第31話 答え
ハルくんの手錠を外してから、力いっぱい抱きしめた。
ハルくんは抱きしめられながらも、黙々と、口と脚を服の袖で拭いていた。脚は擦りすぎて赤くなっていた。
間に合って良かった、という安堵の一方で、このベッドで千葉舞子によるハルくんへの暴行を思うと怒りでどうにかなりそうだった。
ぽつん、と足に雫を感じた。ハルくんに顔を向けると、目頭から口にかけて、一筋の軌跡があった。
ハルくんの涙はその一滴限りだった。だからこそ、その一滴が心から溢れたハルくんの苦しみのように思えてならない。ハルくんの頭に回した腕に込める力が無意識に強まった。
「真里亜、痛い」と言われ、腕を緩めると、ハルくんはぐすっと鼻をすする。胸が罪悪感で締め付けられた。
「ごめんね。怖かったよね」ともう一度ハルくんを優しく抱きしめると、「ちげーし。催涙弾のせいだから」とハルくんは強がりながらも、小さく震えていた。
私は「そうだね」とハルくんの拭いていた脚に手を乗せて、ハルくんの擦る手を止めた。代わりに、汚らわしい何かを上書きして消し去る思いで、優しく撫でた。
ハルくんが飛び出してからの会議室は大騒ぎだった。
冴島警視が刑事の何名かの名前を挙げ「あなた達は市川奏恵の家と病院へ行って、関係者から話を聞いてきて。百地、あなたは白石ハルくんの捜索」と支持を飛ばした。
私は考えるよりも早く「冴島警視」と彼女を呼び止めていた。
「私もハルくんの捜索に行かせてください。お願いします」頭を下げて懇願した。
冴島警視が少し考えてから言う。「いいわ。これから釈放の手続きをするけれど、それに先立って自由にしてあげる。ハルくんを見失ったのは我々、警察に落ち度があるのは百も承知だけれど、捜索を手伝っていただけると助かるわ」
私は一つ頷いてから、警察署を飛びだした。
「待ってください一緒に行きましょうよォ」と百地が後を追ってくる。
足手まといのアホは置いて行きたかったが、私のスマホはまだ押収されたままだ。公衆電話を探すのも手間だし、お金も警察署に預けてあるので所持金は0だった。百地を連れていくメリットはでかい。
「百地さん。ハルくんに電話はした?」と早足に歩きながら訪ねる。
「まだですぅ」と百地がスマホをポケットから取り出して、一回地面に落とし、慌てて拾っていた。どんくさい。
「なら、早く電話して」
スマホを耳に当てしばらく百地は固まるが、すぐに「ダメです。繋がりません」と言った。
「仕方ない。私たちも市川奏恵の家に行くわよ」
「え、でもそれは別の捜査員が——」
「それは母親への事情聴取のためでしょ。あの状況ならハルくんが向かう先は市川奏恵の家か、近隣の病院かくらいなんだから車で先回りするって言ってんの」駐車場に止めてあるパトカーの助手席に乗り込む。
「あー。なるほどォ」と百地も運転席に乗り込んだ。
「というか、あなた、運転できるんでしょうね」
「失礼ですねぇ! 百地はゴールド免許ですよ! 免許取ってから一度も事故ってませんし。というか一度も車運転してませんから」
「バリバリのペーパードライバーじゃない」
「なんかカッコイイですね。バリバリのペーパードライバー。『私現役バリバリのペーパードライバーなんだぜ?』」何故か百地が腹の立つ澄ましたドヤ顔で、エンジンをかけた。
「事故ったらあなたのスマホと財布だけもらって置いていくからね」
「ひどいですぅ強盗ですぅ。あ、あれ加速ゾーンですか」と百地が停車禁止区域を指さして言う。
「あなたはもう免許返納しなさい」
無事に市川邸まで辿り着きはしたが、危なっかしい運転に車内は何度か悲鳴があがり、まるで絶叫マシンにでも乗っているかのような乗り心地であった。私は二度と百地の運転はごめんだ。
落ち着きを取り戻したハルくんが「それにしても、よくここが分かったね」と白々しいことを口にした。
「そりゃあれだけ、千葉舞子、千葉舞子と連呼していれば聞き逃したりしないって。私は学校に連絡して住所を調べただけだよ」
ハルくんには盗聴器が仕掛けられていた。受信機を市川邸で発見した私たちは、そこでハルくんと千葉の会話を聞いていたのだ。
「気付いてたんだ?」とハルくんがにっこり笑う。泣いたからか、頬が少し赤い。可愛い。
「ハルくんこそ、よく盗聴器の存在に気が付けたね」
「確信はなかったけどね。でも、僕が一人になることってあんまりないし、今回だってたまたま一人になっただけなのに、ワゴン車と拉致要員を用意して不自然な程にタイミングが良かったから。盗聴でもされてたのかなと思ったんだよ」
「普通、そんな状況でそこまで気付けないって」
呆れた子である。命のかかった状況でよく頭の回ること。
しかも、ちゃっかりハルくんは拘束されてることまで、盗聴器を通して知らせてくれていた。
早い段階でハルくんが拘束状態にあることを知れたのは大きかった。あれがなければ今頃人質騒ぎに発展してた可能性もあった。
ハルくんを人質にされたら、もうこちらとしては打つ手はなく、相手の要求を呑むしかない。それは考えうる限りで最悪の状況と言えた。
「でも、なんで千葉だけじゃなく、市川も盗聴受信機を持っているって分かったの?」
私は疑問を口にしながら、市川邸に着いた時のことを思い返した。
市川邸は、チャイムを鳴らしても何の反応も返って来なかった。
百地が何度か繰り返しチャイムを押したが、やはり反応はない。
「仕方ない。百地さん、近隣の病院に片っ端から電話して。ハルくんが来ていないか確認するのよ」
「えー……片っ端っていくつくらいです?」
「少なくとも10はかけて」
「えぇ?! 10件も?!」
「私はこの近隣を探してみるから。頼んだよ」と駆け出すと後ろから「鬼ですぅ! ハル様の鬼畜性は真理亜さんの遺伝子なんです?!」と訳の分からない叫びが聞こえた。
結局、近隣にめぼしい情報はなく、私が市川邸前に戻ると、敷地に上がる段差に百地が腰掛け、項垂れていた。どうやら当たりはなかったようだ。
もういい加減じれったくなり、私がドアノブを掴もうとすると、
「ちょっとォ?! 真理亜さん、ダメですって! 令状もないのに」と百地に止められた。
「そんな事言っている場合? ハルくんの命が掛かっているの。邪魔しないで」
「そんな大袈裟な。ただハル様と連絡が取れないだけじゃないですかァ」百地は楽観的だった。確かにこの時はハルくんが誘拐されたなどとは思っていなかったが、電話にもでないのは明らかに普通じゃない。嫌な胸騒ぎがした。
百地を押し除けてドアノブを回して引くと、引っかかることなくドアが開いた。
「開いてる」と呟いて中に入る。
「あーあ。もう百地知らないですからね」と文句を言いつつも百地が後ろからついてきた。
ヤケクソになり冷蔵庫から麦茶を出してきて飲み始める百地を置いて、私は2階に上がった。『かなえ』と丸い字で書かれた掛札の部屋の前で足を止める。
何かあるなら、ここしかない。
私は市川奏恵の部屋の扉を開いた。
綺麗に整頓された部屋の中央にそれはあった。
まるで見つけてくれ、と言わんばかりにカーペットの上にポツンと置かれた機械。
(これ……盗聴器?)
前の職場では、押収品の一つとしてその類の装置はたまに目にする機会があった。
記憶の中のそれと、目の前の機械とは酷似している。
おそらく無線式盗聴器の受信機。
いつの間に2階に上がって来たのか、百地が後ろから「プレステですか?」とトンチンカンな事を言う。
電源を入れて、受信電波の調整をテキトーにやってみる。百地が「ウイイレあります? 得意なんですよォ」とコントローラーを探していたが、無視する。
すると、ざらついた音声で微かに電波をキャッチした。
『何故……拐した、千……舞……』
「ちょっと百地黙れ!」と咄嗟に怒鳴る。
「黙れはひどいですぅ」
『千葉……もしか……西田先……脅……たのか?』
千葉、と聞こえた。音声が不明瞭ではっきりとしない。だけど、これはハルくんの声。いくら割れていようと私がハルくんの声を間違えるはずがない。
焦燥感ばかりが湧き上がる。
(くそ、もっとはっきり聞こえないの?)
