第4話 悪魔の囁きと悪意と弊害


毎日毎日3時間以上の拘束。


眠たい時にも、生理中で貧血の時も、真夏に暑くてのぼせている時も、マッサージの影響で手首が腱鞘炎で痛みがあると訴えた時でも。


常に疲労困憊。そこに彼の別の欲を満たす作業が含まれる。


寝ても回復できないほどの疲労が、自分でもわからなくなるほど溜められていく。


それでも彼の欲求を満たさなければ、満たすまで文句のように繰り返し囁き続けられる。呪詛めいた言葉を。


「俺はこんなにも頑張っているのに」


とかなんとか。


彼は自分を愛しているからこそ尽くし続けてくれていると勝手に思っていたようだけれど、そんな扱いをされていて「あたし、愛されているわ」なんて思える女がいるはずがない。


そんな形での愛情は承認できない。


彼に必要とされているから彼を甘やかしているだなんて、思ったことはなかった。一度だって。


疲れすぎているとなかなか眠れなかった。


当時は朝4時半起きが普通だったところに、なんとか気絶するように眠ったのが2時か3時。


彼の疲れを癒すものがあるとするならば、あたしの疲れや睡眠の確保は一体誰が? と何度も泣きながら眠りについた。


無理だ出来ないと訴えても、たった一日の休息ですら文句をつけてくるようになった。


「たった一日かもしれないけど、ケアをしない日があったら仕事に差し障りがあるとか思わない? 俺が稼げなきゃ、みんな生きられないのに」


正論だけど、正解じゃない。


自分だけで生きている人間が吐く戯言だと思いながらも、彼が作り上げていたその場所から逃れられなかった。


まだ、子どもたちが幼かったことと、自分の体調がよくない故に働けず、ある程度の収入がなかったから。


そんな生活を年単位で過ごした時期を経て、夜中に暴れる彼から逃れられず。


とどめを刺すことになった時期に入る。


彼に対して嫌悪感や恐怖感など、何とも形容しがたい感情を抱えながらそばにいた。


そこに至るまでに、あたし自身の右脚が原因不明の歩行しがたい状態になってしまい、自分への向き合い方や普段の態度に対してブチ切れた。


(あぁ。自分が動けない時には簡単に助けてというくせに、嫁が動けない時に支えたいと思うことも動くことも出来ないほど無能なのか。ここまで、ガキな成人男性がそばにいたのか)


そう思いながらした、はじめての反抗。


子どもたちの心に傷を残す出来事の一つだ。


その後の話し合いの末、書面にて改善してほしいことなどを書き出して、彼が努力をすることになった。


彼だけが今後も一緒にいたいと必死になった結果が、その形での再スタートとなったのだ。


自分が抱えていたことを告げなかったそれまでとは違って、明確に伝えたことで知ってもらえさえすれば変化してもらえるかも。


これまでの立場からの変化に、期待した。


それゆえにそれまで散々裏切られてきたのに、制約で雁字搦めにすることをせず、どこか彼を優先する項目を設けてしまった。


約束を交わすなら、自分にもっと優位な内容にすべきだったのに。


甘かった。ぬるかった。


それは失敗だったと痛感させられることが何度も訪れても、ハッキリと彼がすること何もかもが嫌だと伝えたら努力してくれると信じたかったのかもしれない。


そう信じる自分に酔っていた気もする。


再生しようとするあたしたちは、小耳にはさむようなダメになる夫婦とは違うはずだと。


でも、7年後になっても、こちらが求めるような変化は認められなかった。


彼自身は「俺って変わってきたでしょ? すごくない? がんばってるだろ?」と威張ってくるほど変化していると思っていたようなので、認識の温度差がいまいち理解しがたかった。


