第30話 最後の女



「千葉、お前。もしかして西田先生に脅されていたのか?」


 白石くんがそう言った瞬間、殺意が一層濃くなるのを感じた。

 大好きな男の子を本当に殺して良いのだろうか。白石くん程、好きになれる男の子はきっともう二度と現れないだろう。こんな素敵な男の子を本当の本当に殺して良いの? ずっと迷っていた。

 だが、その迷いはこの瞬間消え失せた。

 この子はダメだ。危険だ。やっぱり殺すしかない。



 沈黙を続けるウチに耐えかねてか、白石くんが再び口を開いた。


「千葉が市川奏恵に会いに行ったのも、市川奏恵が千葉を拒絶せず会ったのも、何かがおかしい。百地刑事に調べてもらったが、二人に共通点なんて何一つなかった。だけど——」


 白石くんの蒼い瞳に貫かれる。全てが見透かされている気がした。


「——実はあるんだろ? 隠された共通点が」


 拘束されて追い込まれているのは白石くんの方だというのに、何故か白石くんが恐ろしく思えた。凶器を握って一歩、また一歩と近づかれているかのような恐怖を感じる。

 ウチの恐怖を知ってか知らずか白石くんは淡々と続ける。


「市川奏恵は弱み売買サイトで西田先生に買われ、脅されていた。いや、あるいは西田先生自身がサイトの運営者だった。そう考えれば、全てがすとんと腑に落ちる」と白石くんが言う。心臓を掴まれた心地だった。


「市川奏恵は西田先生に弱みを握られ、性的な被害にあっていた。それが西田先生を殺そうと思い立った理由なんだろうね。で、千葉も同じく西田先生に弱みを握られていた。だけど、運が良いことに千葉の弱みを握る唯一の人物である西田先生は、誰かに殺されてこの世を去った。千葉にとってはこの上なく都合の良い展開だね」


 焦燥感に駆られる。このままだと全て暴かれてしまう。

 どうせ殺すんだから良いじゃん、ともう一人のウチが言う。

 そうだ。殺そう。もう殺そう。本当は殺すのはまだ先の予定だったけど、でももういいや。殺ろうよ。

 だけど、身体が動かなかった。

 彼の推理を聞きたい。彼の知性に、脳に、思考回路に、もっと触れたい。そう感じている自分がいた。殺すのはその後でも問題はないはず。


「だけど」と白石くんが言う。「千葉の脳裏に焼き付いた恐怖は、余程ひどかったようだね。お前は後になってから気付いた。西田先生が千葉の弱みを文字に起こして持っている可能性に」


 ここまでくれば、もはや恐怖も焦燥もなくなった。

 尊敬の念しかない。やっぱりウチの好きな人はすごい。顔が良くて、性格が良いだけじゃない。こんな男の子は、おそらく未来永劫生まれない。この世界の宝だと、断言できた。

 そしてウチはこれからその宝を自らの手で粉々に打ち砕かなくてはならない。本当に残念でならない。


「警察は個人情報を漏らしはしないが、僕は警察の捜査に協力してはいても一般人だ。それも同じ学校の生徒。千葉は僕にその情報が渡ることを恐れた。だから、僕が千葉の秘密を得たかどうか確認するために、僕を監視してたんだろ? 郵便受けを漁ったり、ストーキングしたり」

「ウチだって気付いていたの?」ようやく声がでた。少し声が上ずった気がした。

「いや気付いたのは今だ。千葉はストーカーまがいのことをしても、白黒はっきりしなかったから、今回の誘拐に踏み切ったんだな」

「そうだよ。もうどちらでもいいやって思って。白石くんがウチの秘密を知っていようといまいと、殺してしまえば同じこと」


 もう話は終わったようだし、いいかな。最初の2つの目的の内、1つは飛ばしちゃうけど、もう殺っちゃっていいよね。

 ウチはゆっくりと白石くんの首に手を重ねた。細く美しい首。可愛らしさと色っぽさが奇跡的なバランスで共存している。神の身体のようなそれは、しかし簡単につぶせそうで、脆く儚い。


