第5話

 そして迎えた新入生歓迎会当日。掃除をクラスの奴に押しつk…変わってもらい講堂に来ていた俺はというと——


「胃が痛てぇ…」


——胃を痛めていた。


「あはは、大変そうだね」


 背後からそう声をかけてきたのは水銀さんだった。普段は下ろしている肩ほどまでの明るい茶髪をポニーテールにした彼女の姿は新鮮で、思わず「結婚しよう」などと口走ってしまうところだった。多分俺じゃなかったらそのまま口走ってた。そんでもって振られていただろう。哀しいなぁ。


「本当だよ。本来なら副部長の芝光と一緒にやるはずだったのに、アイツ今日に限って体調不良になっちゃうからさ…」

「…なんか、苦労しているんだね。」

「まぁな。うちの発表順が後ろの方なのが微かな救いかな」


 我が高校はそれなりに頭が良く、併設された中学校もある。中高一緒に新入生歓迎会が行われるのだが、中学生の方は高校生よりも完全下校の時間が早くなっているために高校生しか参加できないうちのような部活はこの新入生歓迎会で後ろの方の順番になっているのだ。そして、豆腐のように脆いメンタルの俺は中学生が帰って人が少なくなった方が緊張も多少和らぐので、後半での発表は都合が良かった。


「確か、化学部は私たちの—美術部の次だったよね」

「うん、最後の一個前だね。そういえば、そちらの方は?」

 

 俺は水銀さんの後ろに身を潜めるようにしながらもちらちらとうかがっている女の子に水を向けた。


「あ、私は2Dの元名凪です。えと、美術部の副部長で、今日は麗華ちゃんの手伝いをしに来ました」

「俺は2Aの物井巽、化学部の部長です。よろしくね、元名さん」


 怖がらせないように努めて柔和な雰囲気を作って話す。黒髪を腰ほどまで伸ばした彼女は天敵を前にした小動物のようにオドオドとした感じだったからだ。


「凪ちゃんは凄いんだよ!絵を上げているSNSのフォロワーの数とかもとっても多いし、昇降口にあるあのでっかい絵を書いたのも凪ちゃんなんだよ」


 本校の高校1、2年生用昇降口のそばにはA0よりもちょっと大きめの夜の東京をモチーフにした絵が飾られている。青色を基調として描かれたその絵はまさに圧巻だった。


「あぁ、あの絵って元名さんが書いてたんだね。俺あの絵初めて見たとき息をのんだよ。」

「二人にそんなに褒めてもらえるなんて…嬉しいな」


 元名さんはにへへ、というオノマトペが似合うような笑みを浮かべながら髪をなでる。なにこの子、めちゃくちゃ庇護欲をそそる可愛さ持っているんですけど。守りたい。というか俺がママになりたい(?)


「ところで、その元名さんのSNSって気になるんだけど、よかったら教えてくれない?」

「うん。えっと、私のアカウントの名前は—モトナナシっていうんだ。全部カタカナだよ」


 耳元で放たれた囁き声に思わず驚駭きょうがいの声をもらしそうになるのを気合で押し留める。


「あの、他の人には言わないでね。あんまり公にはしていないし、教えているのも限られた親友ぐらいだから」

「…もちろんだよ。それにしても、まさか俺もフォローしている絵師さんが同じ学校の人だとは思っていなかったよ。」


 軽々と広めるはずがない。『限られた友人ぐらいにしか教えていない』というのに初対面のはずの俺に教えてくれたのは不自然である。となれば、彼女は前々から俺を知っていたと考えられるだろう。ところで、俺は中学のころから奏と一緒に音楽活動をしている。もともと奏が作曲をしていたのに俺が乗っかって詞をつけたり稀に編曲したりといった感じだ。そして、そのMV用のイラストを依頼している相手がモトナナシさん—先ほど彼女が告げたアカウント名と同じなのだ。要するに、先ほどの彼女の発言は彼女が依頼主の正体が自分らであることを知っていることと同値である。あまり正体を明かされたくない俺としては、互いが不必要な損害を被ることを回避するために互いに秘密を守ることが最善—一種の相互確証破壊のような状況下にあるのだ。


「私、そろそろ出番だから一旦離れるね」

「美術部のはまだ先じゃ?」

「私は軽音部のパフォーマンスにも出るから。」

「なるほど」


 美術部の部長という印象が強いから忘れていたが、確かに彼女は軽音部にも所属していた。思い返せば、昨年度の文化祭では奏らと一緒に演奏していた気もする。


「ちゃんと聴いててねー?」

「もちろん」


 おそらくは演奏なり歌唱なりをするのだろう。流石に勝手に撮るのははばかられるので、しっかりと脳裏と鼓膜に焼き付けておこう。そう決意を固めて階段を下りる彼女の背中を見送った。

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