第20話
「ごめんね、チャイムなっちゃった」
秋田さんがか細い声で言った。
彼女をおぶって慎重に階段を降りた後、今いる場所とは反対側にある医務室に向かって歩いている途中に授業開始のチャイムがなってしまったのだ。
「いいよ、別に。いつもサボってるし」
「そうなの?」
「そう、俺みたいなぼっちでも授業はサボるんですよ。純粋な秋田さんにはわからないかもだけど」
「えへへ……」
いつもより弱々しい「えへへ」にちょっとドキッとしつつも、俺は医務室の引き戸を器用に足で開けた。
医務室に入るとすぐに養護教諭がいるはずだが今は不在のようだった。検診用のソファーには「すぐに戻ります」と書かれた可愛らしい立札が立てられていた。
「先生を待とうか」
「うん」
「ソファーに下ろすよ」
立札がない方のソファーに秋田さんをそっと下ろす。
「重かったでしょ?」
「いいや、そんなことないけど……人間をおぶるの初めてだったからわかんないかも」
「ふふふ、鮎原君ってお話すると面白いよね」
「そうかな?」
「普段は物静かで真面目っぽいのに結構おサボりしてるんでしょ?」
秋田さんにうるうるの瞳を向けられると嘘がつけない。黒谷さんとは違う意味で表情の変わる瞳だ。秋田さんは黒谷さんが近くにいるせいであまり目立たないがとても可愛らしい女の子だと改めて認識した。
「ははは、そうかも。秋田さんは部活にも勉強にも真面目だよね。俺、朝練とか起きられないや」
「モカってさ、真面目に見える?」
「うーん、英語で余ってた俺に声かけてくれたり、さっきだってこのバレーノート運んでたんだろう? ってことは昼休みも頑張ってたんだろうし」
言葉には出さなかったが、頑張る彼女は完全にデフォルメされた犬のように見えている。人懐っこい感じもうるうるした瞳ももはや尻尾なんか生えていそうなくらいだ。
「そっかぁ、嬉しいなぁ。えへへ」
「先生、遅いね」
「うん、忙しいのかも」
「足、まだ痛い?」
「捻っちゃったみたい。うぅ……」
右足をさすりながら申し訳なさそうに眉を下げると、可愛らしいため息をついた。チラリと見えた腕は青あざだらけ、よく見ればジャージから見えた足もあざがいくつもあった。
俺の視線に気がついたのか秋田さんは
「モカはリベロだからあざ、すごいでしょ」
とめくって腕の内側についた大きなあざを見せてくれた。バレーボールをテレビで見ることは少ないが練習が厳しそうなのは何となく想像がつく。
鬼コーチがわざと床にボールを叩きつけるように打って、拾えないとわかっているのにレシーブしに行き、泣くまでやるようなそういうシーンだ。
「大変……なんだね」
「うん。けど将来のため……だし」
「将来?」
「うん、うち兄弟多いんだけど……えっと5人。それでねモカは長女で一番上なんだよね」
秋田さんがなんとなく面倒見が良くて視野が広いのに少し納得した。きっと家でも兄弟の面倒をみているんだろう。
「言われてみればお姉さんムーブしてるのかもな」
「えへへ……。だからね、モカは進学とかするのに無駄にお金はかけられないんだよね」
「なるほどね、じゃあ強豪って言われるバレーチームで頑張ったりして推薦狙い?」
秋田さんは少し恥ずかしそうに笑った。
「ううん、もっと先のことだよ」
「え? どういうこと?」
「バレー部でさ何でも雑用引き受けて……先輩たちに可愛がってもらってできれば部長か副部長になって……指定校推薦とかで大学に行く。それでできれば大学でもバレーをやるの」
「バレーボールの選手になりたいとか?」
「ちょっと違うかな」
えへへと笑った彼女だったがどことなく哀愁が漂っているような気がした。
「違う?」
「うん、おんなじスポーツをね。ずっと頑張ることって就職活動で有利なんだって」
就職活動といえば、大学4年生がリクルートスーツを着て大勢で行うあれのことだろうか。毎年ニュースで大きな会場に集まる同じ服の大学生たちを「フレッシュ」と報道しているのを見たことがある気がする。
