永遠(とわ)の指切り
胡姫
第1話 真心の証に指切りを
心に色があるとしたら、私の真心は真っ黒だろう。
それでも私ほど純粋にあの方を愛した者はいない。真っ黒な真心。真っ黒な純粋。
私は胸に手を当てた。心臓の近くで、常にからからと音をたてるものがある。戦場で、日常で、その音は絶えることなく乾いた音を奏でて私の心を癒やす。
それは骨だ。
あの方の骨。小さな、小指の骨。遠い日、笑いあいながら、あの方と指切りをした――
劉備殿が亡くなられた日のことは、昨日のことのように覚えている。
最期の地となった白帝城は、しんと静まりかえっていた。先刻までそこかしこですすり泣きや嗚咽の声が聞こえていたのに、今は静寂だけがあった。
室内には誰もいなかった。私は横たわる劉備殿の前にひざまずいた。色白の肌には生気がなく命の温かみが消えうせていたが、亡くなられた、という実感がまだなかった。
この世の息をなさらなくなった劉備殿の手に、私は口づけた。かつて指切りをした愛しい小指が舌先に触れた。私はそれに軽く歯を立てた。冷たかった。温かかった劉備殿のものとは信じられぬほど。氷のように。
私は小指を噛んだ。歯を立てて、力を込めて、想いを込めて。気がつくと小指は、私の歯で噛みちぎられていた。口の中に血の感触があった。
その血も、悲しいほど冷たかった。
もう温かくなることはないのだ。
「子龍どの?」
不意に扉が開いた。すうっと冷たい空気と共に入って来たのは、諸葛亮どのだった。
「何をなさっているのです。」
口調は厳しいが、諸葛亮どのは憔悴した顔をしていた。声にもいつもの覇気がない。私は劉備殿の手をそっと布の下に戻した。
「…殿に、最後のお別れを。」
諸葛亮どのが口を開く前に、私は何食わぬ顔で諸葛亮どののそばをすり抜けた。口中に小指を含んだまま。
私の行為に、諸葛亮どのが気づいたかどうかは分からない。私がしたことは死体損壊だ。それも尊い皇帝の御身の。儒教社会において許されないことである。どのような罰を受けても文句は言えない。しかし諸葛亮どのからは何の反応も返ってこなかった。諸葛亮どのも、いつもと様子が違っていた。心ここにあらずといった様子で、劉備殿の亡骸を見つめているばかりだった。
私は部屋を出た。
数日後、私は諸葛亮どのとともに棺を奉じて成都に帰った。葬礼は滞りなく行われ、小指は私のものとなった。
以来私はその小指を肌身離さず身につけている。やがて肉は溶けて崩れ、綺麗な骨になった。汚いとも怖いとも思わなかった。これはあの方の指なのだ。私と指切りをした小指。愛しいあの方の綺麗な骨。
ようやく手に入れた私の劉備殿。
小指は私の心臓の一番近くで、からからと乾いた音を奏でて私の心を癒やす。
服喪の期間である三年が過ぎようとしていた。
毎月二十四日になると、私は劉備殿の眠る丘を訪れる。盗掘を恐れ、陵墓の正確な場所はごく近しい側近にしか知らされていない。それでも月命日には花が絶えることがなかった。常に訪れる者が私の他にもいるのだ。しかし顔を合わせたことはない。
陵墓の前に額づき、私は首から下げた香袋を取り出した。中には肌身離さず身につけている小指の骨が入っている。遠い日、私と指切りをした指が。
――私は故郷を追われた身でね。
耳に蘇る、若かりし日の殿の声。
――いつかお前の故郷に、私を連れて行ってくれ。
――お前と共に、お前の故郷で骨を埋うずめるのも、悪くないかもしれぬ。
本気だったのかどうか、今となっては分からない。でもその時は本気だったのだと信じたい。指切りの指の感触を、私は今でも鮮明に覚えている。他愛ない、でも至福のひととき。
私の故郷、常山に、殿をお連れする夢はかなわなかった。
ひと目でも、故郷を見て頂きたかった。私の育った山河を、常山の冷涼な空気を知って頂きたかった。私の想いを知って頂きたかったのにかなわなかった身の、ささやかな望みだ。
ささやかな。違う。
劉備殿に捧げる私の想いはそんな生ぬるいものではなかった。それは肉欲を伴う暴力的な想いでもあった。戦場で、日常で、劉備殿がしなやかな体を私に預けて無防備な姿態をさらすたびに心臓が跳ねた。公孫瓉の陣で初めて会った時からそうだった。心も体も揺さぶられ、熱い肉が劉備殿に向かって迸ほとばしった。
恋の熱情のようなものだったのかもしれない。
夜毎殿を犯す夢を見ては、かりそめの悦楽と罪悪感に苛まれる日々が続いた。夢の中で私は殿の白い肌を啜り、しなやかな体を思うさま貪った。でも現実の殿は手の届くところにいるのに届かない。苦痛だった。滾る体をぶつけて、無理にでも知らせてしまおうかと思い悩む夜もあった。
でもそうしなかった。劉備殿を慕う他の男と同じにはなりたくなかった。劉備殿に肉の欲望を持つ者は多く、何度も危ない目に遭ってきたのを私は知っている。そして劉備殿は欲望の対象にされる自分を、意図せず男を惹きつけてしまう体を嫌悪しているように見えた。
渇望を押し殺し、劉備殿に邪な危害を加えない唯一の者として共に在る道を私は選んだ。誰よりも誠実に。忠実に。殿の傍にいるために。それでも。
一度でいいから、あの方の白い肌にこの身を重ねたかった。熱い想いをあの方の中にぶちまけて泣かせたかった。身も心もひとつに溶け合い、あの方のすべてを私のものにしたかった。
そんな私の邪な想いなど知らず、劉備殿は逝った。
私の頭の中で夜毎組み敷かれ、しなやかな肢体を凌辱されていることも、考えつく限りの卑猥な体位をとらされていることも知らず、綺麗なままで。
優しくて、温かくて、残酷なお方。
「故郷はお見せできませんでしたが、これからのこの国の行く末を、すべてあなたにお見せします。」
誰よりも美しく艶めかしく、皆を魅了した劉備殿の肉体はもはやない。
小さな骨と自らの指を絡ませ、私は指切りをした。
「あなたと共に、これからもずっと――」
「やはり貴方でしたか。子龍どの。」
不意に声がして、背後から長い指が伸びて来た。
ぎょっとした。虚をつかれた私はとっさに骨をしまうことができず、大切な骨は長い指によって取り上げられた。
「あっ……!」
私は声を上げた。取り上げた骨を眺めながら私の背後に立っていたのは、諸葛亮どのだった。
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