第2話 誰かを憎むキッカケは、すぐそばに


家族を守る側の先頭にあってほしい人が、一番最後尾で鼻歌を歌いながらまわりが自分を気づかってくれることを待っている。


ワンオペとはよく言ったものだと思う。


仕事が忙しいパートナーがいる場合もあるが、うちの場合は、彼が季節雇用で暇な時期ですらワンオペ上等。


こっちがインフルエンザで高熱だろうが、カップ麺のお湯を沸かして入れてよと言ってくる男なのだから、クズと呼称しても許されていいはずだ。


クズがそばで眠って、自分の睡眠時間を削ってくる。


そりゃ、睡眠負債が膨らむわけだ。


眠れずにいるあたしの姿を見てもなお、その原因を自分と思わない視野の狭さ。


取ってつけたように、「俺が。ママが寝るの邪魔しててごめんね」だの「自分のことを自分でやるように努力するから」だの、有言不実行のフラグばかり立ててくる。


よほど目が悪いのかと思った時期があった。


彼の目には一体何が映っているのか、と。


ふと思ったことがある。


彼はもしかして都合が悪いものが見えない特殊な眼球でも移植したのだろうか、とかマンガみたいな話を。


幼いころの彼が、母親からの愛情に飢えていたとはいえ、それはあたしには無関係だ。言っちゃ悪いけど、別枠。


奥歯のクラウンを噛み砕いてしまうほどにいろんなことを堪えながら、彼からぶつけられる欲求に応えていくうち、日常に違和感が出始めた。


直接的にその欲をぶつけられるなら、まだよかったのかもしれない。


とある時期から一年近く、眠らせてもらえない環境を愚痴ることすら叶わなくなる。


そのキッカケは稼ぎ頭のはずの彼が、元いた会社で仕事をしていた時に他社からの引き抜きめいた話を受け入れたこと。


契約時の話はいい話ばかりで、普段承認欲求が強かった彼には嬉しいことばかりだったのだろう。


収入の変化。しかも、結構な増額。就労環境。就職後のポジション。


自分がやってきたことがやっと認められた。


それは誰であっても嬉しいことだろう。


彼曰く破格の条件が、ちゃんと満たされていれば……の話だ。


上手い話には安易に飛びつくなと、我が家での社長との面談後に伝えたあたし。


本当に大丈夫なのか、と。


彼がいた業界が建築業で、それまでの契約は季節雇用という形態で。


春先には仕事が薄くなって一時期は失業手当を受け取っての生活という流れが、それまでの普通だった。


春という一番お金がかかる時期に、収入が一気に減ってしまう。


いつか正社員になれたらと言っていたのは知っているし、こっちもそれを願って支えていた。


が、あたしがなにをどう言っても、彼の中には入社するという選択肢しかなかった。


そうして、家計をやりくりするあたしの心配をよそに、就職。


そして初めての給料等を経て、半年にも満たないころに違和感が見られるようになった。


あたしが眠れない夜に突入する時期はそこから。


それは深夜、横で寝ている彼がうなされることから始まった。


数日おきがほぼ毎日へと増え、そのうち寝相がひどくなる。


と簡単に書いたが、寝相が悪いというレベルじゃなかった。


加減のないパンチやキックが飛んでくるのだ。


つい数時間前におやすみと普通に言ってた人が、顔をしかめながら駄々をこねる子ども以上の大きなアクションで。


あまりの酷さに、原因を考えてみた。


病気なのかとかストレスなのかとか。病気に関しては知識に乏しいので、病院に行くしかない。


とりあえずと思って、後者について本人に職場での状況を聞いてみることにした。


「最近、職場の方はどう?」


とかなんとか。ニッコリ微笑んで。


そう問えば何かに飢えていたかのような勢いで、興奮気味に吐き出せるだけ吐き出す彼。


待遇の違い、社長と上手くやれていないところに、奥さんでもある副社長との関わり合い方もが上手くいっていないこと。


仕事上のストレスは、当初の話にはない仕事が増やされたことが大きく。


内容でいえば、コミュ障の自分に無理に課せられる営業の業務が増やされたり……など。


見た目も営業向きじゃないし、人当たりもよくないというのに……と愚痴る。


本人からすれば、仕事に行くこと自体が無理だけど、収入を考えたら、せめて失業手当が受け取れる期間までは在籍していなきゃと堪えている、と。


