第12話 ライオンさんと同じかぁ……

 おかしいな、とハルは違和感に気付いた。


 小鳥のさえずる長閑な平日の朝。早朝というには遅すぎるが、学校に遅刻する程遅くもない。

 ハルにとってはいつもの登校時間だった。

 マンションのエントランスで、自分の部屋の番号が書いてある郵便受けを覗き込む。

 どうやらこれ以上の郵便物の取り漏らしはなさそうだ。

 手には先ほど取り出した郵便物が十数通。大体は真里亜宛てであり、時々ハル宛ての広告ハガキなどがある程度だ。

 他には水道料金のハガキ。

 電気料金の封筒。

 クレジットカードの請求書。

 その他広告やチラシ諸々。

 いつも郵便物を回収するのは真里亜なので、ハルは郵便受けなど気にもしていなかった。

 あのまま放っておいたら、郵便物が溢れていたことであろう。


 何故、ハルが急に郵便受けなどというものに関心を持ったのかと言えば、単に昨日、郵便局員が見知らぬ人の家の郵便受けに郵便物を入れる場面に遭遇し、「ああ、そういえば」と思い出したに過ぎなかった。

 思い出したにもかかわらず、その日の帰宅時、郵便受け前を通った際はすっかり忘れており、翌日の登校時——つまり今、ふと再び思い出したのである。

 学校に郵便物を持っていくつもりはなかった。単なる確認。どれだけ積みあがっているだろうか、という興味本位で郵便受けを開いた。


 郵便物を眺めていると、あれ、と小さな気付きがあり、次第にそれは何とも気持ちの悪い違和感に変わった。

 ハルが注目したのは、消印だった。

 消印には通常、郵便局が郵便物を受領した日付が書かれる。

 ハルのマンションの郵便受けはナンバーロックが掛かっているため、外部の人間は長方形の穴から郵便物を投下する以外は素手では中をいじることができない。

 そうなると、当然郵便受けに投下された郵便物はトランプのように順次重なっていくはずだ。

 その際、消印の日付は古いものが下になり、新しいものが上になる。

 日付の数字が小さいものが下になり、大きいものが上になる。


 消印日付は郵便局が受領した日付なので、発送元によっては前後することもあるが、あっても1日程度のずれとなるはずだった。

 それが自然だ。


 だが——


「日付がバラバラやないかーい」一人、小さくつぶやいた。恐怖を消すために出た無意識の独り言。



 ただの勘違いであってほしい。

 何かの間違いであってほしい。

 だが、そのような間違いが起こる状況など、ハルには考えつかなかった。それよりも容易に考えつく原因が一つあった。そして、それこそが、ハルが恐怖した理由でもある。




 安心を求めて、ハルはエントランスを出る。ここを出れば、彼女がいる。いつも通り、ハルを待っているはずだ。

 外に出ると、眩い光がハルを迎えた。


「おっはようございますぅ。ハル様ぁ❤︎」


 ダークブラウンのミディアムボブを揺らして百地ももちが飛び跳ねる。

 柔らかそうな頬っぺたがチャーミングなその童顔に加え、言動もやかましく幼い百地だが、スーツを身に纏えば、それだけで大人に見えるのだから驚きだ。

 百地を見て、ハルの恐怖や不安はスーッと引いていった。


「百地、変態」まだ少し残る動揺が、ハルの説明を舌足らずにさせる。

「だァァれが変態ですかァ! 人より少しだけ性欲が強いだけです」

「違う。変態! 変態が出た」

「出たというより、ずっとここにいます。1時間くらい前から待ってました」

「違うっつの! てか、どんだけ変態の自覚強いの?! 僕が言ってんのは百地のことじゃないから」


 ハルは事のあらましを百地に説明した。


「なるほど。ストーカーですね」

「はっきり言わないでくれる?! 怖いから『変態』って、言い換えてんのに」

「いや『変態』の方が怖くないですか?」

「『変態』は身近にたくさんいるから。百地とか」

「だァァれが変態ですかァ! 人より少しだけ性欲が強いだけです」





 ハルの手はまだ震えていた。

 ハルは中学の時に同じようにストーカー被害にあっていた。

 その時のストーカーが誰だったのか、ハルは知らない。

 ある日を境にパタンとストーカーが消えたのだ。

 ストーカーがいなくなったのは真里亜が「大丈夫だよ。何にも心配いらないから」と笑いかけてくれた翌日からだった。

 ハルは真里亜が何か働きかけてくれたのだと理解した。

 それからというものストーカー被害を受けたことは1度もなかった。学校や外で受ける女性からの熱のこもった視線を鑑みれば、ストーカーの1つや2つあってもおかしくはないと我ながら感じていたが、家に帰ればその類の輩は全くと言っていいほど現れなかった。

