第23話 勝手
「塚地くんって運動音痴だよね」と三振してベンチに戻ってきた塚地にハルが言った。
「うるせぇ。てか塚地って呼ぶんじゃねぇ」塚地がバットとヘルメットを丁寧に地面に置く。
いくら体育とはいえ、この手のかじかむ冬に野球などするものではない。敵は1年A組であり、1年A組でない。寒さとの戦いだった。男子の運動神経など幼稚園女児と同程度である。誰もボールを前に飛ばせない。つまり攻めでは選手はベンチで凍え、守りでは守備位置で凍えるのだ。堪ったものではなかった。
塚地は悪態をつきながらも、ハルの横に腰を下ろす。なんだかんだハルとは仲が良い。
「最後のスイング、ウケる。SASUKEの迫りくる棒くらいのスイングスピードだったよね」とハルが手を叩いて笑う。
塚地の猫パンチがハルの肩に炸裂した。
「お前だって似たようなものだろォが」
「僕のは調子の悪い大谷選手くらいのスピードはあるから」
「だとしたら、お前世界レベルだからな。実際のお前は運動神経悪い芸人くらいのレベルだからな」
やれやれ、とハルが肩をすくめて、バットを拾いあげる。ハルの打順だった。
「おい、ヘルメット」と塚地がヘルメットをハルに差し出す。
が、ハルはちっちと指を振り、受け取らなかった。
「大谷選手がヘルメットをしてるか? そんなもの僕には必要ない」
「いや、大谷選手ヘルメットしてるわ。10割してるわ。お前、プロ野球見たことねえだろ」
「この前、飛行機乗るときはキャップかぶってるだけだったぞ」
「飛行機はな?! 飛行機でヘルメットかぶってたら逆におかしいだろ」
結局ハルはノーヘルでバッターボックスに立とうとして、先生に怒られ、ヘルメットをかぶった。
ストライクバッターアウトの声を聞くなり、ハルはバッターボックスの土をかき集め始め、先生に「ここは甲子園じゃないぞー」と再び怒られていた。
ハルがベンチに戻る。
そして三振したのに自慢げに塚地に問う。「どうだ、僕のスイングは」
「いや、お前三球見逃し三振だっただろ」
「塚地くんみたいに生き恥さらすより潔いだろ?」
「だれが生き恥だ」塚地くんの猫パンチが再び炸裂した。
3打者目も三振し、ハルと塚地は守りにつく。
塚地はセンターまで駆けると、パンパンとグラブに拳を打ち付けて、中腰に構え、打球に備えた。
そして、その真隣にハルが腰を下ろした。
「お前、守備つけよ」と塚地が言う。
「どうせ飛んでこないだろ」
「守備位置どこだよ」
「ファースト」
「一番いなきゃダメなとこォ!」
唾を飛ばす勢いの塚地を無視して、ハルは話を変えた。「なぁ、弱み売買サイトの方はその後、どうなんだ」
「あ?」
「調べてんだろ」とハルが言うと、塚地は一瞬間を置いてから、ああ、と答えた。
「まだ何も分かっていない。誰が運営してんのか、どうやって弱みを仕入れているのか。だが、一つだけ気にかかることがある」塚地はバッターボックスの方に目をやりながら、言った。
「サイトが固まっている」
塚地がハルを見る。どう思う、と尋ねているようでもあった。
「サイトが固まる、とはまた曖昧な表現だな。更新されていない、ということか?」と尋ねると、塚地が無言で頷いた。
「単に休暇中とか、メンテナンス中とかじゃなく?」
「今までは3日に1回は誰かの弱みが買われていた。それが、ここ最近は0だ。おかしくないか」
ハルは答える代わりに、質問を投げかけた。「どうして3日に1回買われていたって分かる?」
「表示が消えるんだ」
表示、とハルが繰り返すと、塚地は鋭い目で頷いた。
「弱み売買の一覧ページから、購入された者は消えるんだ。だが、ここしばらく一覧ページは同じ顔ぶれのまま、止まっちまった」
ハルは想像をめぐらす。まず一覧ページから気に入った人物の弱みを選択し、サイト管理人に「買います」と意思表示する。すると、代金を振り込めと連絡が来て、振り込むと「弱み」がメールか何かで送られてくる。こんなところだろうか。
「塚地くんはそのサイトに出入りできるのか?」
「いや、俺は無理だ。招待された上で管理人に許諾されないと、入れない。先輩が会員だったから、見せてもらったんだ。あ、先輩は購入していないぞ。興味本位で登録しただけだ」
興味本位でも趣味が悪い、と思ったが、ハルは黙っていた。
「いっそのこと、一人購入してみたら、どうだ? 購入できれば、サイトは運営中。返信が来なければ、管理人に何かあった、ということだろ」
「ばか、買えちまったらどうすんだよ。それに学生に手が出せる金額じゃねえ」
だとすると、とハルは思考に沈む。
メインターゲットは教師?
