第9話
朝、こんな気分になったのは初めてだ。
学校に行きたい。そんな風に思ったのは小学校いや幼稚園以来だろうか。昨夜、黒谷さんから念押しのメッセージが来たせいでほとんど眠れなかった俺はほぼ満員の電車の中で少し居眠りをして、いつもよりも少し遅く教室にたどり着いた。
「鮎原君、おはよう」
「あ、おはよう」
俺に声をかけてくれた後ろの席に男の子……名前はなんだっけ。彼は何も悪くないが、自分が返事をした後に呼ばれる彼の名前に意識が行かずにまだ覚えられていない。
いつも通り、イヤホンをつけて席につき朝のHRが始まるのを待つ。黒谷さんも珍しくもう教室にいて彼女はギャル仲間たちと朝ごはんを食べているようだった。
「おはよう」
俺に声をかけてきたのは汗だくの秋田さんだった。彼女は部活に入っているのかジャージ姿で大きなスポーツバッグを肩から下げ、息を切らしている。彼女が小柄なせいもあってすごく大変そうに見える。
イヤホンを片方外して挨拶を返す。
「おはよう」
「私汗臭いかなっ? 大丈夫かなっ?」
パタパタと焦ったように足踏みをする彼女に俺は
「そんなことないよ」
と伝えてすっとイヤホンを耳に戻した。彼女は安心したように胸を撫で下ろすと席についてバッグの中から取り出したお茶をごくごくと飲んだ。
チャイムと同時に担任教師の牧田が教室に入ってくると生徒たちはバラバラと席に着く。もちろん、黒谷さんもだ。いつも通り、牧田が出席を取り始めると教室は少し静かになる。
「黒谷さん」
「はい」
「あら、今日は早いのね」
「センセ、遅刻ばっかりしてごめんね」
「進級できなくなってしまうから気をつけなさい」
「はーい」
牧田すらも黒谷さんの謎の魅力に当てられているようでフッと笑顔になった。なんというか、黒谷さんは本当に猫みたいだ。普段は引っ掻いたり無視してくるのにたまにこうやって懐いているみたいに可愛い顔ににこっと微笑まれると誰だって心を開いてしまう。
「(黒谷)おはよ〜、今日の国語の授業のサボりだけど4階の西棟に集合ね」
黒谷さんはHR中なのにメッセを送ってくる。無論、俺もそれを見ているのだが。
「(鮎原)了解」
短く返事だけ返してスマホをそっと裏返す。
4階の西棟か。一度移動教室で通ったことがあるがあまり行かない場所だ。というもの俺たち1年生の教室は4階の東棟にある。西棟は主に専門教室(音楽室や理科室など)があって、選択授業の少ない1年生はあまり近寄らないのだ。
「みなさん、今日の帰りのHRではご家庭に持ち帰ってもらうプリントがあるので必ず出席してください。では朝のHRは終了にします。号令」
日直の人が号令をして、朝のHRは終了した。
俺は国語総合がある5限までソワソワしたまま過ごすことになった。
***
約束の時間、昼休みが終わる頃に西棟の4階にたどり着いた俺はその閑散とした廊下に少し驚いていた。他の学年の人がちらほらいたものの、クラスが多い東棟に比べると雲泥の差だ。
「空君、こっち」
俺は黒谷さんの声に振り返ると彼女は一際小さな扉から顔を出していた。普通の教室にある扉を上下半分にしたような……かがんでやっと入れるような大きさの扉だ。
【茶道部部室・茶室】
「はやくはやく!」
小声で黒谷さんに急かされて俺は左右を確認し、誰も見ていないことを確認してから茶室へと入った。そういえば、茶室の出入り口は小さいんだっけ。歴史か何かの授業で習ったような気がする。
俺が茶室へ入ると、黒谷さんはパチンと扉の鍵を閉め「ふぅ」と大袈裟にため息をついた。
茶室は小さな扉からみてわかる通り学校とはかけ離れた内装だった。ふわっと広がる井草の香りはどこか落ち着くし、障子からは暖かい日の光が漏れ水場はまるで高級ホテルのような重厚感のある石造りだった。
「うちの学校ね。茶道部が有名なんだって。だから全部特注で内装も本格的に作っててね。ここで試験をしたりできるくらい……って先輩の受け売りだけど」
「確かに、このヤカン? みたいなのとかテレビで見るようなやつだな」
ドラマなどで流れる茶室でのシーンに出てくるような茶色の重そうなヤカン? いや、正式名称がきっとあるんだろうな。
「畳もいい感じだよねぇ、座布団もあるから寝っ転がれるし」
「黒谷さん、ここの鍵どうして」
「先輩から借りたんだよ〜。茶道部の部長さん、たまたまサボってこの辺を歩いてる時に彼女がここに入り込むの見ちゃってさ〜。仲良くなったんだ」
「へぇ……それで」
「で、サボり仲間の空君にもシェアしちゃおうと思って」
「おいおい、俺を勝手にサボり仲間にしないでくれよ」
「じゃあ、真面目君?」
「別に。けど、学校辞めるまでは面倒事は起こしたくないってだけ」
「時間はあるし、お互い色々話そっか。なんてったって50分もあるもんねぇ」
黒谷さんは左側の障子だけ開けると日が当たる場所に座布団を引いてぽふっと寝転んだ。短いスカートでなんて無防備なと思ったが、黒谷さんがあまりにも気持ちよさそうに目を閉じたのでなんというか俺まで気が抜けてしまった。
座布団を押し入れから出して俺は少し離れた場所に敷いてあぐらをかく。今頃みんなは昼休みの終わりに退屈な授業を受けていると思うと、なんだか優越感を感じた。
「こっち、きなよ」
ぽんぽんと畳を叩くと黒谷さんが寝転がったままこちらをみて微笑んでいる。
「え?」
「ここなら障子開けてても同じ階から死角になってるから日向ぼっこできるよ」
「いや、そうじゃなくて」
「嫌ならいいけど」
「行きます」
俺は素直に座布団を彼女の隣に敷くと寝転がった。ここは天国かというほど気持ちがいい。学校とはかけ離れた畳の空間で、俺の隣にはガクイチ美女が寝転がっている。
「で? なんで空君は学校辞めたいのかな? 聞き逃さなかったよ。私」
そういえば、さらっと暴露してしまったことを思い出して俺は激しく後悔する。
——万が一、黒谷さんとこのまま仲良くなれたら?
——高校が思った以上に楽しかったら?
今日の朝、学校が楽しみだったようにいつか学校を辞めたくないと思う日が来るかもしれない。けれど、それと同じくらい今までの辛い経験が俺にのしかかっている。
この葛藤を話すか?
いや、小中学校の俺のことを知ればきっと黒谷さんは俺を「キモい」と思うだろう。それだけは避けたい。嫌われたくない。
だから「学校を辞めるまで」なんて口走るべきではなかったのだ。
「その前に、黒谷さんが昨日言っていた後藤の何かを見ちゃったって話、聞きたいんだけど」
「あ〜、確かに約束してたね。いいよ、話してあげる」
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