 おそらくだが、ハルが気付く前に真里亜が処理していたのだろう。郵便受けを確認するのはいつも真里亜だったから。



 しかしながら、今は頼みの綱の真里亜はいない。

 ハルの呼吸が少しずつ早くなる。息苦しい。苦しくて息を吸う。吸っているのに、さらに苦しくなる。

 自分を守ってきてくれた真理亜の不在。それはハルにとっては自分で思っているよりも、はるかに重大な危機だった。

 ハルは自覚していないが、真理亜はハルの精神安定に大いに寄与していた。



 不意にハルの手が、小さな手に包まれる。顔を上げると百地が優しい笑みでハルを見つめていた。


「大丈夫ですよ」


 そう言って笑いかける百地は、過去の真里亜と重なって見えた。

 ハルの呼吸が徐々に落ち着きを取り戻す。吸って、吐いて、吸って、また吐く。

 ハルは意識せずに素直に答える。


「うん。……ありがと」


 百地の手を握り返す。

 温かい。

 百地がいつもと違って少し大人に見えた。

 気が付けばハルの手はもう震えていなかった。



 もう大丈夫、と目で伝えると、百地は名残惜しそうに手を放した。

 ハルは「行こう」と学校に向け、歩き出す。百地もハルの横にピタリと寄り添って共に歩いた。



「でも、また密室トリックですか? 郵便ポストはカギが掛かっていたんですよね?」

「確かに鍵は掛かっていたよ。でも今回のは『トリック』なんて大げさなものでもないと思うな」


 ハルが言うと百地は案の定、よく分かっていないようで、首を傾げた。


「確かに素手では郵便ポスト内の物を回収するのは無理だよ。だけど、例えば釣り竿状の紐の先に丸めたテープをつけた物を用意すれば、簡単に郵便物を回収できる。現に郵便物の一部にテープを剥がした跡が残ってたし」


 百地は聞いてから、くだらないと思ったのか、あるいは見抜けなかったことが悔しかったのか、「ふーん」と薄い反応を返した。


「なんか子供の工作みたいですね」

「でも意外に探偵も使う手口なんだよ。跡が残らない特殊なテープでね。まぁぶっちゃけ犯罪だけど」

「最低ですね探偵」

「奴らは何気にグレーゾーンな連中だからね」


 探偵の情報収集は違法な手段を取る場合も多い。もちろんホワイトな探偵もいるのだろうが、グレーな方法に頼る探偵と比べると得られる情報の質は雲泥の差だ。


「なんで子供がそんなこと知ってるんです?」


 百地が呆れた顔でハルを見る。

 逆になんで刑事なのにそんなことも知らないんだよ、とハルも呆れた顔で百地を見た。


「それにしても、ハル様にストーカー行為を働くなんて最低です!」と百地が怒りをあらわにした。


「百地も僕の髪の毛拾ってジップロックに入れてたけどな」

「私のは愛のコレクションなんで」

「変態だ」

「違います。性欲の賜物です」

「セクハラを善行のように言わないでくれる?」


 ストーカー被害にあって、また別のストーカーに慰められたようなものではないか、とハルは複雑な気持ちになった。

 だが、少なくとも百地に対して恐怖は感じない。

 百地はハルを守りはしても、害することは絶対にない。

 そう言い切れる程には百地のことを信頼していた。

 調子に乗るので本人には言っていないが、ハルは意外にも百地を頼りにしていた。


「もし次、ストーカーが現れたら、百地がぶっ飛ばしてやりますよ」


 歩きながらシャドーボクシングを始める百地を、ハルは通行人の邪魔にならぬよう、スーツの肘辺りをつまんで引っ張り寄せた。通行人に「すみません」と謝るのも忘れない。通行人の女性が頬を染めて小さくお辞儀を返した。


「というか、郵便物を物色するほどのストーカーなら、後をつけられたりしていてもおかしくないと思うんだけど、百地何か気配とか感じなかった?」


 大抵の場合、登下校は百地が一緒にいてくれた。学校内でも授業中以外は百地がいつも横にいる。百地はこれでもキャリア組。優秀な刑事なのだから、何か気付いたことがあったかもしれない。そう期待しての質問だった。


 しかし——


「感じるわけないです」と言い切る。「気配とか、漫画の世界じゃないんですからァ」心底可笑しそうに百地は笑った。

 ハルをイラつかせることに関しては本当に優秀である。


「いや、刑事なら常に周囲を警戒して見ておくものなんじゃないの? ましてや百地は僕の警護任務中なんだろ?」

「百地はいつも前しか見てません。ライオンさんと同じです」


 ハルは内心『駄目だ、コイツ』と諦めの境地に至った。

 頼りになるのか、ならないのか。

 いや、ならないな。

 ハルが結論を出すまでに、そう時間はかからなかった。

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