私はがむしゃらに受信機のつまみを捻って調整するが一向に音声は明瞭にならない。
「ハル様、千葉舞子と一緒なんですか?」
唐突に百地が言う。
動きを止めて百地を見る。百地は「あのギャルに何のようですかねー?」と何でもないことのように、また言った。
私は百地の両肩を掴んで「知ってるの?!」と揺さぶる。
「あがががが! ちょ、なんですか急に! 知ってるも何も真理亜さんの学校の生徒じゃないですか」
言われて思い出した。
確かにいた。千葉舞子。3年の生徒だ。特に深く関わったことはないが、名前は知っていた。
「なんで、あなたウチの生徒のこと知ってるのよ」
「ハル様が調べろって言うので、調べたんですよ。まったくワガママですよねハル様は。まぁそこが可愛いんですけど」
「いいから早く学校に電話して」
「自分で聞いといて?! 理不尽ですぅ!」
こうして私たちは千葉舞子の住所を手に入れたのだ。
「なんで市川が盗聴器を持っているのを知っていたかって?」とハルくんが言った。「今の今までに静観していたのに、急に市川が自殺しようとしたのが気になってたんだよ。僕が警察署で市川のことを話した途端、とも思えてね。2人が共謀して盗聴器を仕掛けた、と考えれば理屈に合う」
だけど、と思った。
どうして市川の部屋にあった盗聴器はあんなに分かりやすいところに置かれていたのか。
口に出そうとして、既のところで思い留まる。言っても仕方のないことかもしれない。答えの出ない問答ほど無駄なものなどない。
「真里亜はようやく釈放されたんだね」とハルくんが笑った。
「うん。特別に手続きより先に解放してもらったの」
ハルくんは「良かったね」と言いながら頭を私の肩に預けてきた。心臓が限界まで収縮されてしまったかのように締め付けられてから、高鳴り始めた。
(え、なんで?! ハルくんから?! うそ、デレ期?! 手も繋いでもらったことなかったのに!)
「本当に良かった」とハルくんは繰り返す。
「ハルくんのおかげだよ。本当にありがとう」激しい動悸と緊張で少し声が上擦った。
「別に僕は何もしてないし」とハルくんは目を逸らす。照れてる。可愛い。
「何もしてないわけないじゃない。ハルくんが頑張ってくれなかったら、私はまだ留置場にいたところだよ。ハルくんが真実を暴いてくれたから、私は出られた」
ハルくんは遠い目をして「真実、か」と呟いた。それから「真実はやっぱり明らかになった方が良いと思う?」と私に尋ねた。
「それは……そうでしょ」
「真実が人を不幸にするとしても?」
ハルくんの蒼い瞳は今日も綺麗に澄んでいる。だけど、そこに影が差して見えるのは、何故だろう。
何故か、今、この問いの答えを間違えてはいけない気がした。
「少なくとも私はハルくんが真実を見つけたから救われた。やっぱりハルくんは私のヒーローなんだよ」
「ヒーロー?」とハルくんは問い返した。「僕はヒーローじゃない。ヒーローってのは皆を救うものだろ? そこに差別や区別なんかない。全員救う。でも僕はそうじゃない」
「でもハルくんは私を——」
「——真理亜だからだよ。真理亜だから僕は」
ハルくんの言葉が途切れた。
真理亜だから僕は——
僕は、何?
教えてハルくん。
私は君にとっての、何?
教えて。
私はハルくんに顔を向けた。
言葉を求めて。
答えを求めて。
ハルくんは——
唇を私に重ねた。
驚愕に一瞬見張った目をゆっくりと閉じて、私はハルくんの首に腕を回した。
唇と唇が触れるだけの、しかし終わらない幸せな口づけ。
ハルくんの『答え』を受け止めるように、私はハルくんの想いに応えた。
唇を離す時、名残惜しいような、切ないような、そんな寂しさを感じた。
「物語みたいなヒーローなんていないんだよ。この歪な世界で、誰もが何かしら困っていて、苦しんでいて、助けを求めてる。全員を救うことなんてできっこない。だけど——」
ハルくんは何かを決心したように、強い眼差しで私を見つめた。
「——何を犠牲にしても真理亜だけは救いたかった」
恥ずかしそうにそう言うハルくんを見て、私は確信した。
私にとっては、君はやっぱりヒーローだよ。ハルくん。
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