人生で一番長いお昼!

 キーン、コーン、カーン、コーン!


 昼休みを告げる鐘がスピーカーから鳴り響いた。人生でこれほど昼休みを待ち遠しく思ったこともなければ、永遠に来ないでほしいと、恐れおののいたこともない。だがそれは来てしまった。


「日直はプリントを回収して、私のところへ持ってくるように」


 数学の板橋先生はそう告げると、教科書と名簿を手に教室を出ていく。一番後ろの席の生徒が私の所へ、小テストのプリントを回収しに回ってきた。


 ほぼ何も書いていない私の解答用紙を目にすると、その動きを止める。そしてかわいそうなものを見る目つきで私を眺めながら、真っ白な解答用紙へ手を伸ばした。


「真美、解けた?」


 前に座る京子が声を掛けてくる。そして私の顔を見るなり、いきなり肩をすくめて見せた。


「まあ、解けるわけないよね」


 その通りだ。今の私に数学の問題など解けるわけがない。もっとも普段から大して解けていないから、そう違いがある訳でもないのが悲しい。


「そんな事よりも……」


 京子はそうつぶやくと、私の手を握って椅子から引きずり出した。そのまま柊くんの席の前へと引っ張っていく。


「ひ・い・ら・ぎ・君!」


 教科書をカバンにしまい込んだ柊君へ、京子が声をかけた。続けて私を贈答品みたいに突き出す。


「真美に案内してもらってね。それと真美をよろしく!」


「はあ!?」


 ちょっと待って、何で私がよろしくされないといけないの! そう突っ込みたいところだが、京子の面白いものを見つけた目に跳ね返される。


「真美、何を寝ぼけた声をだしているのよ。昼休みは短いんだから、さっさと行く!」


 そう言うと、何故かカバンを肩にかけた柊くんと私の背中を、教室の外まで押し出した。そして背後へ続こうとした女子生徒たちに対して、ドアをぴしゃりと閉める。


「京子も一緒に行こうよ!」


 私の叫びに、京子はあっさりと首を横に振って見せた。次に別のドアから湧き出してきた女子生徒たちの方を振り向くと、腰に手を当てて仁王立ちになる。それを見た生徒たちの顔が引きつった。こういう時の京子はヤンキー並の迫力だ。


「私はちょっと野暮用があるって言ったじゃない。だからさっさと行ってちょうだい」


 そう答えると、京子は私と柊くんへ廊下の先を指さした。どうやら説得は無理らしい。あきらめて柊くんの方を向く。


「あ、あの……」


 どこへ行きたいかと聞きたいのだけど、言葉が口から出ていかない。その間にも、となりの教室から出てきた生徒たちが、廊下の真ん中で立ち尽くす私たちを不思議そうに眺めている。


 そのうち何人かは足を止めて、こちらをガン見し始めた。こんなイケメンと、衆人環視の中で話をするだなんて、私の精神がとても持たない!


「柊くん、こっち!」


 ともかく人目のつかないところへ、そう思った私の羞恥心は、あろうことか柊くんの手を引っ張ると、そのまま廊下の先へと走り出した。


「そ、それで、柊くんは案内してほしいところはあるの?」


 事務棟へ続く渡り廊下へ出た私は、やっとの思いで彼へ告げた。だけど心臓はフルマラソンを走り切ったのではないかと思うほどに激しく鳴り響いており、冬だと言うのに額からは汗がにじんでいる。


「そうだね。お昼休みだから……」


 そんな私に動じることなく、柊君はのんびりした口調で話し始めた。


「食堂? それだったら――」


 柊くんが私に首を横に振って見せる。


「僕の昼はお弁当でね。それをゆっくりと味わえる場所を教えて欲しいんだ」


 そう告げると、柊君は手にしたカバンをポンと叩いて見せた。




「へえー、こんな場所があるんだ!」


 私が持っていた鍵で屋上の扉を開けると、柊君は感動したように声を上げた。風は冷たいけど、小春日和を思わせる暖かな日差しが、事務棟の屋上へと降り注いでいる。


 ずっとここで育ってきた私にとって、屋上からの景色はよく見慣れたものだ。この町には高い建物なんかないから、遠くまでよく見える。


 少し先に見える小さな丘。その奥に見える高い山々のてっぺんには、もううっすらと雪がかかっていた。そう遠くないうちに、ここにも雪が舞うことだろう。


「柊君の住んでいた東京と違って、本当にど田舎だよね」


「そうかな。僕はこの町で育った真美さんの方がうらやましく思うよ。僕が暮らしていたところは、どっちを向いてもビルばっかり。本当に見たいものは何も見えない。ところで――」


