9 黒谷さんと俺

第47話


「おはよ」

「おはよう、黒谷さん」


 昨日、メッセージを無視してしまったことで気まずくなってしまうかと思ったが黒谷さんはいつも通りの笑顔を俺に向けてくれた。人付き合いの苦手な俺にとってかなり緊張した瞬間だったが、もしかしたらギャル同士ではよくあることだったのかもしれない。


「昨日、忙しそうだったじゃん?」

「えっ?」

「だって、いつも通話してくれるのにさ。なんか見たいテレビでもあったの?」

「あ〜、うん。まぁそんな感じ」

「ふーん。空くんってテレビとかみるの? くだらないとか言いそうなのに」

「おいおい、揶揄うなよ」

「へへ、昨日私を待たせたお返しだよ〜」

「ごめんって。そうだ、黒谷さん。今日の調理実習サボるなよ。俺もサボんないからさ」

「え〜、どうしよっかな」

 絶対にサボらないくせにわざと俺を動揺させようとする悪い笑顔、悔しいけれどめちゃくちゃ可愛いので動揺せざるを得ない。

 駅に向かう俺たちとすれ違う小学生たちに「カップルだ〜」と囃し立てられ黒谷さんは俺の顔を覗き込むのをやめた。

「4人班、1人減ったら大変だろ。真面目組がさ」

「真面目組?」

「秋田さんと岡本くんだよ。あの2人、俺たちと違って皆勤賞組だろ。くじ引きとはいえ迷惑はかけないようにしないと」

 黒谷さんならまた「どうしよっかな〜」とか「空くんが私の分もやってよ」とかそういう感じで揶揄ってくるのかと思ったが……

「わかってるよ」

 と不貞腐れた返事がそっけなく戻ってきたのみだった。やっぱり、昨日通話をしなかったことを怒っているのだろうか。

 俺は黒谷さんのことが好きなのに、恋愛経験どころか人付き合いもまともにしてこなかったせいでこういう時にどんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。

「帰りに……肉まん。な」

 なんて絶対に不正解のセリフが口から出て、すぐに後悔する。

「空くんってほんとわかってないんだから」

 照れたような怒ったような顔で言われ、俺はさらにパニックになる。黒谷さんがわからない。大好きなのは変わらないけれど。


 駅の改札の前に着くと、いつもとは違う異様な雰囲気に気まずかった俺たちは顔を見合わせた。

「まじ?」

「なんだ……これ」

 改札前に溢れる人、人、人。奥の方では駅員さんなのかが叫んでいるのが聞こえた。

「調べてみるよ。あっ……ひとつ前の駅で人身事故だってさ。うわ〜まじかよ」

 調べたスマホを黒谷さんに渡すと彼女も「うげぇ〜」と顔をしかめた。この駅は乗り換えなどがない小さい駅なので、人身事故などが近くで起こると、人が掃けずにどんどん溜まっていくのだ。

 大きい駅ではないからこそ「閑静な住宅街」として人気だったりするので人は多いからホームに入場規制がかかるのだ。

「並びますか」

「え〜、サボっちゃダメ?」

「だめ、そもそも調理実習はサボるなって言い出したの黒谷さんだろ」

「そーだけどさ〜、鮨詰めは勘弁だよ。タクろ」

 とタクシー乗り場を見てみると、そちらも既に大行列。待機のタクシーはいない。その上、俺も黒谷さんも金欠じゃないか。月末だぞ。

「タクシーも行列だな……、チャリでいける距離でもないし。並ぼう」

「はーい」


 渋々俺たちは改札を通ると入場規制の列に並ぶことにした。サラリーマンにOL、学生……いろんな人がいまか今かとホームに入れるのを待ち、近くでは必死に遅刻することを謝る社会人やサボることを決めたのか並ぶのをやめる大学生などもいた。

 しばらく待っていると俺たちもホームへやっと入ることができて、今度は電車のドア前の列に並んだ。ちょうど俺たちは一番最後尾。

「これ、押し潰されちゃう系だよね?」

「だな……黒谷さん。女性専用車両行く?」

「いかない

 と最後尾の女性専用車両の方を見ると彼女は首を横に振った。

「だな。じゃあ我慢っすね」

 俺は周りを見渡してみるが幸い男性は少なくこのまま乗れれば黒谷さんがチカンや盗撮の被害に遭うことはないだろう。潰されて死ぬかもしれないけど。

『列車が到着します』 

 駅員さんのアナウンスの後、電車がいつもよりもゆっくりホームに入ってくると、電車の中は既にぎゅうぎゅうだった。そこに俺たちが無理やり体を押し込むように入り込んでいく。

「失礼しますよ〜鞄を前に抱えて」

 ドアの列最後尾だった俺と黒谷さんが駅員さんにぎゅうぎゅうと押されて、無理やり電車のドアを閉める形で電車に乗り込んだ。黒谷さんはドアと俺に挟まれるような形でびっくりするくらい顔が……近い!

「空くん、バッグ痛い」

「ごめん、おろすわ」

 俺は黒谷さんと俺の間に挟まっていた俺のバッグをゆっくりと足元におろした。そのまま肘と手首を同時にドアにくっつける形で押される体を支えて「壁ドン」的な形で黒谷さんの空間を確保する。

 蒸し蒸しとした初夏の車内、黒谷さんのシャンプーの香りが俺の鼻を掠める。視線を合わせたらキスしてしまいそうなくらい近くて、それでももう顔を動かせるほど車内に余裕はない。

「黒谷さん、ごめん。着くまで我慢して」

「大丈夫、痛くないし」

「そうじゃなくて……近い、から」

「うん」

 俺は非力な筋力で電車の揺れに耐えながら、できるだけ黒谷さんに負担のないように気遣う。目の前の黒谷さんも顔を真っ赤にしていたし、彼女の太ももが何度か俺の足に当たって正直色々な意味でヤバい。

『次は〜』

「お、次降りれるな」

 学校の最寄駅のアナウンスが流れて俺は一安心。しかし、直後に電車は大きく揺れた。急ブレーキを踏んだようで車内でぎゅうぎゅう詰めになっている人が一気に揺れる。

「危なっ」

 俺も周りの力に負けて左右に動かされると、黒谷さんがぎゅっと俺に抱きついて踏ん張った。

 意図的に背中に回された細い腕、ぎゅっと俺の腰あたりを掴んでいる手、胴体にぎゅっと押し付けられる女性特有の柔らかい感触と壊れてしまいそうなほど華奢な体……咄嗟に俺も踏ん張って窓に手をついてバランスを取る。

 なんとか2人で転ぶことは回避し、電車も止まったことで揺れもおさまった。

「黒谷さん、平気?」

「平気じゃない……かも」

 抱きついたまま、彼女は言った。黒谷さんが怪我をしたんじゃないかと心配したが、彼女が大丈夫じゃないと言った意味を俺も理解する。


——抱きついた状態のまま動けなくなった。


 ひっついているところからお互いの心臓の音が聞こえそうなくらいドキドキで、俺に限っては嫌悪感を抱かれないためにも、スケベなことを想像して反応しないようにしなくちゃいけなくて……。


『緊急停止中、ホームにて緊急停止ボタンが押されました。安全が確認できるまでしばらくお待ちください』




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