと顔を上げた。

「──私、その人魚なの。信じられないと思うけれど」

目の前で二本足でちゃんと立っている少女は、そんなことを言う。

「ウナバラが、人魚?」

「そう。人魚の肉には、不老不死の効果がある。それは本当よ。でも、それだけじゃない」

瓶を持った手に、ウナバラの手が重なる。いつもより冷えている気がした。

「チトセに渡したのは、人魚の涙。これにはね、病気を治す力があるけれど、不老不死にはなれないの。ちょっとくらい、歳をとるのは緩やかかもしれない。けれどそのくらい」

冷えた手が、瓶を抜き取る。空になった瓶が、月明かりでキラリと光った。

「私は、あなたが永遠の命を手にしたいとは思っていないって、そう思ったから。ただ、この白い部屋から出るだけの力があれば。きっとあなたは、どこまでも飛んでいけるんじゃないかって。そう、思ったの。だから、それを飲んで欲しかった」

「どうして、僕に?」

「ふふ、なんでだと思う?」

ウナバラは悪戯っぽく笑う。普段の幼げな声色はなく、見た目に反してとても大人びた表情をしていた。

「私はね、恋をしたの。窓辺で空を見るあなたに。あなたが病院に来てすぐの頃の話ね。私は掟に逆らって陸に上がったの。あなたに、あいたかったから」

出会った時のことを思い出した。彼女は、最初から僕の名前を知っていたのだ。

けれど、と彼女は言う。

「それも今日でおしまい。──人魚が恋をしたら、泡になるのも物語と一緒よ。だから最後に、あなたにそれを渡したの」

窓が開く。海風に靡く彼女の髪が、手が、透けていく。

「──大好きだよ、チトセ。元気で生きてね」

出会った時のことを思い出した。彼女は、最初から僕の名前を知っていたのだ。

「ウナバラ」

「私に恋をくれて、ありがとう」

透ける身体が傾き。窓から落ちた。

「ウナバラ!」

手を伸ばしたけれど、届くはずもなく。

音もなく落ちた彼女の身体は、海の波に消えていった。

月明かりに照らされた海原に、潮の音だけが響いた。


──あれから数日。驚いた医者の顔をお供に、全ての検査を終えて僕は退院した。

病院を出て、海岸に出る。キュッキュと砂が鳴く。ここが鳴り砂の浜だと気づけたのも、ウナバラがこの身体をくれたからだ。

人魚の涙は、僕を病室から連れ出してくれた。

ほんの少しの恋心は、泡になって消えていった。

よく晴れた、月の夜だった。

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