第24話 助けて

 取調室に天使が舞い降りた。

 天使はためらうことなく、私の正面——主たる取調官が座る席——に腰をおろす。


「あの、ハル様。そこは私の席ですぅ」と百地警部補が言うと、ハルくんは記録がかかりに顔を向けた。「キミ、百地の椅子を持ってきてくれるかな。パイプ椅子で結構」

「え、あ、はい」記録係は慌てて立ち上がった。

「偉そう! ハル様部外者なのに一番偉そう!」


 記録係の人が椅子を取りに取調室を出て行った。

 突然の天使の降臨が私の精神を荒らしていく。


「え、なんで?! え…………えぇ?! なんでハルくんが取調室にいるの?!」

「そりゃ真里亜を取り調べるためだろ」

「理由になってないんだけども?! 私の無実を証明するって言ってた子がなんで私を取り調べるのかな?!」


 ハルくんは面倒になったのか、百地の方を向いて、親指で私を差し『やっちまいな』とジェスチャーした。百地は神妙に一つ頷いた後、顎に手を当て『何をだ?』とジェスチャーする。打ち合わせくらいしときなさいよ、と言いたくなるダメっぷりだ。ハルくんは諦めて私に向き直った。


「取調べって一回してみたかったんだよね」

「そんな理由で取調室に来ないでもらえる?!」


 というか、何入れてんだよ。部外者——それも被疑者に近しい者——を何入れてんだよォ。

 いや、それだけハルくんが捜査本部の連中に信用されている、ということか。人の懐に入るのが上手いと前々から思っていたが、ここまでとは。ハルくん……恐ろしい子。


 ノックもなく扉が開くと、記録係の人がパイプ椅子を持って戻ってきた。

 百地警部補がパイプ椅子を受け取り、ハルくんの横に椅子を開いて座る。本当にそっちに座るんだ。威厳もくそもないが、ハルくん相手では致し方ない。


 では改めて、とハルくんが仕切りなおした。

 いよいよだ。いよいよ、ハルくんの取り調べが始まる。どんな厳しい追い込みがあるのだろうか。少しドキドキしながら、私はハルくんの言葉を待った。


「…………味噌汁、飲むか?」


「初手、味噌汁! せめてカツ丼にしてくれないかな?! いや初手カツ丼もおかしいけども!」

「カツ丼は僕が食べるんだからダメだよ。付け合わせの味噌汁ならあげる、ってこと」

「ハルくんが食べるんかい!」


 百地が「食いしん坊、可愛い❤︎」と目をとろけさせている。それについては「確かに」と同意せざるを得ない。

ハルくんがまたも記録係に顔を向けて言う。


「あ、僕『松』で」

「あ、百地は一歩引いて『竹』で。あ、真里亜さん、ごちになります」

「私が払うんかい! てか、その『あ』て何?! すごい腹立つんだけど」


 ダメだ。こいつらダメだ。初手カツ丼と初手味噌汁が並んでいるんだもの。カツ屋のセットみたいになっているんだもの。

 もっとまともな人を寄こしてくれないかな?!

 記録係の人は注文をしに席をたった。もっと文句言っていいんだよ、記録係の人。お願いだから、記録係の人に雑用させないで。記録させてあげて。


「百地、これ見て」

「え、ええええええ?! シークレットレアじゃないですかァ!」

「当たった」

「優勝すぎですぅ」


 取調官2人が関係ない雑談を始めた。

 取り調べろよ! 早く私を取り調べろよ! いや別に事件について尋問されたいわけではないけれど、関係ない雑談を繰り広げられるよりかはいくらかマシだわ!


 そうこうしているうちに記録係の人が戻ってきた。手には、カツ丼と味噌汁が乗ったおぼんを持っている。


「いただきまーす」

「わぁ美味しそうです」


 アホコンビが取り調べを放り投げて食事をとり始める。私は何故ここにいるのだろう。何を見せられているのだろう。

 私の前に置かれた2つの味噌汁がどこか儚げに湯気を上げていた。


「さて、腹も膨れたことだし」とハルくんが言ったのは20分後のことである。食べるのが遅い。百地なんて5分程で平らげていたというのに。


「僕が聞きたいのは1つ。キーボックスを真里亜が開けた時の状況だよ」ハルくんはさりげなく私の前に置かれた手つかずの味噌汁を引き寄せて、ズズズと啜る。

「真里亜さんがキーボックスを開けたのは確か西田が殺害された日の退勤時と翌朝の出勤時、ですね」百地も味噌汁を引き寄せて啜る。

「結局、あなた達が飲むのね、それ」と指摘すると、ハルくんに鋭い眼光で睨まれた。


「真里亜、僕は今大事な話をしているんだ。茶化すのはよしてくれ」

「大事な話をしているのなら、その味噌汁は一旦置いてくれないかしら」


 ハルくんは見せつけるように、再び味噌汁を啜ると取り調べを再開した。


「分かりやすいように、西田先生が殺害された日をA、翌日をBとするよ。で、確認だけど、A日の真里亜の退勤時、キーボックス内には職員室のカギが2本揃っていた、ということで間違いないね」 

