第10話 国際探偵育成局

「ごめんね、こんな時間まで」と時雨しぐれは言った。

 雨の音と、ウィンカーの音とが重なって車内に充満する。

「いいよ、別に」ハルは助手席の窓越しに雨の街を眺めながら答えた。「それよりも時雨姉さんも酒飲めばよかったのに」

「私がお酒飲んだら誰がハルを送るのよ」

「別に一人で帰れるよ」

「ダメよ。男の子なんだから。夜道に一人では返せないわよ」


 ハルは困ったように眉を垂れて、「僕もう高校生だよ?」と抗議する。

 ——が、抗議むなしく、時雨は「あなたねぇ」と呆れた顔を返した。


「ハルみたいな子が道端歩いてたら、誰だって連れ去りたくもなるわよ」

「皆が皆、誘拐犯みたいなこと言わないでくれる?」

「それだけあなたが普通じゃないってこと」

「何言ってんだよ、どっからどう見ても普通の男子高校生でしょう」


 時雨が深いため息で、異議と呆れを同時に示したが、ハルは我関せずといった様子で、エアコンの風量を無断で弱めた。

 無言の車内は、打ち付ける雨の音でやかましく、そのせいか一層気まずさが際立った。ハルはなんとなしに時雨に目を向ける。

 車に乗り込む時に少し濡れたのか、緩く波打った黒髪は色っぽく湿っていた。ハンドルを握る手の指がパタパタとせわしなく動いている。ハルとの話題でも探しているのかもしれない。

 まるで落ち着きのない子供みたいだな、とハルは頬が緩んだ。


「真里亜はどんな様子?」ハルが沈黙の海に助け舟をだす。

「え? 真里亜? うーん。どうかな。私、真里亜の取調べ担当してないからな」

「何、まだケンカしてんの?」


 遠慮のないハルの問いに、時雨は苦笑して「ケンカじゃないって」と辛うじて返した。


「真里亜が警察を辞めてから、ずっと会ってないの?」

「……まぁね」

「なんで?」


 時雨は黙った。

 明らかに時雨はこの話題を嫌がっていたが、ハルは手を緩めない。

 それは、二人の仲違いは自分のせいだ、という負い目からでもあった。

 ワイパーの音が規則正しく沈黙を切り分ける。

 逃れられないと悟ったのか、やがて時雨は自ら語り出した。


「真里亜とはコンビを組んで仕事することが多かったの」

「知ってるよ。『時雨は几帳面だから私の相棒にうってつけだった』って真里亜いつも言ってたよ」

「ふふっ、真里亜は大雑把でポカばかりだったからね。でも、ここぞという時には必ず真里亜が捜査の最前線にいた。刑事として鼻が利いたのよね、あいつ」


 時雨が懐かしそうに微笑んだ。


「あなたが国際探偵育成局に送られそうになった時に、一人反対したのも真里亜だった。まだ記憶に新しいと思うけど、国際探偵員ミダスの告発があったじゃない? 国探局は子供の人権を侵害しているって。それもあって今でこそ国探局は運営停止しているけど、当時は国探局がどういうところかまだあまり知られていなかったのよ。でも真里亜は不穏な何かを感じ取ったんでしょうね。『ハルくんは絶対渡さない!』って凄い剣幕だったのよ?」

「単に僕と離れるのが嫌だっただけな気もするんだけど」

「そうね、実際ほとんどの人が同じように真里亜を責めた。……私も、ね」


 ハルは、辛そうな顔で話す時雨を見つめた。背中をさするようなハルの優しい視線に応じてか、時雨も力なく微笑む。

 時雨が意を決したように「私ね」と切り出す。罪を告白する罪人のような、苦渋に満ちた表情だった。


「一緒に警察をやめてハルを守ろうって言われたの。真里亜に」


 初めて聞く話だった。


 真里亜はあまり警察を辞めることになった経緯を話したがらないし、ハルもあえて詮索しようとは思わなかった。

 もしかしたら真里亜と時雨と3人で暮らしていた未来もあったかもしれなかったのだ。


 だが、時雨は断った。



「国探局はあなたにとって良い環境だと思ったのよ。ハルの知能はずば抜けてる。普通じゃない。だから、もっと良い環境で能力を活かすべきだと思ったの。……言い訳ね。ごめんなさい」

「別に僕は時雨姉さんを憎んでないよ。強いて言えば、僕を買い被りすぎてて少しムカつくけど」

「あはっ、ハルの知能については今も普通じゃないと思っているけどね」


 ハルは面倒くさくなって肩をすくめて聞き流した。


「それで?」

「それでって?」

「どうなったわけ?」


 時雨は悲しそうに笑った。

 自分自身を嘲笑うようでもあった。


「どうもこうも、真里亜の誘いを、ひどい言葉で断って、それからずっと会ってないよ」


 昔話はもうお終い、とばかりに時雨は唐突に話しを畳んだ。


「真里亜は私に失望したんだよ。だから、これはケンカじゃない。単に私が弱虫で、バカで、嫌われただけだから」


 時雨の悲しそうな顔をハルは見たくなかった。怒った顔の方がまだマシだ。

 そう思ったら、言葉が口をついて出ていた。


「バカなのは間違いない」

「言ってくれるわね。天才くんからしたら、そりゃそう見えるかもしれないけれど」

「能力の話じゃないよ」


 時雨は訝しげにハルを見た。じゃあ、何の話よ、と目でハルに訴えかける。

 ——が、ハルに答える気はなかった。


「面会に行きなよ」

「面会?」

「真里亜の面会」


 急に変わった話題に戸惑いながらも、時雨は答える。


「だから、私は取調べの担当じゃないんだって」

「取調べじゃなくて面会だよ。友人として、会いに行けば良い」

「無理よ」


 捜査員が容疑者に面会などできるはずがない。できるのは取調べだけだ。そのことをハルに伝える。


「それなら」とハルは言った。

 ハルは一歩も引かない。いつも目的に向かって真っすぐだ。


 真里亜に似てる、と時雨がつぶやく。


「僕が真里亜を外にだすから——」


 一粒の疑いもない。光に満ちた瞳が時雨を照らす。雨雲を貫く一筋の光のように、希望をもたらす目。それは時雨の心をも貫いた。

 ハルは言う。


「——そうしたら、真里亜に会ってくれるかい?」


 時雨は目を逸らした。

 顔をリンゴのように赤らめて、冗談めかした口調でかろうじて口を開いた。


「ハルが真里亜のヒーローになるってわけね」


 時雨が答えをはぐらかす。ハルは「ヒーロー?」と心底不思議そうに問い返してから、「そんなわけない」と笑った。


「知ってる? アンパンマンの顔は600トンの力がないと千切れないんだよ」唐突な話に時雨は「は?」と素っ頓狂な声がでた。

 

「バイキンマンに巨大な鉄塊ハンマーでたたかれてもアンパンマンの顔は少しへこむだけでしょ? とてつもない圧縮強度なんだよ。そこから計算すると、アンパンマンの顔を千切るには少なくとも600トンの力が必要なんだ」


 ハルのアンパンマン話の真意が分からず、時雨は口を半開きにして黙る。先程までのムードはアンパンマンによって既に破壊されていた。


「そうなるとアンパンマンの顔をかじるのも同程度の力が必要なわけだから、カバオくんやウサ子ちゃんの咬筋力もおよそ600トン以上あるということになるんだよ。カバオくんとウサ子ちゃんが半獣半人だとしてもそこまでの咬筋力は——」



「——待って待って待って。ストップ。ストーップ!」



「なんだよ。まだ説明の途中だよ?」

「何を聞かされているの、私は?! 結局何が言いたいのよ?!」


 時雨のほとんど嘆きに近い問い掛けにハルは静かに答えた。











「あり得ないんだよ」






 ハルは繰り返す。






「ヒーローなんてあり得ない。無償の愛なんて夢物語だし、ヒーローだって物語の中にしか存在しない」


 丁度ハルのマンションの前に車が到着した。

 ハルは助手席のドアを開けて、礼を述べる代わりに言った。


「僕はヒーローじゃない。僕の私利私欲のために真里亜を助ける。時雨姉さんは時雨姉さんのために真理亜に会いなよ」


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