第29話 誘拐
金属の擦れる音にハルは目を覚ました。
頭がクラクラする。目眩と吐き気がひどい。
どのくらい時間が経ったのか。
ハルは腕を身体に引き寄せようとして、再びじゃらりとした耳障りな金属音が鳴った。腕は少し動かしたところで、何かに引っ張られて、止まる。
手足が大の字にベッドに括られ、拘束されているようだった。
(おい冗談じゃねーぞ。何だこれ)
焦燥と不安の中で、何か一つでも情報を、と顔を少しだけ上げて辺りを見回すと、そこはワンルームの部屋のようだ。それほど遠くない位置に玄関ドアが見え、その隣にある浴室らしき所からシャワーの音が聞こえていた。
(落ち着け。まず状況を整理するんだ)
ハルは警察署を飛び出した後のことを思い出した。
時雨姉さんが追って来ていたことには気づいていた。運よくエレベーターが丁度来て、時雨姉さんをまくことはできたが、そこからは無計画だった。
警察署の外に出て、混乱して、でも居ても立っても居られなくて、とりあえず動かなきゃ、と思った。で、市川の家に向かったんだ。
我ながら考えなしだな、とハルは自分に呆れる。
まぁ、ここまでは良い。いや、バカ丸出しの行動で、全く良くはないが、今は良い。問題はこの後だ。
体力がもたなくて、道端で膝に手をついて呼吸を整えていた時にそれは起こった。
ハイエースがハルの隣に付けるように急停車した。何事かと思った時には、既に勢いよく開いたドアから腕が伸びていて、車内に引きずり込まれた。
奴らは2人いたと思う。運転手合わせて3人か。全員外国人。おそらく雇われただけだろう。
無理やりハルを車内に引きずり込むと、1人はハルの首を締め上げ、もう一人はハルの手足を結束バンドで拘束する。
そしてよくわからない錠剤を4錠くらい飲まされそうになったところで、ハルは大声で叫んだ。
奴らはハルの叫びには特に反応もせず、決められた作業を決められた手順で、といった具合にハルの口を力ずくで開けさせ錠剤を放り込んだ。多分危険ドラッグ。飲んでから、そう経たない内に意識がふわりと浮くような感覚があって、気が付いたら、ここ。このベッドの上だ。
一言で言えば、拉致された、ということになる。
状況を思い返していると、不意にシャワーの音が止まった。
ハルは部屋を見回す。時計はない。ベッドはそれなりに丈夫そうな鉄骨ベッド。手錠も金属製だ。どうやっても自力では抜け出せそうになかった。
窓は一つ。カーテンが閉じている。カーテンの隙間から光が漏れて来ないことを考えれば、今は夜。ハルが警察署を飛び出したのが午後3時頃だ。冬の日没を5時だとすると、少なくとも2時間以上は立っている。
浴室の扉が開いた。
中から一人のギャルが出てくる。キャミにショーパン姿で濡れた金髪は、少し傷み、ごわついている。
「あ、お目覚めかな」と彼女は言った。
「千葉舞子」とハルが呟くと「うん。正解」と返ってきた。
「ウチのこと知ってたんだ?」
「まぁね」
実際、千葉舞子のことは百地に頼んで調べてあった。まだ立ち入り禁止だった校舎内にいたこと、市川邸から出てきたことを考えれば、当然マークしておくべき人物だ。
千葉は髪の毛を拭きながらゆっくりと、ハルに近づく。もこもこのショーパンから肌がなまめかしく伸び、少し赤みがかって魅惑的な色気をまとう。ハルの拘束されているベッドに千葉が腰を下ろした。
「でも、あんまり驚かないんだね?」と千葉がハルのへそ辺りにそっと手を置くように触れ、「誘拐犯が私だって分かってたの?」とゆっくりと手をハルの体を沿わせて、下腹部を撫でた。くすぐったいが、反応するのも何となく癪で、鳥肌をたてながら堪える。
「なんとなくな」と強がるようにハルが言った。
「へぇ、すごい。どうして分かったの?」ちっともすごいと思っていなさそうに千葉が言う。