「うん。それは間違いないよ。最後にカギを返却する人は返却簿に異状なしって書き込むから記憶違いってこともないはず」

「なら、B日の朝、出勤時にキーボックスを開いて、どう思った?」


 どう思った、か。死体を発見した日——Bの日——の出勤時の記憶を思い起こす。


「開いた時は何も思わなかった。けど、職員室まで行ってから『おかしいな』とは思った」


 ハルくんは「だよね」と一人納得していた。


「え、え、どういうことですか? 百地にも分かるように説明してください。小中学生に説明するように優しくお願いします」


 それで良いのか、百地警部補。

 ハルくんは無視して話を進める。


「キーボックスはA日の真里亜の退勤時、A日の被害者の来訪時、B日の真里亜の出勤時に解錠記録が残っていた、と僕は聞かされたけど、おそらくキーボックスの解錠記録は3回ではなく4回あるいは5回になっていたはずだ。違う?」


 ハルくんが記録係の人に顔を向ける。


「えーと……はい。おっしゃる通りです。報告書に4回と書いてあります」

「5回ではなく?」

「4回です。真里亜さんの出勤時には5分、間を置いて2回開いています」


 ハルくんは「いいね」と笑みを浮かべてから、味噌汁を飲みほした。


「どういうことですかァ?! 百地も話に混ぜてくださいィ」百地が足をジタバタさせる。手に持っている味噌汁が床に少しこぼれるが百地警部補は気にしない。


「真里亜がB日の出勤時にキーボックスを開いた時、カギは1本しかなかった。被害者のポケットに1本入っていたのだから、当然だよね。でも西田先生が死んでいるなんて知らない真里亜は、カギが1本しかないのは『誰かが先に出勤しているから』だと思ったんだよ」

「そうだよ。私が一番乗りなことが多いけど、そうじゃないこともたまにあったから。この日も、誰か先に出勤しているんだと思ってカギを取らずにキーボックスを閉めたの」

「そっか。既に職員室は解錠されているのに、もう1本カギを持ち出す必要はありませんもんね」百地が深く頷いた。


「でも」とハルくんが私の代わりに続きを話す。「職員室に行ってみると、カギが掛かっていた。だから『おかしい』と思った。そうだろ?」

「ええ。でも、それも少し不思議に思った程度だよ。たまにカギを返却し忘れて持ち帰っちゃう人がいるんだけど、それかなって思った。A日の退勤時にはちゃんとキーボックスに2本揃っていたから、私が帰った後に誰かが忘れ物でも取りに来て、そのままカギを持ち帰っちゃったのかと思ったんだ」


「だから、あまり気にせず、再びキーボックスを開いて2本目のカギを取り出した、ってことか」

「そ」


 なるほど、と百地が一瞬納得するが、すぐに首を傾げた。


「でも、それが何だって言うんです? ハル様は真里亜さんの無実を示すっておっしゃって勇んでここに来ましたけど、キーボックスを2回開けているからって真里亜さんの疑いが晴れるわけではないですよね」


 ハルくんは私を取り調べるためではなく、私の無実を捜査本部に分からせるために来たのか。目頭が熱くなる。


「そうだね」とハルくんはあっさりと肯定してから、「でも」と続げた。


「でもキーボックス内にカギが1つしかない時の自然な反応は、今真里亜が言ったようなものだってことは分かっただろ?」

「ええ、まぁ、はい」

「捜査本部は、真里亜がA日の退勤時にキーボックスの開け閉めだけをして、カギを返さず持ち帰った、と考えている。そうだったよね?」

「はい。そうです」


ハルくんがゆっくりと首を左右に振った。


「それはあり得ないんだよ」ハルくんは言う。「真里亜はカギを持ち去っていない」


「何故そう言い切れるんです? キーボックスの開け閉めは記録されても、カギの持ち出しについては記録されないから証明しようがないはずです」

「西田先生の動きを見れば、一目瞭然さ」


 百地は首を傾げて渋い顔を作った。

 私も少し考えて、ようやくハルくんの言わんとしていることが分かった。


「そうか。西田先生は1度しかキーボックスを開けていない。つまり——」


「——キーボックス内にはカギが2本あった、ってことですね!」と遅れて気づいた百地が強引に引き継いだ。いわゆる良い所どりである。百地を見ると勝ち誇った顔でこちらを見ていた。うざい。


