めちゃくちゃやべー奴!
「まじ?」
目の前に再び現れた黄色い柵を前に、私は何度目になるか分からないため息をついた。
どういう訳か、私は路地の中で完全に迷子になっている。最初はすぐに左へ折れればいいと思っていたのだが、左に抜けられそうな道には全て、工事現場においてあるような黄色い柵が置いてあった。
それだけではない。入り口の辺りの家には人が住んでいる気配があったものの、ちょっと中へ入ると、街頭こそついてはいたが、家という家に灯りはなかった。ガラスが破れたままになっていたりするから、人が住んでいる気配自体がない。
もちろんこんな気色の悪いところへ突撃する気はなかった。すぐに戻ろうとしたのだけど、戻り道だと思ったのは別の分かれ道だったらしく、今ではどちらがバス通りで、どちらが入ってきた方向かも分からなくなっている。
携帯で場所を見ようとしても、この辺りはなぜか住宅街ではなく、空き地みたいな表記になっていた。安物のせいか、歩き始めると、すぐに方向がぐるぐると回り始め、むしろ私を混乱のどつぼへ叩き込んでくれている。
「もしかして、例のスーパーの出店予定地だったところかな?」
私はこの街にもあの巨大スーパーが来ると言う話を思い出した。だけど色々とごたごたがあって、延期になったとか、中止になったとか……。ここがその予定地だったのかもしれない。
だとすれば、私はとんでもないところへ迷い込んだことになる。電話して、お母さんに迎えに来てもらうことも考えたが、自分の場所が説明できないとどうにもならない。それにお母さんは私以上の筋金入りの方向音痴だ。間違いなく母娘で二重遭難になる。
思わず泣き出しそうになった時だ。どこかから話し声が聞こえてきた。
「ええ、一通り簡単にすむものは終わりましたから、今度は少し手の込んだものに手を付け始めました……」
何だろう。声は若いけど、どこかのサラリーマン? でも助かった!
「まさか。中身は地味な小娘ですよ。前任者はなにが気に入ったんでしょうね? 私にはさっぱりです」
まずい。これはやべーやつです。こんな会話をしている奴の前に、JKである私がのこのこと出て行ったら、大変なことになってしまう。それこそ薄い本のヒロインだ。私は一目散にそこから逃げようとした。だが話し手の口調が変わったのを聞いて足を止める。
「少し気になることもありますので、今回は時間をかけるつもりです」
この声には聞き覚えがある。自分の理性はすぐに逃げるべきだと言っていたが、別の何かが絶対に確かめるべきだと告げている。
私は朽ちかけた建物の塀へ隠れつつ、慎重に声のする方を覗き見た。そこは建物の間にぽっかりと空いた、猫の額のような空き地になっていて、見たことのない銀色の携帯を耳に当てたジャージ姿の男性がたっている。
「はい。また進捗があり次第連絡します」
「柊くん?」
思わず口から出た私の声に、男性は携帯を耳から離してこちらを向いた。そして少し当惑したような、いや、間違いなく驚いた顔をしてこちらを見る。
「あっ、真美さんも道に迷ったの? 僕もあの穴のせいで、こんなところへ迷い込んじゃって……」
そう言うと、頭を掻いて見せた。その姿は昼休みに、私を心ときめかせた仕草と同じだ。だけど今はとても同じには思えない。優しげに見えたその目が、今では屠畜場にいる家畜を見る目で私を眺めている。
「それに天気も悪くなりそうだし、僕が家まで送っていくよ!」
厚い雲に覆われた空を見上げながら、彼が私に声をかけてくる。そして私の方へ一歩足を踏み出した。それを見た私は一歩後ろへと下がってしまう。それどころか、私の中の何かがさっさと逃げろと叫んでいる。だけど体がうまく動かない。
「だ、大丈夫。じ、自分で帰れるから」
私はじりじりと下がりながら、必死に声を絞り出した。
「でも少し遠いし、それに君の家はこっちだろう?」
彼が指を私とは反対方向へ向ける。どうして転校初日の彼が、私の家を知っているのだろう? それに気付いた瞬間、私の中で疑念が確信へ変わった。
『めちゃくちゃやべーやつだ!』
彼はにこやかな笑いを浮かべながら、私へ近づいて来る。私は彼から逃げようと、空き地の縁を回った。
『やばい、本当にやばい!』
辺りでは消防車や、救急車やらのサイレンが鳴り響いていて、悲鳴を上げても誰の耳にも届きそうにない。
ガサ!