 神を殺す。

 殺人と殺神。背徳的な行いは、妙にウチを興奮させた。

 不意に白石くんが声を発した。






「僕が好きなの?」





 ドキリとした。一言も言葉にしていないのに。顔にも出ないように気を付けていた。なのに、どうして。その答えはすぐに白石くんの口から発された。


「中学の時も僕のストーカーだったよね、キミは」と白石くんは笑った。決して責めるような口調ではなかった。昔を懐かしむような優しい笑み。


「覚えて……いたの?」

「そりゃね。あれほど強烈な思い出もない」と白石くんが苦笑する。その顔も可愛らしく、絵になる顔だった。


 あの時は真里亜先生が出てきて、迷惑行為を止めないなら警察沙汰にするのも厭わないと言い出すから、引き下がるしかなかった。

 だけど、もしも。


 もしも続けていたら。


 そうしたら、今頃白石くんはウチのものだったかもしれない。こんな悲劇的な結末を迎えることもなかったかもしれない。

 もう遅いことは分かっている。

 どうあってもウチは白石くんを殺すしかない。それはもう変更のきかない決定事項だ。

 ならば、せめて。

 せめて、最後に白石くんと愛し合いたい。


 諦めていたもう一つの目的の方が息を吹き返した。

 ウチは白石くんの首を絞めるように触れていた手を彼の頬を挟むように移動させた。


「白石くん」と彼の名前を呼ぶと、心臓が一層鼓動を速めた。「最後にウチを女にしてくれないかな。西田との愛のないクソみたいなセックスじゃなく、とろけるようなセックスで」


 白石くんのおでこにウチのおでこをこつんと合わせる。良い匂いがする。胸の奥がギューっと凝縮されるような痛みを覚え、同時に愛おしさに満たされる。

 股がひどいことになっていた。パンツを貫通してショーパンまで濡れていた。


「もし断ったらどうなるの?」と白石くんが言う。

「ウチは無理やり犯したりはしないよ? その時はすぐに楽に殺してあげる」


 自分が弱みを握られて地獄のような苦しみを受けてきたのだから、無理やり犯したくはない。白石くんと愛のあるセックスがしたい。

 そして、その後で。いや、挿入しながら、愛の中で殺してあげよう。鼻をふさいでキスで窒息死させてあげるのも良い。うん、そうしよう。

「千葉」とウチを呼ぶ白石くんの声で、ハッと我に返った。「何?」



 白石くんは優しく微笑んだ。


「いいよ。おいで」


 発狂しそうなほどの喜びがウチの心をかき乱した。やっと結ばれる。結ばれて、そしてウチが白石くんの最後の女になる。

 ハァハァと荒くなった自分の呼吸がやけに大きく感じられた。

 ゆっくりとハルくんの顔に、唇を寄せる。

 自分の身体が、手が、足が、唇が震えているのが分かる。恥ずかしい。だけど、微笑んで私の唇を待っているハルくんをあんまり待たせてもいけない。ハルくんは拘束されているのだから、ウチからいくしかない。


 ハルくんの唇に目が行く。艶やかで、色っぽい。普段は子供みたいに可愛らしいハルくんが今は大人の色気を発してウチを惑わしている。脳が溶けているかのような感覚に襲われ、ぼんやりとして思考が回らない。

 あと数センチでハルくんの唇だというところで、鼻からツーっと血が垂れた。慌てて、ベッドのサイドボード上のティッシュを何枚かとって鼻に当てる。


 血が止まった頃、ハルくんが「大丈夫?」と声をかけてきた。自分を殺そうとしている相手を気遣った言葉に、溜まりに溜まった愛おしさが弾けた。

 ウチはハルくんの首に腕を回して勢いよく唇を合わせた。そのまま勢いに任せて舌をねじ込む。ハルくんはウチの舌を優しく迎え入れてくれた。


 どれだけそうしていただろうか。


 幸せだった。多分脳は完全に溶けて消失している頃だろう。

 もっと。もっと味わいたい。ハルくんの太ももを挟んだウチの股はもはや目も当てられない様であり、ハルくんの太ももまでびしょびしょに濡らしてしまっていた。まだキスしかしていないのに、これだ。これ以上の幸せがあるというか。愛のあるセックスはこんなにも甘美なものなのか。

 もう何もかもがどうでもよくなっていた。


「ハルくん。一緒に。ウチも一緒に死んであげるから。一人にしないから。だから、最後に一緒に気持ち良くなろう? ハルくんの全部をちょうだい」


 もう自分の命すら惜しくなかった。このセックスに全てを注いで、それでハルくんと二人で終わる。それで良い。幸せな幕引きだ。


 ウチが再びハルくんに口づけをしようとしたその時、小さくカチリと音が鳴った。ハルくんはそれを聞いて、いたずらっ子のような笑みを見せた。


「残念。僕は既に婚約している身でね。バージンはすでに予約済なんだよ。悪いね」


 次の瞬間。


 ドアが勢い良く開き、催涙弾が投げ込まれた。室内に煙が充満し、あっという間に何人も人が入って来る。

 気付いた時にはウチは組み伏せられていた。

 煙感知器が作動してけたたましくベルが鳴る中、ウチは人生が終了したことを悟った。

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