第三夜 汝、思い出せ、ウコブよ
「ん那須さんっ!」
相当に気合いが空回りしてるみたいで、俺は冒頭から噛んでしまったが、この場はとにかく勢いで乗り切るしかない。
那須さんはこっちを向いてくれた。
でもかなり警戒されている。
そりゃしょうがないよな。だって今のところ俺は容疑者だし、ここまでの動きも充分に怪しかったもん。
でも、まずはここでちゃんと間違いを伝えとかないと。
「?穴きいおっとちゃみ、那須さん」
おや?
俺は想像以上に焦っていたのだろうか。
全然ちゃんと喋れていない。
いや、俺は喋ってるつもりなんだけど。
噛み噛みじゃないか。
まぁ次こそ気をつけてちゃんと一言一句、大切に伝えていこう。
「えったき穴じ濡れちしチン……あぐ那須さん……エロっ」
途端に顔を真っ赤にして目に大粒の涙を貯めた那須さんは右手で胸元を隠し、左手でスカートを器用に押さえたが、その右手を大きく振りかぶると俺の左頬めがけて盛大なビンタ。
あぁ、本気で殴られると人って本当に倒れるんだな。
まずは衝撃。それから火照りと熱。痛覚は後からくる。
通用口の下足場に倒れた俺に見向きもせず那須さんは歩いていった。
「ん那須さん、あどぅぬあぎっ」
情けなく伸ばす俺の右手が小刻みに震えて止まらない。
「おやどぅ、ぬいえったどぅなん?」
那須さんを怒らせてシバかれた痛みのせいじゃない。
ようやく俺自身が嚙んでマトモに喋れていない理由がわかった。
「!えれく、ぉやどぅなんぃあってぃ」
――ittai nandayo,kore!―
「!おえういあ」
――aiueo――
なんだよこれ!
俺の喋る言葉が逆回転してるっ!
おいおい、ミスター・ローレンスに頼んだ『巻き戻す』って、別にこういう意味で望んでたんじゃないんだけど。
そのくせに最初はちゃんと喋れてたじゃん。
俺はまだビンタの影響で通用口に倒れたままだったが、次の言葉を出す実験をせずにはいられなかった。
「いか!」
――aki――
「エロ!」
――ore――
「那須さん!」
――nasusan――
あぁ、そういうことね。ちゃんと喋れてた訳じゃないのな。
単に那須さんはどっちから読んでも『那須さん』なのか。
ひいき目に言っても、やっぱある意味、神。奇跡の子だな、うん。
喋る方法はなんとなくわかった。
ということは歌はどうなるんだろ?
なんか知ってる曲を一節、歌ってみよう。
「スデァゥルゼァハフ、ンナァンラァリィズ、オァクンネィ~~レェフィ」
おお! 親父が好きな、あの超世界的に有名な昭和のイギリス人バンドの雨の曲も後半の逆再生を完コピしているっ! これは少し気持ちいい!
いや、そうじゃないんだよ。
とにかく普通に喋ったら逆再生されるってことは、俺は全文を逆から読み上げないと相手に伝わらないってことだろ?
そう、それにこの一人称『俺』。こいつは禁句だ。
なんせ全部『エロ』になってしまう。
那須さんをドン引きさせてしまった理由はそれだろう。
「僕!」
――ukob――
よしよし。俺は今日からウコブと改名しよう。
危ねぇ、心の中で俺とか言ってると、油断してまたエロと言いかねない。
とにかく脳に刷り込まないと。
今日から俺は、僕だ。
なんか幼稚園の頃に戻ったような感覚。
僕!
僕は僕です! ウコブです!