 そう告げると、柊君は私の方へ視線を向けた。


「真美さんはどうしてここの鍵を?」


「えっ!? び、美術部に入っていて、放課後はここから風景を描いているの。それで先生から鍵を借りているんだけど、昨日はたまたま先生が先に帰っちゃって……」


「なるほどね。それで真美さんはここから何を描いているの?」


 私は正面にある小高い丘を指さした。その上を数羽の鳶がゆっくりと飛んでいるのが見える。


「なにがという訳じゃないんだけど、あの山を背景に街を描くのが好きなのよね。でもそればっかり。だからみんなからは呆れられているかも」


 同じ場所だが、やはり季節と時間でその表情は違う。その一つ一つを、自分なりにキャンパスの上へ救い上げるのが、私のじみ~~な楽しみだ。


「モネだね」


 柊くんが私のいつも見ている空を見上げながら答えた。


「まあ、やっていることは同じかもしれないけど、中身は……」


 そう告げた私を、彼が不思議そうな顔をして眺める。


「当たり前だよ。モネの目はモネの目さ。真美さんの目は真美さんの目。それぞれ違って当り前だろう」


『な、なに!?』


 私は心の中で悲鳴を上げた。心臓を何かで打ち抜かれた気がする。体中を血が駆け巡り、まるで我慢比べでもしているみたいに熱くなってきた。


「か、鍵はおいていくから、食べ終わったら閉めるのだけは、わ、忘れないでね」


 必死に言葉を絞り出すと、回れ右をして扉を指さす。この場に居たら、私の体は間違いなく爆発して跡形もなく消し飛ぶ。だけどその手が背後から握られた。


「ちょっと待って。実は真美さんにもう一つお願いがあるんだ?」


「お、お願い?」


 その台詞に思わず首をひねりそうになる。彼が私にお願いすることなど何かあるのだろうか? もしかして、一番近いお手洗いの場所?


 そんなことを考えていた私に、柊くんは少し恥ずかしそうな表情を浮かべつつ、カバンへ手を入れた。そして呆気に取られている私の前へ、お弁当を差し出す。


「二つ?」


「そうなんだ。いつもは僕が自分で弁当を作るんだけど、今朝は転校して最初の登校日だからって、母さんがお弁当を作ってくれていたらしいんだよね」


 そう言うと、柿色のランチョンマットに包まれたお弁当を持ち上げて見せる。


「でもそれに気付かなくて、いつも通りに作っちゃった。僕が作ったので良ければ、それを食べてもらえると嬉しいんだけど」


 彼が私に青色のランチョンマットに包まれた、もう一つのお弁当を差し出した。


「えっ、食べてもいいの?」


「無理にとは言わないよ。もし自分のお弁当があれば……」


「食べます!」


 たとえ焼肉食べ放題に行った後だろうが、絶対に食べる。食べるに決まっている。


 私は柊くんの気が変わらないうちにと、ひったくる様に青いランチョンマットに包まれた弁当を手に取った。そして私が絵を描く時に使っている折りたたみ椅子を並べると、二人でお弁当を開ける。


 銀色のフタを開けると、目の前に卵焼き、焼いた鮭の切り身、それにほうれん草のお浸しが飛び込んできた。お浸しにはちゃんと鰹節が振りかけられている。ごはんは丁寧にノリを巻いて、きれいな三角形に握られたおにぎりが二つだ。


『料理研究家ですか!?』


 そう思いつつ、私は柊君が開けたお弁当をのぞき込んだ。その目が思わず点になる。たぶん生姜焼きなんだと思う。それにソーセージ? 違う。黒く焦げているが、元はアスパラだった痕跡をわずかに残している。


「それって……」


 そうつぶやいた私に、柊くんが苦笑いをして見せた。私は自分の膝においた弁当を眺める。そうだ。自分で作った分だと彼は言っていた。柊くんのお母さんに、謎の親近感が湧いてくる。


「僕の母さんは家事が苦手でね。特に料理は大の苦手なんだ。でも僕は母さんの弁当が好きだよ」


 その笑顔に、再び心臓を撃ち抜かれそうになったが、ともかく親指の間に箸を挟みつつ、両手を合わせた。


「い、いただきま~す!」


「いただきます!」


 そう声を上げた彼が箸をつけるのを見て、私もとってもきれいに巻かれた卵焼きに箸をつけた。口の中に甘さとわずかな塩味が広がっていく。


「お、おいしい!」


「よかった!」


 柊くんが私を見ながら微笑んでいる。そのあまりにくったくのない笑顔に見とれて、思わず膝から弁当が滑り落ちそうになった。でもそれを見た柊くんはさっと手を出すと、弁当を支えてくれた。気付けば彼の顔は私の目の前だ。


 ああ、神様。この時をありがとうございます。本当に生きていてよかった!

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