第11話 初手カツ丼
取調べ室はひどく冷えていた。
息を吐く度に視界にモヤが広がる。
面会室と比べても一目瞭然の寒さだ。きっと容疑者を締め上げて自白させやすくするためだろう。
取り調べる側の時は全く気付かなかった。何せ取調べを行う刑事はいくらでも着込むことができるし、留置場にエアコンなどないのは当然のことだと考えるため、そこに収容される者のことなど考えもしなかった。
スウェット越しにパイプ椅子の錆びた鉄の冷たさを感じる。
コートやダウンジャケットなど持ってないし、持っていたとしても領置されているため、自由に使うことはできない。貸し出された薄い生地のスウェットの上から身体を擦って暖を取るしかなかった。
ハルくんは寂しくて泣いていないだろうか。
困っていないだろうか。
ハルくんが「真理亜ぁ〜!」と叫びながら泣く姿を想像して、胸がキュンキュンした。そして自己嫌悪に陥る。ハルくんに迷惑をかけておいて最低だ。
……でも泣きながら私を求めるハルくんは尊すぎる。ヤバい。鼻血でそう。
そんな現実とは程遠いハルくんを妄想していると、取調べ室の扉が開いた。
メガネをかけた記録係と、ミディアムボブの顔が丸い若刑事が入室した。どちらも知らない顔だった。
若い刑事が私の正面に着席し、記録係は少し離れた席に着く。
早速丸顔刑事が口を開いた。
「カツ丼……食べます?」
えぇ……。初手カツ丼ですか?
普通、取調べの中で紆余曲折を経て、嗚咽を漏らしながら俯く被疑者の肩を優しくポンポンって叩いてから言うセリフじゃないかな、それ。いや、このご時世カツ丼出す刑事いないけどもね、そもそも。
「……いらない」と、とりあえず答えておく。
「そうですか」
「…………」
「…………」
え、待って。喋って? 取調べて? 早く。
何黙ってんのかな、この人。私も別に取調べてほしいわけでは全くないけれども、この謎の沈黙だけはやめて?!
人数合わせで呼ばれた合コンで友達だけ先にカップリングして去った後の空気くらい気まずいから! いたたまれないから!
丸顔刑事が何かを思いついた顔をして口を開く。
「私、
どうやら自己紹介らしい、と続きに耳を傾ける。
「——ハル様に嫁入り予定です。よろしくお願いします、お義母様。あ、牛丼食べます?」
ぶちっ、と切れてはいけない何かが切れる音がした。いや、キレる音がした。
「あ゛?」
殺人を犯したことはない。今回の逮捕も冤罪である。だが、目の前のこの女だけは殺しても良いと思えた。
百地刑事が「ひィィィイイい」と椅子ごと後ずさる。そして「豚丼が良かったですか?」と宣った。
「私をハルくんの婚約者と知っての狼藉かな?」
「知ってます。でもまだ結婚してませんし、指輪もしてないですし、婚約者〜と別れ〜れば、そ〜れで良い〜ってどこかの雪の女王も言ってたし」
「いや、それ言ってたのは雪の女王ではなく、トロールです。百地さん」と記録係からツッコミが入った。
百地刑事が椅子を元の位置に戻した。
「私、ハル様と行動を共にして、ハル様の優しさに触れて……思ったんです——」
そう言った百地刑事の目は真剣そのもので、強い意志を秘めていた。ハルくんへの想いが乗った眼差しだ、と思った。
だとしたら、その想いには真正面から受けて立つのがハルくんの婚約者である私の役目なのかもしれない。
私は百地刑事の言葉を待った。
「——ハル様とセックスしたいなァ、って」
「あ゛?」
私は百地刑事を殺すべく立ち上がったが、再び「ひィィィイイい」と椅子ごと後ずさり、逃げられてしまった。
何が強い意志だ。何が想いの乗った眼差しだ。ただの性欲じゃない!
「ていうか、早く事件のこと聞いてくれますか、百地さん」と、またも記録係からツッコミが入った。いや、ツッコミというよりもただのクレームに近い。
百地刑事は「あーはいはい。そっちね」と軽佻な態度で、再び椅子を元の位置に戻した。人をイラつかせる天才である。
「真理亜さん。あなた、被害者の西田さんとどんな関係だったんですか?」
「どんなって……ただの同僚だよ。キミが思っているような男女の仲ではないよ」
先回りして回答するが、百地刑事は納得とは程遠い渋い顔をしていた。ハルくんという完璧な婚約者がいるのに他の男に行く必要がないのは自明の理だと思うのだけれど。
「先日、被害者の自宅を捜索しました」
「ああ、ようやくしたの? 遅かったね」
「容疑者とは違いますから、いろいろと面倒ごとが多かったんです。で、昨日ようやく捜索したんですが——」
何故か百地刑事はニヤニヤし出す。
男の新入社員にセクハラするお局様みたいだ。なんとなく不愉快。
「——出るわ出るわ。大量でしたよ」と百地刑事が手をわきわきさせる。
「……何がよ」
ニンマリと笑って百地刑事が言う。
「SMグッズですよ」
……………………は?
