ハシモトめ――!

 私は名残惜しみつつ、ドアの向こうに見える景色を眺めた。突き抜けるような初冬の青空の下に見えるそれは、いつもの見慣れた風景のはずなのに、今は全くの別ものに見える。


 当たり前だ。私はここで柊くんと、彼が作ったお弁当を一緒に食べると言う、かつてない経験をしたのだ。でも残念ながら、昼休みの時間も終わりに近づいている。


『時よとまれ、お前は美しい――』


 誰の言葉だっけ? 今ならその気持ちがよく分かる。もし人生で一度だけ時間を止められると言われたら、私は躊躇なくこの瞬間を選ぶ。そんな妄想に浸りつつ、屋上へ続くドアを閉めると鍵をかけた。


「本当に気持ちのいい場所だったね。またお昼を食べに来たいな」


「えっ!」


 柊くんの漏らした台詞に、思わず声が漏れた。でもすぐに私ときたいのではなく、お昼を食べにきたいだけなのだと気付く。


「また一緒に来てもいいかな?」


「ええっ!」


 その台詞に、今度は悲鳴が漏れそうになった。


「そ、そうね。私もお弁当を持ってきたときには来てもいいかな……」


 口ではそう答えたが、頭の中では家に帰ったら、お母さんに卵焼きの作り方を聞くと決めていた。絶対に聞く。何があろうと聞く。


 それよりも、今日はなんて熱いのだろう。本当にもう冬なんですか? 夏の異常気象がそのまま続いているとしか思えない。それになんだか体が風船にでもなったみたいに、フワフワした感じもする。


 どこかでストーブでもつけているんじゃないの? そう思って辺りを見回すと、柊くんが私をじっと眺めている。ま、まずいです。いつの間にか妄想モードに入っていたらしい。


「あっ、もうそろそろ教室へ戻らないとね」


 そう言いつくろいつつ階段へ足を向けると、その先にあるガラスの飾り棚が目に入った。そこには一体いつのものかすら分からない、古いトロフィーや盾が飾られている。そのガラスが私と柊くんの姿を映していた。


 そこにいるのはとっても見栄え麗しい男子生徒に、とってもじみ〜な女子生徒だ。現実へと引き戻された私の耳に、誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえてきた。


 事務棟の一番上の階は、校長室やら理事長室などがある階で人気ひとけがない。もっとも全くない訳ではなく、その一番端には数学科の部屋もある。どうやらそこから誰かが出てきたらしい。


 先生に見つかると、色々と面倒な事になる。そう思って手すりの影へ身を隠そうとした時だった。これと言って特徴のない、じみ~~な姿が目に入る。


「ハ、ハシモト!?」


 どうしてお前がここにいる!? ハシモトは私たちに気づくことなく、階段を下の階へとじみ〜に降りていく。


「彼、同じクラスだよね。もしかして真美さんの彼氏?」


 その姿を手すりから身を乗り出して眺めた柊くんの口から、全くもって意味不明な言葉が聞こえた。


「あ、あり得ません!」


 即座にそう叫んだ私を、柊くんが当惑した顔で見る。な、なんてことでしょう。さっきまでは間違いなく世界中の幸福を独り占めしていたはずなのに……。


『ハ、ハシモトめ――!』


 私は心の中で絶叫した。く、黒猫なんてもんじゃありません。この疫病神! この世界で息を吸っていることすら許せない!


「違うの?」


「もちろんです。やつとは縁もゆかりもございません!」


 私はハシモトが彼氏なんかではないことを、私にとっていかに迷惑な存在であるかを説明しようとした。


「お前、ずっと後ろ見ていたじゃん。やっぱり尻がいい訳?」

「いや、あれはさ――」

「俺は胸だな」


 どこからか品のない会話が聞こえてくる。見ると数人の男子生徒が、元気にじゃれ合いながら廊下を歩いてきた。まだ幼く見えるので、きっと一年生だろう。


 どうでもいいけど、こんな時に下ネタなんて話すな! このくっそうざったい会話も、全てはハシモトのせいだ。私がハシモトを頭の中で三回ぐらい平手打ちした後だった。


 一人が後ろ向きに歩いていた生徒の肩をつつく。その拍子に、押された生徒は足を滑らせると、かなりの勢いで廊下に置かれた飾り戸棚へ激突した。


 ドン!


 思いのほか大きな音が廊下に響く。でもそれで終わりではなかった。飾り棚の一番上に置かれた大きなトロフィーが、ゆっくりと倒れるのが見えた。一つだけではない。棚でも外れたのか、それが次々と倒れていく。


 ガシャン!