だが、教師相手にそんな商売をしていれば、必ず問題視されて対抗手段を立てられるだろう。僕が管理人なら、教師は招待しない。でも、生徒相手ではそんな大金を出せるわけもない。
いや、待てよ。特定の上客がいた?
ハル、と呼ばれて、ハッと我に返った。
「大丈夫か」
「え、あ、うん」と答えてから、「その先輩にさ」と続けた。
「『東堂ひなた』の弱みがそのサイトになかったか、聞いといてくれない?」
「東堂ひなた? 誰だそれ」と塚地が言う。塚地を責めることはできない。他クラスの女子を覚えている男子など、そうはいない。そのような変わり者ハルくらいのものだった。
「いいから」と強引に塚地に引き受けさせた直後だった。
キィンと金属音が鳴る。
続けて「おいファーストいねぇぞォ」と誰かの嘆きの叫びが聞こえた。
その試合、ハルのクラスは1-0で敗北した。
『東堂ひなた』は少し前まで一覧ページに表示されていた、と知らせがあったのは、翌日のことである。
♦︎
ハルが1年D組に入ると、キャーーーーーー、と叫び声が上がった。
まるで殺人事件でも起きたかのような叫びではあったが、色を付けるなら黄色、となる。
通常、男子生徒はG組に固められる。集団防衛により、女子から身を守りやすいように、だと思われる。G組が『1年
G組の女子は、成績の良い、品行方正な女子が選ばれるため、G組内は男子にとって比較的安全地帯なのだ。それ故に男子は休み時間にあまりG組から出ない。
血に飢えたワニが
だから、ハルがD組に単身乗り込んだのは前代未聞の蛮勇行為だった。シャッターの嵐がハルを迎える。
「ハルくん、どしたの」「え、マジ、やばァ!」「こっち向いてェ」「ライン交換しよ」「あぁあああああああああぁ」「良い匂いする」「ぇ可愛い」
群がるワニを「ええい、邪魔だ」と払いのける。ハルはワニの群れを引き連れて、一直線に目的の席まで歩み寄った。
自席に伏せていた東堂が顔を上げて「え」と、その顔を引きつらせる。
ハルが目の前にいた。その蒼い瞳は東堂の眉間を貫くように、真っすぐと見据えられている。「東堂さん」とハルが言った。「一緒にお昼食べよ」
キャーーーーーー、と誰かの2度目の叫びが教室に響いた。今度のは嘆きの叫びだった。
ハルに手を引かれるまま、教室を出た東堂は空き教室についたところで、「なんで」とそっとハルの手を振りほどいた。
「なんで私を誘うの。話したことないよね」と床を見つめて東堂が言う。
ハルはしゃがみこんで無理矢理東堂の視線内に入り込んだ。百地から習得した裏技——もといウザ技である。
「話したことないからだよ」ハルがほほ笑むと、東堂は顔をそむけた。
ハルは構わずお弁当を広げる。手製のお弁当だ。東堂は無理矢理連れてこられたので、手ぶらだった。ハルは東堂の前にもう一つお弁当を広げた。今朝、いらないといったのに押し付けられた百地お手製のお弁当である。
「白石くんと話したことない女子なんて、たくさんいると思うけど」東堂の態度はそっけない。ハルと対峙した女子の反応としては極めて珍しく、却ってハルは親しみを覚えた。
ハルは答える代わりに、「東堂さん、彼氏いる?」と尋ねた。
「え、あ、い、いないよ」東堂は少し顔を赤くする。
——が、続けて投げかけられた言葉に顔を硬直させた。
「愛人は?」
「いないよ」とかろうじて東堂が答える。
ハルは東堂の目を見つめていた。怯えをにじませた瞳は、懸命にハルを見つめ返す。頼むからこれ以上踏み込んでくれるな、と威嚇する小動物のようだった。
「脅されているんだろ」
東堂の瞳が揺れた。無言だった。それは肯定とも取れた。
長い沈黙の後、「違う」と東堂が言った。「私は知らない」
「怖がらなくて良い」
「怖がってない」
「僕はキミの味方だ」
「嘘」
「嘘じゃない。僕はキミを——」
「——やめて!」
ハルは黙る。窓の外から賑やかな女子生徒の笑い声がかすかに聞こえた。まるで教室の中とは別の世界のように遠くに感じられた。
「もうやめて」と今度はつぶやくように東堂は言った。
ハルは困惑した。東堂は助けを求めているように思っていた。江藤に強制的におもちゃにされ、困っている、悩んでいる、と思い込んでいた。それは思い違いだったのか?
——僕は東堂を助けて良いのか。
「自分勝手だよね」と東堂は言った。「アニメとか漫画とか小説とか。どの物語もヒーローは自分勝手に誰かを助けるんだよ。助けてほしいなんて、誰も言っていないのに」
「作り話だから、それでも良いんだろうけど、私は……助けてほしいなんて言ってない。助けなんていらない。……迷惑だよ」
東堂は席を立って、静かに教室を出て行った。ハルは取り残された教室で、東堂の言葉を
迷惑、か。
窓の外で女子生徒がふざけあう声を聞きながら、ハルは東堂のお弁当を片付けた。
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