 その通り、とハルくんがほほ笑んだ。


「もしも西田先生がキーボックスを開いた時、カギが1本しかなければ、わざわざもう1本のカギを取り出したりはしない。誰かが既に職員室に来ていると思うはずだからね」

「私のように」

「そう。だからカギはキーボックス内に2本あったんだ。少なくとも西田先生がやってくるまでは、ね」


 記録係がカタカタカタと猛烈にパソコンのキーボードを叩く音が鳴り続ける。ハルくんは百地が理解するのを待っているようだった。沈黙が続く。

 やがて、百地が「つまり」と口を開く。


「つまり、真里亜さんが西田殺害の後、普通にカギを使って施錠して去ったという説は通らない。と、いうことですね」


 ハルくんは答える代わりにニコッと笑った。「やっと分かってくれたの?」と言いたげな表情。


 やっぱりハルくんはすごい。私がどうやっても、証明できなかったことをいとも簡単にやってのけてしまう。ハルくんには本当に頭が上がらなかった。


 いつだってハルくんは私を守ろうとしてくれる。私がハルくんを守ると言っておきながら、私のせいでハルくんを危険に巻き込んでしまっている。


 このままではいつか取り返しのつかない事態が起こる。それだけが心配だった。ハルくんに何かあっては、私は生きていけない。自分の命よりも大切な存在が剥き出しで野に放置されている、そんな焦燥感に満ちていた。


「ハルくん」


 ほとんど意識せず、口をついて出ていた。


「もう十分だよ。ありがとう。ハルくんもこれだけ協力してくれたし、後はなんとかなるから。だから、もう大丈夫。もう捜査なんか協力しなくて良い」


 ハルくんは目をぱちくりさせて聞いていたが、やがて苦笑を私に向けて言う。


「こんなんで釈放される程、甘くないよ。真里亜が一番良く分かってるだろ?」


 その通りだった。

 警察にはメンツというものがある。他に目ぼしい容疑者もいないし、一度あげたホシは余程のことがなければ、翻さない。

 既に検察官に事件は係属しているが、未だ調査の主体は警察にある。期限ギリギリまで勾留され、最終的に『起訴』の判断がなされるだろう。

 真犯人を見つけるか、あるいはそれに繋がる強力な手掛かりを得るか、くらいしなければ、釈放は難しかった。


 自分の顔に張り付いた笑顔が引きつるのが分かる。

 気の利いた返答ができない。

 懸命にハルくんに私を諦めさせる言葉を探した。しかしながら、答えは出ない。










 沈黙が重くのしかかる。










 不意にハルくんが「真理亜」と私を呼んだ。








 不自然にほほ笑んだハルくんは、いつもの人を見透かしたような笑みではなく、年相応に幼く、か弱く、葛藤に満ちているように私の目に映った。

















「僕には、真里亜が必要なんだ」





 さみし気な眼差しが私の心を揺らした。


 ハルくんはいつだって人に好かれ、どこでだって上手くやっていく。きっと私が実刑判決を受けようがどこかで誰かと幸せに暮らしていく。私と関係のないところで、勝手に幸せになっていく。そう思っていた。私にとって受け入れがたいことだったが、懲役刑を受ける私と一緒にいてはハルくんの未来は潰れてしまう。

 だから受け入れるしかない。これは仕方のないこと。

 そう自分に言い聞かせていた。




 だけど。




 ハルくんの一言で光が差した。いや、魔が差した、とも言えるのか。

 それが善なのか悪なのか、私には分からない。分からないけど、私にとっては、それは間違いなく希望だった。






 いいのかな。










 その希望にすがってもいいのかな。

 ハルくんがそう言うのなら。そう言ってくれるのなら。

 私は——












「ハルくん」













 声が震えていた。発した声が自分のものでないかのようだ。言ってしまえば後には戻れない。全てを失うかもしれない。だけど、それでも。




 ——いや、もう考えるのはやめよう。




 大事なことは一つだけ。


 それは偽りのない私の気持ち。


 私は、ハルくんと一緒にいたい。


 わがままでも、大人げなくても、これが私の正直な願い。


 大丈夫。きっと上手くいく。


 ハルくんには私が必要で、私にはハルくんがどうしようもなく必要なんだ。


 ハルくんのためなら何だってできる。


 ハルくんとなら何だってできる。










 私は覚悟を決めた。



























「お願い。助けて、ハルくん」


 情けなかった。年下の男の子に助けを乞うなんて。

 悔しかった。何があっても守っていくと決めた大切な人を、巻き込んでしまった。


 だけどこれでハルくんを諦めないで済む。幸せを捨てないで済む。


 まったく。我ながら卑怯な女だ。ハルくんがなんて答えるか、なんて分かり切っていた。分かり切っていて助けを求めた。そして、やっぱりハルくんは言った。






「うん、任せて」






 ハルくんがニッコリ笑う。いつもの人好きのする可愛い笑顔。

 私も笑った。さっきまでの曇天が嘘だったかのように気持ちが晴れていた。もはやハルくんに任せれば、何も心配はいらない。そう思えた。彼に全てを委ねる。それだけで良い。そうすれば、必ず助けてくれる。必ず私を救い出してくれる。




 ハルくんは私のヒーローだから。






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