 盛大にガラスが割れ、砕け散った破片が、映画のシーンでも見るように廊下へ降り注ぐ。だけどこれはCGなんかじゃない。本物だ。


「痛てぇー!」


 廊下から悲鳴があがった。見ると先ほどの男子生徒の一人が、足を抱えてガラスの破片の中で座り込んでいる。その足元が見る見るうちに赤く染まった。一緒にいた男子生徒たちは、あまりに突然の出来事に、ただ立ち尽くすだけだ。


「これはまずいな……」


 そうつぶやくなり、柊くんは階段を駆け下りた。そして辺りに散らばるガラスをものともせず、倒れこんだ生徒の元へ膝まづく。


 私もその後を追った。近づくと、足元にある血だまりがどんどんと広がっていくのが見える。柊くんは彼の足の傷口を確認すると、首からネクタイを外して、それで膝をきつく縛り上げた。


「血管を切っている。君たちのネクタイも貸してくれ」


 柊くんは茫然とこちらを見ている生徒たちへ声をかけた。でも出血に驚いたのか動こうとしない。彼らに代わって、私が胸元のリボンを外して彼へ差し出す。柊くんはリボンで膝をさらに縛り上げた。


 それを見て、やっと自分たちが何をすべきかを思い出したらしい。男子生徒たちも次々にネクタイを外す。


「先生に連絡を。それと救急車を呼んでくれ」


 私は救急車を呼ぼうと、ポケットから携帯を取り出した。そうだ、救急車って何番だっけ? 焦りのせいか、そんなことすらすぐに思い出せない。


 やっとそれが119番であることを思い出し、番号を押そうとしたが、手が滑ってガラスの散らばった床へ落としてしまう。慌てて拾い上げて、血に汚れてしまった画面へ119を押した。


「119番です。火事ですか? 救急ですか?」


 電話の向こうから男性の落ち着いた声が聞こえてくる。


「きゅ、救急です!」

「場所はどちらですか?」

「旭丘高校です」

「旭丘高校のどちらになりますか?」

「こ、校舎内です」


「どうしましたか?」

「生徒が……」


 なんて言えばいいのだろう? 言葉が口から出ていかない。慌てふためく私に、ランチョンマットを手に傷口を押さえていた柊くんが、私に向かって首を傾げて見せた。その耳に携帯を押し付ける。


「左足ふくらはぎ上部での深い裂傷です。出血がひどいので、血管を損傷したようです。はい。現在は左足の止血点で止血の上、患部を圧迫しています」


 柊くんが冷静に答えていく。


「どうした!」


 板橋先生の声が聞こえた。数学科の部屋から駆けつけてくれたらしい。だが柊くんが救急へ電話しているのを見ると、口を閉じてその様子を眺める。

 

「はい。男子生徒です。君、血液型は?」


 柊くんが男子生徒へ声をかけた。だが生徒は顔をしかめて悶えるだけで、彼の問いかけに答えようとしない。


「真美さん、彼の内ポケットを見てくれる」


 柊くんの指示に、青白い顔をしている生徒の内ポケットへ手を差し出す。その手が赤く染まっているのが見える。さっき携帯を拾った時についてしまった?


 でもそんなことを気にしている場合じゃない。内ポケットに入れた手が何か固いものに触れた。この男子生徒の生徒手帳だ。


「そこに血液型は書いてある?」


「最後のページに記入してあるはずだ」


 背後に立つ板橋先生から声が掛かった。一番後ろを開くと、そこにO+とある。


「O+よ!」


 そう告げると、柊くんは携帯の声に耳を傾けた。


「10分以内に到着の予定だそうです。入口からここまでの案内の準備をお願いしますとの事でした」


「分かった。君たちは確か……」


 板橋先生が私たち二人を眺める。


「2Aの柊です」

「同じく2A の伊藤です」


「傷の圧迫は私が代わろう。保険の金沢先生へも連絡したので、すぐにこちらへくるはずだ。君は保健室で傷の手当てをしなさい」

 

 そう指示すると、板橋先生は私の方へ視線を向けた。慌てて自分の体を見ると、手からぽたぽたと血が流れている。どうやらさっき携帯を拾う時に切ってしまったらしい。興奮していたせいか、全く気が付かなかった。


「柊君、君もどこか怪我をしているかもしれない。一緒に保健室へ行きなさい。それと二人ともよくやった。ありがとう」


 柊くんは立ち上がると、板橋先生へ場所を開ける。そして血だらけになった手を柿色のランチョンマットで拭くと、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。


「ちょっと痛むかもしれないけど、我慢して」


 そう告げると、私の手のひらにそれを巻いてくれる。最後にきつく縛り上げると、立ち尽くす私を少し照れた顔でのぞき込んだ。


「あ、あの……」


 そんな表情で見つめられると、本当に心臓が爆発しそうになってくる。


「どこに保健室があるのか、僕は知らないんだよ」


 そう告げると、彼は軽く肩をすくめて見せた。

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