よしよし。
「うぉれあく、あうぉうゅく、うぜあいろとぅ」
――toriaezu kyouwa,kaerou――
そう、とにかく今日は退散するに限る。
こんな苦々しい想いを二度もするなんて、今晩現れるはずのミスターローレンスに文句のひとつでも言ってやらないとな。
ひとまず手に持った教室の鍵も早々に教員室に返却しないと――。
「んぅん?」
そう言えば確かに俺は……あ、違う。僕ね。
僕は日直だったが、別に僕じゃなくても教室に出入りするチャンスは誰にでもある。だってあの日は誰かに鍵を貸したから。
「……えてぃさきそむ」
――mosikasite…――
そうだ。思い出した。
ミスターローレンスが巻き戻してくれたおかげで、俺……僕が忘れかけていた記憶も蘇ってきた。
あの日、この教室の鍵を触った人間はひとりじゃない。
容疑者は数人いる!
僕は記憶を辿りながら、元来た方向の教室に歩き出した。
~~~
教室にやってきた。
あぁ鮮明に思い出すよ。だって苦々しい一日だったもん。
この日、日直だったウコブこと俺はまず教員室に向かったんだよな。
全教室の開錠は朝七時すぎに用務員さんがしてくれる。
なので、日直は教員室に向かい、日誌と鍵を当番の先生から受け取る。
部活で朝練するスポーツ系の連中も居るが、教室は七時前は閉まってるので、奴らはそのまま更衣室か部室に向かう。
朝八時まで十分前くらいの頃。
俺が教室の自席でダラリとしていると、いくらかの生徒が登校し始める。
そして、朝八時ちょうど。
判を押したように決まった時刻に那須さんもやってきた。
もちろんこの時点で騒ぎになった記憶は無い。
まだカバンの中には今朝、自宅から持ってきた体操着もちゃんと入っていたのだろう。
そのうちに朝のホームルームと、一限目の授業が始まる。
俺は休み時間に黒板を拭いて、日誌もこまめに記入して、二限目まで終えた。
そして三限目の化学の前の休み時間。
あそこで事件が起きたに違いない。
いつの間にか無意識に僕を『俺』と呼称していたよ。いま辞めるって言ったばっかりなのに。
どうにも独り言に似た心の声って急に変えらんないよな。
なので、俺、もとい僕ことウコブはもっかいあの日の三限目に記憶を戻そう。
そう、あれはたしか――。
~~~
目を閉じて回想していたウコブがまた瞼を開くと、なんかいつの間にやら教室のドアの前に立っている。
掌の中にはキーホルダーのついた鍵。マスターキーじゃない。
各教室の日直が預かる鍵だ。
と言っても移動教室が無ければ、施錠するタイミングも無い。
黒板の一番右下にあるフックに引っ掛けておくだけで一日が終わる。
予鈴が鳴った。
クラスの連中はほとんど居なくなっている。
時計を見ると、だいたい十時半くらい。
「?ぁけむねぎずんなす」
――sanjigenme ka?――
今度は急にワープして、時間も三時限目まで戻った。
どうなってるんだ、この現象は。
もしかしてこれもミスターローレンスの奇跡か?
ふと教室内を見ると、那須さんの机は廊下の小窓からもよく見える位置だ。
あらら、慌てて化学室に行ったせいだろうか。
机に引っ掛けたカバンの口が開いてて、洗濯した体操着が丸見えじゃないか。
せっかく時間を戻したんだ。
出来る限りの犯行の芽を摘んでおけば、何事も無かった一日に未来が変わるかもしれないもんな。このウコブ様が善意で那須さんのカバンを閉めておこう。
そうやって彼女のカバンの中身には触れないように、そっとチャックをつまんだ時だった。上履きの音がして誰かが駆けてくる。
あれ、那須さん!
もう化学室に移動したんじゃないのっ!?
まさかトイレに行ってたとか?
「やだ、あたしの体操着に何してるの?」
那須さん明らかに引いてる。
辞めて欲しいんだけど怖くて近寄れないって感じだ。
慌てたウコブは物凄い勢いで釈明をしたもんだから、考えるよりも前に次の言葉をポンポン出す状態だった。
「おゆぁぎっ、あうこぶ、ったぎつ……エロっ!那須さん」
――nasusan! ore……chigatt,bokuwa chigauyo!――
しまった。また『俺』って無意識に……いてぇっ!
二度目のビンタ、いや、今日が初めてのビンタはさっき浴びた一回目の午後のビンタよりも痛かった気がした。
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