第4話

「急にごめんね。邪魔しちゃったかな」


 講義室に入ってくるとき、先生がノートパソコンを左手に持ちながらそう言った。


「別に大丈夫ですよ。俺は分別のある人間なので」

「でも物井君、彼女のこと——水銀さんのこと好きなんでしょ?」

「ゴハッ」


 唐突に投げかけられた疑問に驚いて飲んでいた麦茶がむせる。ハンカチで口を押さえ、幾度かせきをするとすぐに辛さはなくなった。


「だ、大丈夫?」

「ええ、なんとか…。それより、何でそんなこと知ってるんですか?誰から聞いたんですか?」

「いや〜、さっきの君の様子を見てたらなんとなくそうなんじゃないかな~って思って。」

「そうですか。…とにかく、そのことは絶対に誰にも言わないでくださいよ」


 そんなに分かりやすい反応をしていたのだろうか、一抹の不安が残る。水銀さん自身に悟られるのはどうしても避けたかったので先生に釘を刺すと同時に今後の反応に気をつけようと思った。


「わかってるよ。教師がそう簡単に口を滑らせるわけないでしょ。それよりも、君も大変だね~、彼氏持ちの子に恋をするなんて。」

「残念ですね、先生。俺は彼女に恋人ができる前から思いを寄せているので、時系列が異なるんですよ」

「些末な問題でしょ」


 先生が苦笑しながらそう告げる。なぜ水銀さんに彼氏がいると知っているのか気にもなったがそれは一旦保留とし、一方的に恋愛事情を知られるのはなんだか癪に障るのでこちらからも聞くことにした。


「ちなみに、琴ちゃん先生は恋人いたことあるんですか?」

「え?」


 先生は呆けたような、うまく情報を処理できていないような感じでフリーズしてしまった。そんなに先の質問が意外性に富んだものだっただろうか。


 互いに状況をうまく呑み込めないまま、ただ秒針の音のみが響く。次に静寂が破られたのは先生が自分を何と呼んだのか、そう問うたときだった。


「琴ちゃん先生、ですよ。うちのクラスの女子とかがそう呼んでたんで真似した感じです」

「うぅぅ。威厳も何もないし…」

「かわいくって俺は好きですよ、琴ちゃん先生」

「はうぅ」


 赤く染めた頬を隠すように手を添え、少しばかり俯くさまは可憐の一言に尽き、俺の心に微かな嗜虐心を芽生えさせた。実際、彼女は教鞭を執るのはこの学校が初めてであり、自分たちと同じ代に来たため、初々しさや年齢的な若さに加え、当人の性格的にも荘厳な教師というよりは先輩や少し年の離れた友人というような印象を抱かれてしまうのだろう。


 そう結論付け、時計を見やると短針は既にClに—17時に差しかかろうとしていた。(この学校の化学実験室の時計は一般的なものとは異なり、数字の代わりに対応する原子番号の元素記号が書かれたものになっている。)


「で、話って何ですか。一応ある程度は予測は付いてますけど」


新歓新入生歓迎会の日付だよ。これが現状の予定だ」


 そう言いながら先生がPCの画面を見せた。そこにはカレンダーが表示されており、6限や会議の文字、〇×△の記号があった。


「×は授業準備などでそもそも部活ができない日、△は榎戸先生と私の片方しかいない日だね。今回は初回で顧問の確認とかもしたいから、基本的には6限の〇の日—20日とか24日とかから選んでほしいかな」


 榎戸先生は還暦手前ぐらいの初老の先生だ。琴ちゃんと同じく化学部の顧問であるが、学年主任の仕事もあるためか基本的に部活に顔を出すことはない。


「なら、24日でお願いします」

「了解、それで予定組んでおくね。実験は文化祭のと同じでよかったよね?」

「はい」

「おっけー、じゃあ部員への周知はそっちでよろしくね。薬品はこっちで用意しておくから」

「分かりました。」

「私の方から伝えることはこれぐらいかな。そっちは何かある?」

「いえ、特には」

「じゃあ今日はこれで解散だね。また明日~」

「はい、さようなら」


 席を立ち、軽いカバンを背負う。扉に手をかけて開こうとしたとき、蔵波先生が「もし、」と告げた。振り返り、目線だけで続きを促す。


「何か悩みとか分からないこととかがあったら、私に相談してね。役に立てるかは分からないけど、きっと最善を尽くすから」


 その声はどこか憂いや惑いに似たものを孕んでいる気がして、どう返せばよいのか、その解を求めることができなかった。故に、わずかばかりの首肯と蚊の鳴くような返答を送り扉を開き、フロアレールを跨いだ。


 扉を閉めると校内の閑散とした様子が一層際立って感じられる。今日明日は基本的にはどの部活も活動はなく、まだ新年度の初回授業も受けていない教科があるぐらいだ。校内にとどまっている生徒など、きっと両手に収まるぐらいなのだろう。辺りを眺むれば、陽は傾き、あかねの光が諸所を染めている。その風景が芸術的に思えて写真を撮った。ただ、悲しいことに俺は写真部でもなんでもないので肉眼の下位互換的なものになってしまったが。それでも、きっといつかはこの写真を見返しては感傷に浸るのだろう。丁度、読み終わった本の表紙をまためくるように。


「結局、恋人は居たことあるのやらないのやら」


静寂を破った言葉の後にはただ一つ、跫音きょうおんだけが反響していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る