「手錠とか、ボールギャグとか、蝋燭とか、鞭とか。それから——拘束具とか」
拘束具、のところで百地刑事がペロリと舌なめずりをする。
とてつもなく嫌な予感がした。
「ふ、ふーん。まぁ? 人の趣味は? 自由だものね? いいんじゃないの?」
百地刑事は「ですよねー。同感ですぅ」と胸の前で両手を合わせる。もちろん、この女はただの共感では終わらない。性格悪いな、と何となく感じ取る。ハルくんとはあまり関わらせたくない人物だ。
「特に、SMグッズ専門メーカーの『コブラ』のSMグッズがすごいですよねー。調べたら一つ何万もするみたいですよォ? 特にこの拘束具、これだけで15万ですって! あ、真理亜さんは知ってましたよねー」
百地刑事がさらっと危険球を投げてくる。
まずいまずいまずいまずい。あらぬ疑いをかけられている。いや、そもそもこの殺人自体があらぬ疑いなのだが、そうではない。
「ま、ままま、待って! 違うの! 決して! 決してハルくんに使ったりは——」
「——じゃあ何で拘束具なんて買ってんですか? それもコブラの15万円の高級拘束具」
「違う違う違う! 信じて! 違うの!」
違うしか、言葉が出てこない。
確かに買った。『コブラ』の高級拘束具買ったよ?
だけど、本当の本当にハルくんに使うつもりは全くなかったんだよ。そりゃハルくんが同意してくれたら、使うよ? 喜んで使うよ? だけど、そんなマニアックなプレイどころか、手を繋いだことすらないのに、いきなり拘束具を使用目的で買わないって! ただの私の妄想用の観賞用——あるいは一人プレイ用——だって!
ただこんな言い訳を並べれば、ドン引きは免れない。25歳の良い歳した女が、16歳の少年相手にマニアックな妄想をしているなど、死んでも言えない。
だが言わなければ——
「被害者とそういうプレイで楽しんでたんじゃないんですか?」
——こう来るわけである。
私がハルくん以外とえっちな事をするはずがない。たとえイケメン有名俳優だろうとお断りである。
だが、周りはそうは思わない。同じ趣味——西田先生のSMと私の崇高なSMとを同じと思われるのは心外だが——が見つかれば、繋がりを疑うのは当然と言えた。
百地刑事がトンチンカンな推理を続ける。
「被害者と真理亜さんは、あの日、どちらが受け役にまわるかで揉めに揉めた」
だめだ。最初の一文から、この推理に聞く価値がない事が分かってしまう。辛い。百地刑事が一生懸命、自説をペラペラ喋っているが、もはや耳に入って来なかった。
「——『どう? 気持ち良かった? いじめて欲しかったんでしょう?』そう言って、真理亜さんは動かなくなった被害者を置いて現場を去ったのです。これが真実です」
私が何か言う前に「んなわけない」と言ったのは記録係だった。こんなアホな刑事と組まされて、この記録係も可哀想に思えた。
一通りやりたいことが終わったのか、百地刑事が衝撃的な言葉を口走る。
「まー、真理亜さんが犯人じゃないのは分かってんですけどね」
「…………は?!」
じゃ出せよ、と喉まで出かかって、ギリギリ食い止めた。
続いてやって来た後続の『ここまでの時間なんだったの?!』もかろうじて押し留める。
「ハル様の推理を聞いて、真理亜さんが犯人だとは思えなくなりました。残念です」
「じゃ出せよ!」
「だからはじめから真理亜さんを尋問するつもりは、これっぽっちもなかったんです」
「ここまでの時間なんだったの?!」
喉まで出かかっていた言葉は、結局全部出た。全部百地が悪い。
「私がそう思ってるだけで、捜索本部はまだまだ真理亜さんを犯人だと思ってるみたいですよ」
「ちっ」
「最初より口が悪くなってません? 真理亜さん」
誰のせいだと思っているのか。その柔らかそうなほっぺた引きちぎるぞ。
「私今、ハル様と一緒に事件の捜査にあたってるんですよ」百地が自慢げに言う。
なん……だと……!
こんな性格が悪くてアホな女とハルくんは組まされているのか? 可哀想……!
「私とハル様で真理亜さんの無実を証明してあげますよ。でも——」
百地が頬を染めて、色っぽい吐息を吐いた。
「——無実だけじゃなくて、ハル様と私の既成事実も証明しちゃうかもしれません❤︎」
私は机を蹴飛ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます