第2話 私だけの骨

乾いた風が吹き抜けた。


陵墓を前に、私は諸葛亮どのと向き合った。月命日に供えられていた花が思い出された。今まで顔を合わせなかったのが不思議なくらいだった。


「どうして…」


「殿の骨が足りなかったので探していたのです。」


諸葛亮どのの言葉に私ははっとした。今まで何も言ってこなかったから、気づかれていないと油断していた。冷や汗が流れた。


諸葛亮どのは知っていたのだ。


「何故それを…」


私が呟くと、諸葛亮どのは白い道服の袂に手を入れた。香袋があらわれた。私のものよりやや大きい。香袋から諸葛亮どのが取り出したものを見て、私は息をのんだ。


それは人の、手の骨だった。


しかし指が四本しかない。小指の部分がない。つまりそれは…


「私もあの方の骨を持っていたからですよ。」


――私が噛みちぎった、殿の御手。


劉備殿の骨を持つ者が、他にもいたのだ。


「玉体の一部を持ち去ることは大罪だと分かっていましたが、あの方を偲ぶよすがが…あの方の一部がどうしてもほしかった。」


諸葛亮どのは淡々と続けた。言葉だけが頭上を流れていった。混乱して、すぐには理解が進まない。


白帝城での諸葛亮どのの姿が思い出された。憔悴し、覇気がなく、心ここにあらずだった諸葛亮どのの…


――だから切った。あの時。白帝城で。私とすれ違ったその後に。


私は眩暈を覚えた。


「どうかしていたのでしょうね、あの時の私は。」


すべらかな手の甲を諸葛亮どのは撫でさすった。恋人の手に接するように甘やかに。


「ですが私が切ったこの手には小指がありませんでした。何者かが私の前に持ち去ったのです。私はそれをずっと探していました。」


諸葛亮どのは私から取り上げた小指を、殿の手に合わせた。骨はぴったりと嵌まり、劉備殿の手は完全な形になった。


完成形になった殿の手を、諸葛亮どのは愛おしげに撫でた。


「三年の喪が明けるまでは、どうしても手放すことができませんでした。せめて服喪の間だけ。そう思って、殿の骨を手元に置いておりました。」


諸葛亮どのが劉備殿の骨を撫でる様子は、どこか艶めかしい風情があった。常日頃から撫でているのだろう。なめらかな表面には鈍い光沢があり、綺麗だった。


「切り取った時は夢中でした。実は貴方が居合わせていたことも覚えていなかったのですよ、子龍どの。最近になってやっと思い出しました。」


諸葛亮どのが、すっと顔を上げた。


「あなたが持っていたのですね。」


射るような目が私を見た。


「もうすぐ喪が明ける。お返ししなくては…。今日はそのために来たのです。殿の骨を、殿にお返しするために。」




お返しする。


その言葉が意味を持って認識された時、反射的に私は叫んでいた。


「嫌です!」


「子龍どの。」


「私は指切りをした。殿と、約束したのです。その骨は渡せない!」


私は諸葛亮どのから骨を取り返そうとした。しかし諸葛亮どのが容易に渡すはずがない。


諸葛亮どのの固く握られた拳をひらこうと、私は必死にとりすがった。草地を踏み荒らし、揉み合い、私たちは骨を巡って激しく争った。


その時、どうしたことか、諸葛亮どのの指の間から小さな欠片が落ちた。諸葛亮どのが小さく叫んだ。


――殿。


私は草地にひざまずいた。心臓が高鳴った。これを逃したらもう機会はない。早く。諸葛亮どのよりも早く。


奇跡的に、小さな欠片が指に触れた。草の間に隠れた小指の骨を、私は探しあてた。


――劉備殿の骨は、私のもとに帰りたがっている。


私は急いで香袋の口を開けた。


しかし次の瞬間、骨は私の手の中から消えていた。諸葛亮どのによって抜き取られたのだ。あっという間の出来事だった。奇術か妖術のような早技だった。


「孔明どの…」


私は草地に座り込んだまま諸葛亮どのを見上げた。


諸葛亮どのは小指を握りしめて俯いていた。頬にひとすじ、光るものが見えた。


声もなく、音もなく、諸葛亮どのは泣いていた。


「指切りをしたと言いましたね。」


ぽつりと諸葛亮どのが言った。


「殿とどんな約束を?共に天下万民のために戦おうと?あの方の言いそうなことです。」


「いいえ。」


そんなことではない。そんな、誰にでも言いそうなことではない。


――私の故郷で共に眠ろう、と。


言いかけた口を私は閉ざした。諸葛亮どのに、私たちの絆は分からない。


諸葛亮どのはしばらく俯いていたが、やがて吹っ切るように顔を上げた。


「…殿のところに行って来ます。あなたも来ますか?」


「……」


私が答えないので、諸葛亮どのは道服の裾を翻し、一人で陵墓の中に入って行った。


諸葛亮どのの白い道服が見えなくなるのを、私は座り込んだまま見送った。一匹の蝶が、ひらひらと飛んできてまたどこかへ行ってしまった。




陵墓の前で私は一人になった。


「ふふ。」


不意に笑いがこみ上げて来た。止めようとしても止まらない。忍び笑いは途中から哄笑になった。傍から見れば狂人の如き様だろう。


反対の手の中に、さっき拾った骨があった。まごうことなき、劉備殿の小指が。


私は骨をすり替えたのだ。諸葛亮殿が持って行ったのは劉備殿の骨ではない。


私の骨だ。


私は自分の小指をひそかに切り、肉が崩れ骨になるまで乾かし、この日のために取っておいたのだ。


「ふふ。ははは。」


劉備殿の小指として共に陵墓で眠るのは、私の小指。そして今この手の中にあるのは、私が愛してやまない劉備殿の、愛しい小指。


劉備殿は、私と共に在ることを選んでくれたのだ。


私は指が四本しかない手を広げ、香袋の中に骨をしまった。


首から下げると、心臓の近くで、小さな骨がからからと鳴った。


私は生涯、この音を聞き続けていくだろう。


私の命が果てる時、劉備殿も私と共に眠るのだ。




遠い日、劉備殿とそう指切りをした。




          (了)

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永遠(とわ)の指切り 胡姫 @kitty-cat

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