「そうなんだ……。でももう大学のこと?」
「だって、モカたちもう15歳だよ? 人によっては働いているし一人暮らしだってできるんだよ? でも高校に来てるってことはさ頑張ってもっといい会社に入るためでしょ?」
「ま、まぁそうかも?」
「でも、モカはお勉強が苦手だから……部活をしっかり続けてそっちの道で進学とか就職とかの武器にしようって思ってるんだぁ」
「しっかり者なんだな、秋田さんは」
「えへへ、えらい?」
まるで誉めてほしい犬みたいにこちらを見てくるので、頭をなでなでしたい衝動に駆られる。……が、もちろんそんなことはできないので言葉で返事をする。
「えらいと思うぜ。俺、一人っ子だし……兄弟のためとか家族のためとか考えたことなかったよ」
「だから、英語の授業で助けてくれる鮎原君には感謝してるんだぁ」
「そんなに勉強が苦手?」
秋田さんはへにゃりと笑うと後頭部を掻いて、困り顔になる。
「お勉強はさ、頑張ってもなかなかなんだよねぇ。うちは塾に行くお金もないし……だったらモカはモカの得意を活かそうと思って」
「得意? バレー?」
「ううん、バレーは好きだけど得意なのはちょっと違うかな」
チラリと時計を確認すると、もう授業開始から10分が過ぎていた。とは言っても次の授業はLHRなので支障はないだろう。今回は秋田さんが怪我をした緊急事態だし、教室に戻るにしても荷物を取りに行くにしても彼女は動けないのでどちらにしろ俺がここで待機していた方が良いだろう。
保健室は他の教室とは違って独特な清潔感のある匂いがするのであまり落ち着かないが、今は休んでいる生徒もいないとか俺と秋田さんの声以外はしない。養護教諭の趣味なのか可愛らしいインテリアや小物が飾られ、救急箱にもクマのシールが貼られていた。
「鮎原くん?」
「ごめん、保健室やけにかわいいなって思ってさ」
「あぁ、保健の前川先生が可愛いもの好きなんだって」
「なるほどね、って秋田さん保健室の先生とも仲がいいの?」
「うん、保健委員だし……それにね。さっき話してたモカが得意なことなんだ」
「えっ? 得意なこと?」
「そう。モカはね小さい頃からどんな人とでも仲良くするのが上手だって言われてたんだ。だから、お勉強ができなくてもスポーツとか委員会とかそういうのを頑張って兄弟たちを困らせないようないい会社に入る努力を一生懸命しているんだっ」
俺の方を見て「えへへ」と笑った彼女を見てドキッとした。秋田さんは人懐っこくて一生懸命で誰にだって優しい子だと思っていた。
いや、実際そうなんだか実は俺なんかよりもずっと大人で少し打算的でそれでいて自分の武器を最大限に利用しているんだ。毎日部活を頑張っているのも、委員会を頑張っているのも、すべて彼女は未来の自分のためにただひたすらに努力をしているんだ。
俺や黒谷さんは割と行き当たりばったりでも自分達さえ良ければいいかな? と考える節があるが秋田さんはその真逆だ。
普段はふわふわで小さくて頑張り屋さんな彼女の大人な一面を見てしまった俺は急に2人っきりで話している状況にドキドキしてしまう。
——ギャップ……萌え?
普段はクールで2人きりになると可愛らしい一面を見せる黒谷さんとは逆のギャップ。
「だから保健委員を頑張って2年生になったら生徒会の衛生委員に立候補するんだぁ。養護教諭の前川先生と仲良くするのは推薦とかそういうの……えへへ〜」
俺は彼女の「えへへ」に色々な感情が隠されているような気がしてならなかった。けど、どうやら秋田さんは俺については良い印象を持ってくれているらしい。
「先生、遅いね。俺、職員室に行ってみるよ」
「わかった。ありがとう鮎原くん」
「あぁ、気にしないで」
秋田さんを残して保健室を出ると、俺は職員室に向かって歩き出した。
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