「家族のために無理しなきゃと思っている」


と、家長としては当然のことを、どことなく押し付けがましく告げるのだ。


あたしの目をちらちら見ながら。


だから言ったでしょう? と言いたくなったのを飲み込み、布団の枚数を増やすことやあたしと別での就寝を頼んでみても、すべてを飲んでもらえず。


相談後あれこれ実行してみたが、布団の枚数を増やしても彼が横回転してきては、あたしが眠れる場所を布団上に与えてくれなかった。


転がるエリアが広がっただけ。


勝手にリビングで眠った時など、夜中に起きてきてぐずる子どもみたいに「横で一緒に眠ってくれないと困る」と頼み込んできた。


一日に切れ切れで30分か1時間眠れたら寝れた方だろうと思える生活だった。


そこに、彼の遠慮なしのパンチにキック。家庭内暴力じゃないかとわかるほどに、体のあちこちが痛んで、心身ともにボロボロだった。


その時期にはすでに睡眠負債は、貯まりはじめていたのだろう。


その生活から解放されたのは、彼が会社を辞めるに至ってからだ。


彼自身の不安を解消することが前提で、こちらの睡眠不足に打撲などの痛みなどを理解していても、「昼間に寝たらいいでしょ?」という免罪符みたいな発言だけであたしを優先することは一度もなかった。


(彼が悪いわけじゃないけど、悪くないわけじゃない)


とか、眠さでぼんやりする頭でそう考えて、彼の横で小さくため息をついた記憶がある。


そんな風に誰かだけを優先する生活が常態化して過ごしていくと、ちょっとずつ歪みが誰の目にも明らかになっていく日が訪れた。


普通に出来たはずの行動が出来ないことが増えていった。


そのひとつが、仕事だ。


仕事は市内で発行されているフリーペーパーを各家庭に配達するので、とにかく歩きまくる。


歩いている最中に、路上で寝る。


本人には意識はなく、がくんと落ちるようにひざを折りそのまま眠ってしまう。


また、仕事中以外でも自転車で移動中に、信号待ちの最中なのに自転車にまたがったままでの寝落ち。


そんなあたしを通行人が起こすことがあった。時には信号待ちのドライバーがクラクションを鳴らしてきたり。


配達の最中に寝た時は、他人の家の駐車場内でいきなりしゃがんだまま眠るので、驚いた家人が様子を見に来た。


裏通りで、電柱にもたれかかったまま寝たこともある。


配達の最中にそんな状態になるので、どこまで配達をしたのかがどんどん不明瞭になった。


記憶が混濁し、時にはインターホンを押して確認しなければならない時もあった。


仕事に支障が一定量出てしまった時点で、今は働くことが出来ないと認識した。


眠るという、当たり前のこと。


それが出来ないだけで、こんなにも日常が狂うのかと気づいた時は泣けた。


仕事もしたい。収入を得たい。自分勝手な都合や体調で仕事をしたりしなかったりで家庭を不安定な状態にしている人から離れたい。


彼と同じように家の中を不安にさせる原因になんかなりたくなかった。


子どもたちを守れない、このままじゃ。


彼が漏らす欲とは違うものが、自分の中から溢れていくのを止められなくなり、気づけば泣いていた。


ツライと言いながら。


彼が大黒柱のはずなのに、なぜこんなに自分にばかり責任が重くのしかかるのだ。


眠って、健康に過ごし、笑い、働き、家族を守る。一緒に笑うために。


そういうもんじゃないの? 夫婦って。


それだけの単純明快な話だろうに。


「出来ない。それっぽちのことが、叶わない。叶えられない」


胸の奥に重くて大きな塊があるみたいだ。


苦しい。


ただ、ただ、ツライ。


胸の奥のモノを全部ぜぇ…んぶ吐き出して、肩に乗っかっているモノのなにもかもを下ろせたら。


つらい。


辛い。


ツライ。


寝たい。


眠たい。


どろりと布団と一つになるほどに眠れたらいいのに。


夢も見ないくらいに、深く、深く。


目の下の隈を指先でなぞるあたしに「寝ればいいじゃん、家族のことなんか気にしないでさ」と簡単なことのように返してくる彼を心底憎んだのはその時だ。


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