不意に何かが動く音がした。助けを求めて辺りを見回すと、人一人が通れるか通れないかの狭い隙間が目に入る。
「お、お弁当。本当においしかった。柊くんって、り、料理が趣味なの?」
私が必死に考えた台詞に、やつが首をひねって見せる。
「趣味と言う訳ではないけど……」
「今度、お礼に何かおごるね!」
今だ。私はその隙間へ向けてダッシュした。カバンが壁に擦れる音がして、ジャージのポケットが何かにひっかかったが、強引にそれを外すと、そのまま隙間の先へと走り続ける。
『ここは……』
隙間を抜けた先はバス通りだった。そこには消防隊員や警察官が沢山いて、辺りは騒然としている。それだけでなく、道路の真ん中が完全に落ちてしまっているのも見えた。思わず足を止めて立ち尽くす。
どうやら穴が開いたのは、あの一か所だけではなかったようだ。恐る恐る背後を振り返ると、隙間の先には誰もいない。
「君、一体どこから入ってきたんだ!」
私の耳に怒鳴り声が響いた。振り返ると、まだ若い警官が驚いた顔をして、ジャージ姿の私を見ている。
「ここは今は封鎖中で、立ち入り禁止だよ」
そう告げると、警官は肩につけた無線機へ顔を向けた。
「あー、本部。こちら名和町交差点先です。はい。ジョギング中と思われる学生が一人――」
「逃げても無駄だよ……」
警官の話し声に交じって、何処かからやつの声が聞こえてきた。私はもう一度隙間の先を見る。やはりそこには誰もいない。私の幻聴だろうか?
「君は僕のためにいるんだ……」
再び声が聞こえた。幻聴じゃない。やつはまだこの辺りにいる。
「あ、あの……」
私は助けを求めるべく警官へ声を掛けた。だが無線で話し続ける警官は、待てと私に片手を上げて見せる。
「はい。二丁目方面ではなく、三丁目方面へ――」
警官の話す声を聞きながら、一体何を訴えればいいのか考えた。同級生に会った。彼の話が何かおかしかった。だから助けて欲しい!?
『だめだ!』
とても説得なんて出来ない。言っても痴話喧嘩ぐらいにしか思わないだろう。そんなことより、ともかくここから逃げないと!
「ご、ご迷惑をおかけしました!」
私は警官に声をかけると、人がいない歩道を走りだした。
「待ちなさい!」
背後から警官の声が聞こえたが、そんなものを気にしている場合ではない。ともかく一刻も早く家へ逃げる。そう思いながら交差点を曲がろうとした。でもその先にもぽっかりと穴が開いている。
『一体何が起きたの?』
立ち止まって辺りを見回す。家へ向かう反対方向には穴は見当たらない。そこには警察によって立ち入り禁止のロープが張られ、野次馬が集まっているのが見えた。遠回りでもそこから家へ。そう思った時だ。
『君の家はこっちだろう?』
柊の言葉が頭に響いた。向こうは間違いなく私の家がどこにあるかを知っている。家に帰る途中で待ち伏せされたらおしまいだ。やはり親に迎えに来てもらった方がいい。私は携帯をポケットから取り出そうとした。
「あ、あれ?」
でも見当たらない。どうやら隙間でジャージをひっかけた時に、落としてしまったらしい。
「どうしよう?」
思わず途方にくれる。
「君、勝手なことをしてもらっちゃ困るな」
私に追いついた警官がついてくるように合図した。やはり警察に相談すべきだろうか?
でも転校生がいきなりストーカーです、なんて話はとても信じてもらえそうにない。私は警官が持ち上げた黄色いテープの下を潜り抜けた。野次馬の何人かが、ジャージ姿の私を不思議そうな顔で見ている。
『どこへ逃げれば……』
辺りを見回すと、元は牛乳屋だった、色褪せた看板を持つ家が目に入った。そうだ。そこに行けば助けてもらえる。私は牛が描かれた看板へ向けて、脇目も振らずに全力で走った。
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