理解不能な彼のそばにいることに限界を感じ始めた時期に、自分が何かおかしいと思うことが少しずつ増えていく。

彼がいないのに、彼の声が聞こえた気がして振り向く。


隣に彼が寝ていない時ですら、彼がいる気がして触れられたと錯覚をして飛び起きる。


常に彼という存在やぬくもりに怯えるようになり、実際に彼が横に眠っている時には寝返り一つで体を強張らせるようになる。


体に触れられて、「嫌だといっていても、最後までしなければいいんでしょ?」と確認しながらギリギリの状態まで触れてくる。


そうしてこちらの躰が消化不良になった時に囁くのだ。


悪意ない誘いの言葉を。


「こんなになっちゃったけど、どうする? なにもしなくてママが困らないならいいけど。こんなになってて、大丈夫?」


あとはもう、わずかな行為で達せるところで「ヤメテモイイノ?」と誘うのだ。


躰が彼を拒んで、一つになった時には痛みも感じるようになっていたのに。


中から出て行ってと押し出そうとしているほどに、躰が開こうとしないのに。


無理矢理こじあける術を得ていたから。


一緒にいて、馴染んだ躰。


どこをどうすればいいのかだなんて、きっと簡単だったろう。


その歪な関係の中に、彼が思う和姦は存在しない。


あんなもののどこが同意とみなされるんだ。教えてよ、誰か。


セフレかなんかみたいだ。


金がかからなくて、一から開発する手間がかからない相手。


「……なんなの、これ」


吐き出したいだけ吐き出して、気持ちよく寝入る彼。


寝息を背に、重く吐き出す愚痴。


悔しかった。


何度も声を殺しながら涙を流した。


吐き気がしても、吐けない。モヤモヤしたままだ。


その感情を伝えても伝えても、二日もすれば同じことを繰り返してくる彼に、一体どんなニホンゴで伝えたら理解ってもらえたんだろう。


「あなたが抱ける、心も躰も繋がれる女はここにはいない」


たったそれだけのことが、伝わらなかったんだ。


「俺って頭はいいんだよね。顔は人並みだけどさ」


そう苦笑いしながら自分の見た目を下げながら、頭の良さをひけらかした人なのに。


どこが頭がいいのか、謎すぎた。


知識としての頭の良さは、人と人との間で生きるための頭の良さとは必ずしも直結しないことを、目の前の男で知る。


ずるがしこさ云々とかの頭の良さじゃないんだよ。


人として生きるっていう意味での必要な頭脳は。


経験値は限りなく初期値。


装備はせいぜい、鍋のふたとか3ゴールドで売ってるナイフくらいでしょ。


そんなもんで世の中、戦えやしない。


自分で戦いに行かなきゃ、経験値は勝手に入らない。


そんな子どもよりも子どもな彼が、夫婦としてやり直すことの本当の意味をわかっているとは思えない。


唯一守りたい存在だったんじゃないの? あたしは。


なのに、彼がしていることは逆でしょう。


あたしという、まるで母親のような存在に甘え、寄りかかり、時には許してもらい、自分を否定されない日々。


それのどこが修復するに足る日々なのだろうか。


「…………は」


重く、短いため息を吐く。


関係修復なんてする気は本当はなくて。


「きっと今回もママは俺を優先してくれて、最終的には以前と同じ関係に収まれるはず」


とか、ぬるいことを考えられている気がした。


結果、眠れる環境は家のどこにもなかった。


その後も何度かリビングのソファーでこっそり眠ってみても、そのたびに深夜に自分を暗闇の中で見下ろす存在に気づき、「ひっ……!」と声にならない声をあげることになった。


「どうしてそばで寝てくれないの。俺は何もママにしていないよな。昔みたいに寝ながら殴ったりしないじゃない」

と、ポイントがずれている話をされる。


見下ろされているその圧迫感に、呼吸が出来なくなる。


自分の心音だけが耳についた。


「あっちで一緒に寝てよ」


子どもの駄々みたい、それ。


うなずくでもなく、左右に頭を振るでもなく。何のリアクションも取れない。


「ほら」


返事を待ってもらうことすら叶わず、腕を引っ張り上げられて隣の部屋へと誘われる。


布団をめくり、彼の横にあたる場所を手のひらで二回布団を叩いて示される。


――――ただ、眠るということ。


簡単なことのはずなのに、それを許されることはなくなっていった。


そうして起きる、いろんな弊害。


揚げ物が出来なくなった。


揚げている途中で、立ったまま寝落ちするからだ。


いつ火事になってしまうかわからない、誰にも理解されない恐怖感を抱えて生きていた。


ならば、料理の内容を変えるしかない。


作れる料理が、一気に減ってしまった。


炒めるとか、その場でみんなで煮始めて一緒に食べる鍋や、刺身などの生もの。


たまに揚げ物が食べたいといわれても、自分で揚げられる自信がないものは作れない。


長女や次女に協力してもらい、ちょっとずつ揚げ物を任せていく。


久々に食卓にあがる揚げ物へのリアクションを見て、申し訳なさばかりが募った。


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