「どうしてってお前。この前、市川の家から出てきただろ。市川は基本的に面会謝絶している。それなのに、特に関わり合いのない千葉が家から出てくれば怪しいと思うだろ」
千葉はただ唇を歪めて笑う。その瞳には光がない。どこまでも深い沼のような瞳。
「市川の家で何してたんだよ」
「ちょっとお話ししたかったんだけどね。でも市川さんには会おうとしたけど会えなかったの」と千葉が肩をすくめる。
ハルは面倒くさそうにため息をついてから「嘘だろ?」と言う。「実は僕らはあの後、すぐに市川邸に入ったんだよ」
千葉が、それで?、と目で続きを促した。
「市川邸の居間にはグラスがなかった。キッチンにも。市川母は僕が面会謝絶を受けた時は飲み物を出してくれたが、千葉には出していない、ということになるな?」
それはおかしくないか?、と暗に含みを込める。
「ウチが市川さんのお母さんに嫌われているだけかもよ?」と千葉が笑った。
「奇遇だな。僕も市川母には嫌われているんだよ。でもジュースは出された。玄関先までお見送りまでされてね。ああいう世間体を気にする人間は、相手が嫌いだろうと一定のもてなしは欠かさない」
千葉は笑みを絶やさない。仮面をかぶるように千葉が笑う。本当の表情を隠すための笑み。
ハルは続けた。
「グラスがないということは、市川母と話す機会はそれ程なかったということ。つまり、千葉は市川本人に会えた。そうだろ?」
千葉はハルに答えない代わりに「いつも人を見てそんな風にうじゃうじゃ考えてんの?」と呆れるように言った。
「これから何するか分かる?」
空気が一転して重くなる。
ハルは答えを慎重に考える。余計なことを言えば、まるでそれが実現するかのように思えた。しかし、いくら考えたところで結局、行き着くところは変わらない。
ならば、気を遣うだけ面倒だ、とハルは思い直し、半ば投げやりに言った。
「最終的には僕を殺すつもりだろ? 千葉」
「まぁ、私の素性ばれてるしね。それしかないよ」あっけらかんと千葉が答える。
ハルは努めて怯えは見せないように言う。「だが、すぐには殺さない、だろ? 殺すだけならこんな拘束してお喋りする意味ないからな。サイコパスって可能性もあるけど」
「ひどいなぁ。サイコパスじゃないよォ」と千葉は甘い声を出した。この狂気に満ちた状況に、全くそぐわない態度はひどく不気味に思えた。
ハルはとにかく時間を稼ごう、と考えた。今のハルにやれることは、そのくらいしかない。千葉がその気になれば、いつ命を取られてもおかしくない状況。いわば、ハルの命は千葉の手中にあると言える。
「何故僕を誘拐した、千葉舞子」と話を振る。
「それは言えないな。自分で考えてみなよ、名探偵くん」千葉が嘲て口を歪める。
動機、なんてものは一番暴きづらい。人の考えることや感情は、『証拠」が残る訳でもない。想像力を逞しくして、状況から推察するしか方法がない。しかも、それも確証など得られない不確かなものだ。それでもハルは答えるしかなかった。今は一秒でも時間を稼ぎたい。
目を閉じて思考の水面に触れる。
波紋が生じる。
すると次々とこれまでの調査の記憶が頭の中に浮かび上がった。浮かんでは消え、そしてまた別の場所で波紋ができ、また浮かぶ。
——せっかく来てくれたのに、あの子ったら……
——作り話だから、それでも良いんだろうけど、私は……助けてほしいなんて言ってない
——弱み売買サイト、って知ってるか?
——よっぽど西田先生を憎んでたのかな
——弱み売買の一覧ページから、購入された者は消えるんだ
——もし次、ストーカーが現れたら、百地がぶっ飛ばしてやりますよ
記憶の渦に翻弄されながらも、掴み取った記憶を並べて組み上げていく。
そしてハルは一つの仮説に辿り着いた。
「千葉、お前。もしかして西田先生に脅されていたのか?」
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