第17話 市川邸

 書店の前を通り過ぎて、いつもなら信号を渡るところを今日は渡らなかった。

 隣を歩く百地ももちが目敏く言う。


「いつもの下校ルートを外れました。至急規定ルートに戻ってください」

「お前は管制室か」と目もくれずに言うと、「いえ、百地です」と返ってきた。

「別に寄り道くらい良いだろ。なんならお餅は先に帰ってて良いから」

「良いわけありません。未来の旦那は命に代えても守ります。百地です」


 いつお前の未来の旦那になった、と言うのも面倒でハルは無視して歩いた。

 花屋の角を曲がる時、百地がさらに言った。


「駄菓子屋なら逆方向ですけど」

「なんで高校生にもなって寄り道先が駄菓子屋限定なんだよ」

「ハル様は高校生になってもお可愛かわいらしいですよ?」

「うるせー」


 百地は邪険にされてもめげずに声を掛け続ける。それが百地の良いところでもあり、うざいところでもある。


「結局ハル様はどこに向かってるんですぅ?」 


 ハルは止まって、ため息を吐いてから、百地に振り返った。


「第一発見者のところだよ」白状するようにハルが言う。

「警察署ならこっちじゃないですけど」

「真理亜じゃないっつの。僕が言ってんのは、もう一人の方、第一発見者タイの人だ」

「ああ。タイ人の……そんな人いましたっけ?」

「そのタイじゃねーよ」


 もう一人の第一発見者、市川 奏恵いちかわ かなえはあの日から一度も学校に来ていなかった。

 無理もない。本物の死体——それも知った顔の死体——を見るのは、相当にこたえただろう。普通に生きていればナマの死体なんてお葬式でしか見ないのだから、市川が今回のことで精神的に参ってしまうのも頷ける。

 本当ならそのまま、そっとしておいてあげたいところだが、僕の方にも事情がある。彼女からの事情聴取は必須だ。


 市川の家は、豪邸、と言えば大げさだが、一般的なサイズの一戸建てよりも一回りも二回りも大きかった。

 立派な門扉の横にインターホンがある。ハルはその前に立って市川邸を見上げていた。


「………………」

「押さないんですか?」


 百地が咎めるように尋ねる。


「お、押すよ。押すけど? 押すけどさ、まず心の準備というか、会話の内容とかをシミュレーションして——」


 百地はインターホンを押した。

 ハルが慌てて姿勢を正し、百地がけらけら笑っていると、ドアが開き、ハル達は邸宅に招かれた。


 ♦︎


 ハルが飾られている賞状やトロフィーを勝手に見ていると、市川の母、静香がお盆を持って戻ってきた。

 ごめんなさいね、と静香がハルに言った。オレンジジュースがテーブルに置かれ、氷がカランと崩れる音が鳴る。

 ハルはトロフィーの前からテーブルに移動した。


「せっかく来てくれたのに、あの子ったら……」

「いえ、仕方ないですよ。あんなことがあったんですから」と百地が静香さんを気遣うように言った。


 普段は見せない百地の大人びた態度に、ハルは少しドキリとした。男とは得てしてギャップに弱い生き物である。

 普段からそうしてれば良いのに、とときめきを誤魔化すように呟くと、耳ざとくハルの呟きを拾った百地がこっそりとハルにウィンクした。


「あのトロフィー、市川さん——奏恵さんのですか?」とハルが聞く。

「ええ。中学の時の。都大会まで行ったんですよ?」


 ハルは自分で聞いておいて、へぇ〜、としか反応しなかった。百地が慌てて「すごいですね!」と取ってつけたように言った。


「奏恵さんは、普段、夜遊びとかするんですか?」とハルが脈絡もなく質問した。

 百地は「こら」とハルの口を押さえたが、静香さんには当然質問は届いており、静香さんは少し困ったように笑った。


「あの子は夜遊びなんてしたことありませんよ? いつも10時には寝てますから」


 ハルは百地の手で口を封じられ、もがもが何かを訴えかけるが、百地は決してハルを離さなかった。

 ハルは口を覆う百地の色白な指をぺろりと舐めた。


「んひゃァァ?!」と百地が手を引っ込める。ハルはその隙に質問を重ねた。


「お母さんは、事件のあった日、何してました?」

「あ! また、失礼なことを!」と百地が睨むが、ハルは無視して静香を注意深く観察する。

 静香は一瞬、顔を顰めるが、すぐにそれを打ち消した。慣れてるな、とハルは思う。


「私ですか? 私は夜は仕事でしたけど」

「何のお仕事を?」「ハル様良い加減にしてください!」

 ハルの口を塞ごうとする百地を押しやりながら、静香の声に耳を傾ける。

「水商売ですよ。夜出掛けて帰るのは深夜か翌朝ですね。あの日は確か朝帰りましたけど。私、犯人になっちゃいます?」と静香は笑って答えた。笑みの中に怒りが混じっているのが見て取れた。

「皆さんに一応聞いてるんですぅ、はぃィ」とついにハルの口を塞ぐのに成功した百地が猫撫で声で言った。


 結局、ハルたちはそれ以上の情報を得るでもなく、気まずい空気の中、ただお茶とジュースを飲んで終わった。

 百地が静香に深くお辞儀をして、市川邸を出ると先に出ていたハルはまたも市川邸を見上げていた。


 百地が「ちょっとハル様!」と文句を言いにずかずかと歩いて近づくとハルは「あそこが市川の部屋だよな」と呟くように百地に訊ねた。またも脈拍のない質問。

 ハルが見ていたのは市川邸の北側——玄関側——の2階の1室だった。


「え? あ、はい。そうみたいですね」と百地が答える。


 ハルは地面の土をぐりぐりと靴で踏みつけて、ふーん、と言ってから市川邸の門扉を開いて出た。



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