第22話 取引

 吐き気を催す声と振動する電動マッサージ器が重なった嫌な音が脳裏に蘇った。瞬時に夢だと気がつくが、苦痛はちっとも和らがなかった。


舞子まいこ、もっと鳴けよ」


 鮮明に私の内側に刻まれている恐怖と嫌悪の記憶がレコードプレイヤーの針を落とすように正確に繰り返される。

 嫌悪の対象は西田だけではない。憎いのに身体を反応させてしまう自分への嫌悪も混じっていた。それは殺意や希死念慮とも言えた。


「あ゛ァぁあああぁぁぁあああ!」


 勢いよく上体が起きた。夢から浮上したのか、あるいは夢から目覚めた夢を見ているのか判然としない。

 ゆっくりと見回す。

 目に映るのは見慣れた自分の部屋だった。乱れた自分の息遣いと、窓の外の小鳥の歌声が重なる。唸りながら走る自動車の音が近づき、そして遠ざかった。

 朝、か。

 未だ大きく早い鼓動を続ける心臓を鷲掴むように胸を押さえた。

 毎日同じ悪夢に悩まされていた。気持ちが落ち着くまで、起き上がることさえできなくなる。厄介な夢。いや、記憶と言った方が正確かもしれない。

 不意にいつも西田が言う言葉が思い出された。


『お前は俺の玩具だ。飽きたら売ってやるから、精々それまで楽しませてくれ』


 落ち着きかけていた動悸が再び乱れる。

 大丈夫、と自分に言った。


 西田は死んだ。


 大丈夫。


 私は自由だ。


 大丈夫。


 私の弱みを知るものなど、もう存在しない。


 大丈夫。


 大丈夫。








 本当にそうか? と声がした。

 慌てて部屋を見まわしたが、誰もいなかった。


『俺が誰にも話していない、と何故言える?』


 頭の中に誰かいて、その人が喋っている。そうとしか思えない。声は頭の中から聞こえた。頭を握り潰すように押さえる。指に力が入り震える。


『俺がどこにも書き記していない、と何故言える?』


 言葉を発したいのに、口から出る声は、あ、あ、と意味をなさない呻き声だけだった。


『俺を調べれば、そいつは必ず見つかる。見つかれば、お前はまた元の木阿弥。誰かのオモチャだ』


「ぁ、ぁ、あ、ああぁあぁ」


 行き場のない苦悩が、意識せず口から漏れ出た。

 叫びながら、頭の中は冷たく静かだった。

 消さなきゃ、と思い至る。

 私の秘密を知っている者を消さなきゃ。警察は個人情報を漏らすことはないし、組織を潰すなど現実的ではない。ならば、私が消さなければいけないのは一人だけ。


『そうだ。殺すんだ』


 何度イッても続けられる愛のない地獄のような行為、もうそんなのは嫌だ。もう誰かのオモチャにされるのは嫌だ。もう脅されるのは嫌だ。



『お前の愛するあいつを』



 初めて会った時から、惹かれていたあの子を。

 私に優しく声をかけてくれたあの子を。

 私は。



















 白石くん——















 頭の声と、私の声が重なった。




「殺さなきゃ」





 ♦︎




 これを白石くんに付ければいいの? と市川は私が机に置いた盗聴器を拾い上げた。

 市川の部屋は必要な物があるべき場所に配置されただけの味気ない部屋に感じられた。年頃の娘の部屋としては、いささか殺風景とも言える。

 私が頷いて答えると「ストーカーなの?」と返ってきたので、「殺したいの」とだけ告げた。

 市川は特に取り乱す事なく「そうなんだ」と言った。

 この子も壊れているな、とその一言で理解した。

「なんで私が手を貸すと思うの?」

「あなただって、白石くんは邪魔でしょ。あなたの秘密も既に調べ上げているかもしれないわよ彼」


 白石くんが警察の捜査に協力しているのは学校での語り種だった。

 彼は優秀だということは誰もが知っている。事件解決に貢献したこともあるという逸話はあまりに有名だ。

 それは私が彼を殺害することを決めた理由でもあった。


「あなたは私の秘密を知ってるの?」と問う市川の瞳は狂気を映していた。返答を間違えればどうなるのかは見当も付かなかった。泣くのか、喚くのか、脅すのか、あるいは締め殺しにでもするのか。

私は「いいえ」と答えた。「あなたも私と同じ被害者だってことを知ってるだけよ」

 市川は、ふぅん、とどうでも良さそうに言ってから、

「でも、どうしてあなたが私と西田先生のこと知ってるの?」と尋ねた。もはや、ただのおどおどした冴えない女子には見えない。全てを覚悟した瞳で私を見据えていた。

 恐怖はなかった。ただ事実を話すだけだ。私たちは同じ境遇。協力者なのだと。

 私は意識的に優しい声を出して言った。「聞いたのよ。分かるでしょ? 彼女からしてみれば、それが私とあなたのためになると思ってのことよ。責めないであげて」

 市川は「分かってるよ」と強く頷いた。はなから責めるつもりなんてない、と言っているように感じた。長い前髪からのぞく目はどこか狂信的な光を宿しているように思えた。




「あなたがコレ盗聴器を仕掛けて、彼が一人の時に私が彼を殺す。あなたにとっても悪い取引ではないでしょ?」

「白石くんが一人になるタイミングを知りたいのね。いつも刑事さんと一緒にいるらしいからね」


 市川は盗聴器を机に置いて「だけど」と言った。

「だけど、どこに仕掛けるの? 私がバレずにポケットとかに入れられるとは思えないな」そう言いつつも盗聴器を私に返さないのは、基本的には依頼を引き受けるつもりだからだろう。

くつの中にでも入れておけばいい。そのサイズなら履いても違和感はないはずよ」

「白石くんと話している途中で抜け出すのね」

 私は頷いた。「トイレにでも行く、と言えばいいわ」

 市川はもう一度盗聴器を見てから、「いいよ」と言った。それから「でも」と続ける。

「受信機、私にもちょうだい。それが協力する条件」市川が手をこちらに差し出す。

「最初からそのつもりだよ」受信機器をカバンから取り出し、広げた。市川は広げられた受信機の一部を手に取る。「受信機は結構でかいんだね」

「長距離で盗聴するとなると、どうしてもこれくらいのサイズになっちゃうんだよ」


 市川は渡されたそれらの機器を試しもせずに押し入れにしまい、「これから白石くん達が来るから」と言い訳するように言った。

「なら、私も退散するわ」

「白石くんの『尋問』に立ち会ってもいいんだよ」冗談めかした口調で市川は言い、クスクス笑う。「好きだったんでしょ?」

 ギリ、と奥歯が擦れる音が耳の付け根辺りで鳴った。市川の揶揄するような視線に、私は怒りを抑えつけ、落ち着け、と心で唱える。

 本当に殺せるのか、と市川は私に言っているのだ。ここで取り乱してはいけない。彼を殺すのに、市川の協力は必要だった。

「いや、遠慮しておく」とだけかろうじて答え、私は立ち上がった。

「そう」という市川の声は、どこか愉快げに聞こえた。

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