第25話 救い

「東堂ひなたさん、取調べです」と若い看守が私の居室の扉を開いた。

 居室を出ると、廊下はストーブが稼働しているからか、居室内よりも暖かかった。

 身体を触られ、身体チェックを受ける間も、なんでこんなことになったのか、と考えていた。

 焦燥と諦観の狭間で、感情の渦に翻弄されるような思いだった。江藤から解放されたことを喜ぶ自分と、殺人の罪を背負って生きる将来を悲観する自分と、どちらも本当の自分だ。

 看守に連れられ、取調べ室に入ると切れ長な目が綺麗な黒髪の刑事さんが既に座っていた。傍にはノートパソコンを構えた女性も控えている。


天田 時雨あまだ しぐれよ」と黒髪の刑事が言った。アマダシグレ、と頭の中で繰り返す。一瞬遅れて、それが名前だと理解した。取調官なのだから当然知っているのだろうが、なんとなく自分も名乗るべきかと思い、「東堂です」と返した。時雨刑事は小さく頷いた。


 今日も冷えるね、と時雨刑事が笑った。

 はい、とだけ答える。

 お母さんは面会来てくれたの? と時雨刑事が聞く。

 今度は、いいえ、とだけ答える。

 同じような問答を何回か繰り返してから、時雨刑事がため息のような長い吐息を吹いた。愛想のない小娘に呆れているのか、あるいはこれからが本番と気合いを入れているのか。どちらだろう。

 時雨刑事が口を開いた。


「何故、江藤さんを殺したのかしら」16歳の未成年を相手にするにはいささか直接的なようにも感じられたが、同時に『殺人犯を相手にするにはそれが正解なのか』とも理解できた。

 ——だが、



「私はやってません」


 ノートパソコンのキーボードを叩く音が鳴る。突然警察がやってきて、殺人の容疑で逮捕されたのは2日前のことだ。なんでも私が江藤先生を殺したらしい。


「やってない、とは何をやってないの?」


 そして何をやったの?とでも言いたげな目が私を観察する。その鋭い目は私の一挙手一投足の全てに意味を見出してこじつけようとしているようにも見えた。


「私は江藤先生を殺していません」

時雨刑事は「そう」と言ってから、然程間をおかずに「なら誰が殺したの?」と尋ねた。

「分かりません」


 分からないものは分からない。

 私はただ江藤に脅されて、性的に弄ばれていただけです。そう言いたい衝動を抑える。

 私の秘密を警察などに渡してなるものか。せっかく江藤から解放されたのだ。もはや私の弱味を握る人物は存在しない。

 それに事実を言ったところで、「恨みはあったのね」と動機の補強に使われるだけだろう。ならば、癪ではあるが、好きであの男の愛人をやっていた、と装うのが良い。

 スマホの記録から全てバレるか、とも思ったが、幸いバレていない。私の方の履歴は連絡を取る度に削除していた。それが幸いしてのことだろう。

 隠し通すことが絶対に不可能、とも言い切れなかった。



「でも」と時雨刑事が言った。「殺人が行われたホテルの受付記録にはあなたの名前が書いてあるのだけれど」


 江藤はホテルで首を絞められて死んでいた、と前回の取調べで聞いていた。頭を鈍器で殴られ、意識が朦朧としているところを絞殺されたらしい。

 自分が江藤の肉のついた太い首を絞める姿は想像もつかなかった。


「知りません。私の名前を勝手に使ったんでしょう」

「あなたに罪を着せるために?」

「はい」


 時雨刑事ははっきりと否定はしてこなかったが、私の言葉をまるで真に受けていない様子だった。


「スカイセキュリティホテルは」と時雨刑事が探りを入れるように私を見て言う。「チェックイン、チェックアウトの両方を誰にも気付かれないように済ませ、秘密裏に部屋まで移動させてくれるサービスがあるらしいわね」


 なんとなく目を見られるのが嫌で私は下を向き、「はい」と答えた。

 事実だった。現に江藤はよく私を連れて、誰の目に映ることもなく——当然監視カメラにも映らず——その部屋に入っていた。

 まさかセキュリティの面では名高いスカイセキュリティホテルの最上級スイートルームで自分の命が終わることになるとは江藤も思わなかっただろう。生きていれば「話が違うではないか」と激昂しそうだ。

 時雨刑事にしても、スカイセキュリティホテルのステルスチェックインサービスには困らされているようだった。カメラに映っていない、というのは警察からしてみれば『最悪』だろう。


「ホテル側も誰にでもステルスサービスをするわけではない」と時雨刑事が言う。「最上級スイートルームを予約した客で、尚且つ審査が必要だそうよ」


 私は、はい、とだけ答えてから黙った。審査のことも経験しているから知っていた。初回の審査はまる一日かかる程だ。「どうして今すぐ出来ないんだ」と喚き散らす江藤が思い出された。


「厳格な本人確認の後、サービスは提供される。事件の日は江藤さんの運転免許証とあなたの学生証が受付で提示されている」


 言い逃れはさせない、という強い意志が感じられる。私の中を怒りと焦燥が入り乱れて、思考を鈍らせる。

「誤解です」とかろうじて言う。実際に発された私の言葉は怒りも焦燥も悲観も何も含まれていないような機械が発した言葉のようだった。いつもそうだ。私は感情を表現するのが苦手だった。何も感じないのではない。言葉に含められないだけなのだ。


「何が誤解なの」と時雨刑事が聞く。その言葉は怒りだとか蔑みだとか、その類の感情が含まれているように思えた。

 またか、と嫌気がさした。私の抑揚のない、あるいは感情のない言葉が誰かを怒らせることは、よくあることだった。

 慌てふためいて「誤解なんです」と訴え掛ければ何か違っただろうか。

 どのみち私には不可能である。諦め混じりにいつも通りの調子で口を開く。


「学生証は3日前から無くしてました」

「誰かがあなたの学生証を使って、あなたになりすまして江藤さんを殺した、といいたいの?」


 そうとしか思えなかった。

 私はそもそも、その日、江藤と会っていない。いつも急に呼び出され、そしておぞましい性欲の捌け口にされるのだ。普通の行為とはかけ離れたソレは——女の尊厳を踏み躙るようなソレは、私にとって地獄の時間だった。

 だが、そこまで頻繁に呼び出しがある訳ではなかった。その日も江藤からの呼び出しはなかったのだ。

 だから家にいた。誰もいない、食事もない、ガスも止められて凍えるような寒さの家に。いつものように、じっと身体を丸めて、外敵から身を守るように。


 にわかには信じがたい、といった様子の時雨刑事に、今度は私から釈明してみることにした。


「そもそも、何故私が疑われるに至ったんですか?」


 そこがまず不可解だった。私が江藤に弄られる時は必ずスカイセキュリティホテルだった。スイートルームでない時もあったが、稀だ。知り合いに目撃されている可能性は極めて低い。

 だが、時雨刑事は言う。「目撃者がいたの。あなたと江藤さんがスカイセキュリティホテルに入っていくのを見た、とね」


 ——白石くんだ。


 私は直感的にそう理解した。

 彼も、『江藤』とは言わなかったが、私が脅されていることを言い当てていた。

 いや待って、と自分の声が脳に響く。

 スカイセキュリティホテルに入っていくのを目撃されただけで、どうして脅されていると分かるの?

 普通に考えれば、『男に飢えて教師の愛人に落ちた女』に映るはずだ。

 まだ何か私の知らないことが裏で動いている。そしてそれこそが江藤の殺人犯に繋がっている気がした。

 しかしながら、私に冤罪を証明する手立てはなく、手がかりすらもない。

 終わった、と思った。同時にお母さんの顔が浮かんだ。

 碌な母親ではない。私がお母さんにもらった幸せなど、片手で数える程しかない。親としての最低限の務めも果たせない最低な母親。

 それなのに、私の人生が早すぎる終焉を迎えようとして、はじめに考えたのが、母のことだった。

 お母さん、どんな顔するかな。怒るかな? 笑うかな? 無関心に今までどおり過ごすかな?

 泣いたりは、しないか。お母さんは「馬鹿だね」と笑う気がした。


「私は——」


 声が震えたのが、自分でも意外だった。

 どうやっても表に出てこなかった感情がこぼれ落ちそうになる。


「——やってない」


 はじめて言葉に含めた感情は、絶望とか、焦燥とか、怒りとか、悲壮とか、そういったネガティブなものだった。

 涙が滲んで、時雨刑事の姿が歪む。だけど目は逸らさない。

 もはや私には、懇願するしか出来ない。

 時雨刑事の目は鋭く冷たい。情にほだされず、真実だけを射抜こうとする刑事の目。

















 だれか。

























 お願い。



















 祈りは言葉となり口から漏れる。

























「信じて」










 祈りを込めた言葉は奇跡を起こした。

 取調室の扉がノックもなく開いた。

 緩くパーマのかかった黒い髪を揺らしながら、彼は取調室にぺたぺたと入ってくる。


「しら、いし、くん……」


 今にも溢れそうな涙を堪えるみっともない私の顔を、白石くんは真っ直ぐと見つめる。

 蒼い瞳は自由を象徴しているように、広大で深い。

 彼はきっと世界と繋がっている。何故か根拠もなく確信した。

 彼が言った。










「僕は信じるよ」










 彼は薄らと笑っていた。

 多分彼には全てが見えている。

 私の中の怒りや、焦燥や、不安や、悲しみ、そして絶望は跡形もなく消え去った。

 僕の推理が正しければ、と彼が言う。










「キミはやってない」




 私は救われた。





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