エピソード52 新王アデル
どこか懐かしい香りが鼻腔をくぐり抜けた。それは故郷の農場や花畑の香りとは少し違っていた。少し思考を巡らせてから瞼を開く、この暖かな香りは普段、仕事で使うヴェール香を思わせるタンポポの匂いだった。目に飛び込んできたのは地獄や天国ではなく、煤で燻んだ豪華な赤と金色の装飾が施された天井だった。
「おお、ニル目が覚めたか?ご苦労だった。よくやったな」
ニルが上体を起こすと、ベットのある部屋は想像以上に狭かった。女性物のタンスや化粧鏡があるところを見ると、この部屋は十年前に亡くなったミストリナ王貴妃の部屋なのかもしれない。
「どうやら気絶したようです。あの後は特に問題は起きていないでしょうか、アデル王子、いやアデル閣下」
アデル王子が羽織っている赤のローブは新調された物のようでキラキラとした光沢を放っていた。ただ肩の部分だけに違和感のある古い質感の生地が縫われていた。紫と黄色のボーダーのあしらいが施されている。その生地はヴェール香と似た香りを漂わせているのだろう。アデルがローブをはためかせて腕を組んだ、その瞬間にタンポポの香りがニルの全身を包んだ。
「何、まだ二日しかたっておらぬから、お前は弱くはないぞ。心配無用だ。王城でルミナールロバートの脚が見つかった。奴の配下のエクソシストたちも皆呪いの紋様を体に刻んでいて、仰向けの姿で絶命していた。そして父上の面影が何一つない化け物の亡骸。その亡骸の肉には父のローブがめり込んでいたのだからな。流石にニルがやったとは誰も疑わなかったぞ」
ロバート司教と対峙している時には気づくことができなかった。司教を倒したとしても王が殺害された後なら、真っ先に国家反逆罪を疑われるのは俺だっただろう。
「亡骸?ボグトゥナの肉は消滅しなかったのですか?」
王子は目を見開いた。凛とした表情からはあどけない無邪気さの中に堂々した威厳も感じられる、なぜか日差しが差したような感覚が体に走った。
「そうか、それは不思議なこと、いやそうではないあり得ないことなのだな。フム、だが抜かりはないぞダージリン・ニルギル。すでにバチカンには報告を入れてある」
一度確認しておくべきだろうか。その他にもモナ・バートンの事件前にあったことやレジスタンスたちの現状、ストーナー・クレセントは無事なのだろうか。
「それは助かります。感謝を。もしかして今から王位授与式が行われるのですか?是非私のことはお気になさらずに公務にお戻りになられてください」
「そうだな、なぜここにアンデルセンや護衛の騎士たちがいないのか…ニルにはわかるかな?」
「確かに、目を覚ました後に彼らを退出させたわけではないですね。最初からいなかった。それが何か?」
父の真似をした子供のように腕を組んでいたアデルはスッと肩を落として。まっすぐとニルを見た。口を結んだ顔は亡霊だった父の顔に似ている。だが何かが違う。そして瞳の中心には小さな星のような光が浮かんでいた。
「この国を出た北の方にある農場で例の占い師がお前を待っている。僕は元々占いを必要としていないのだけどね」
雰囲気が一変したアデルの言葉をニルは頭の中で素早く反芻した。
「閣下はあなたの父上がいずれあのようになることを知っていたのですか?」
「ああ、理解していたさ。物心ついた時に、そうルミナール・ロバートとその取り巻きたちを始めてみた時には既に」
一体、どういうことなのだろうか、それなら自分の命が助かることも知っていたということになる。ニルはすぐに返答することができなかった。
「僕はこれまでは無力だった。今は少しばかり権力がある。まあ二十年くらいは安泰と言ったところかな。僕は明確に未来が見えたとしてもそれに従うことしかできないのだ。そして占い師から聞く話にもまるで希望はなかった。運命から逃れる術などはないのだ」
「では私があなたの依頼を受けることも知っていたのですか?」
「問題はそこだった。例の占い師、アステカ・テイラーも同じことを言っていた」
「何か、まだ問題が起こるとでもいうのですか?」
「私は父上の胃袋に収まるはずだった」
「では占いと未来予知が少し違ったということになる」
「私の未来予知には死がありそれが変わることはなかった。というよりかはすでに通り過ぎたから、修正されることなどはないのだろうと思っていた。だが占いはそうではなかった、占い師の言葉には救済の条件があった」
「それは日頃の行いだ。非常に大衆じみた考え方だろう?先月くらいからだろうか僕の精神状態は限りなく悪かった。先の未来がない、ということは一部の未来が見えない、そういうことだ、ある意味の喪失感があったわけだ、その喪失感や絶望感は二年ほど続いていたし、死の時が近づいていることも理解していた」
「ルミナール・ロバートの嫌がらせや国民と関われない虚無感は次第に心を淀ませていった。だが僕はひたすら子供であり続けた」
「ひたすら子供であり続けた?」
「もう私は人生を三周しているほどの時間を見てしまった。未来予知は人生の結末を何度も再生することはなかったのだよ。僕は随分と前から死の世界を見ていた」
そんなことがあり得るのだろうか。何度も自分の死を見ることがないだけマシなのかもしれないが、想像がつかない。
「一定の未来を見てしまうとまた同じ未来を見ることができないということ、でしょうか。では日頃の行いをよくするとは、一体」
「さあな、一度見た未来も少しずつ忘れていっていた。一年に見る未来は三年から五年。死の世界は十年分みた。ダージリン・ニルギル。お前が墓場の看守の依頼を受けて除霊を行なった同日。私の未来予知に歪みが起きていた。もちろん良い意味でだ」
「僕は過去に見た未来の通り、王子生誕祭の衣装合わせを行なっていた。鏡に映る僕の姿は、今よりも背丈が二十センチほど小さい頃にすでに見ていた。すでに時間は残されていなかった。そして長く積み重なっていた苛立ちは頂点に達しようとしていた。使用人が生誕祭で使うローブのケースを間違えていたのだ。僕は常にさまざまな事象に神経を尖らせていた。死に怯えているのではない、どこかに未来予知と違う部分はないだろうか、誰かが変えてくれないだろうか。そう思って今現在の時間軸の中で無限に期待をしていたのさ、そんな機会ももう無いだろうなと分かってしまったのさ。
「アンデルセンがルミナール・ロバートに叩きのめされた時も、最初はいい勝負だったんだ。結果は同じだった。僕の未来予知には欠けている部分が多い。何かが変わったと思った後、すぐに予知の通りになってしまう。使用人が衣装のケースを間違えていることは素直に嬉しかった。日々の中でのささやかな兆しだったとも言える。だからその衣装ケースが違う物だとは言えなかった。当然周囲の人間が気づいたら未来予知の通りに生誕祭のローブに着替えるわけだ、すぐにわかってしまったんだ。その時、ふとして何もかもを捨てて逃げ出したくなった。外の世界に逃げれば、全てから解放されるのではないかと思ったのだ」
「使用人は気づかなかった。そのままケースの中にあるローブを私に着せた」
アデルは言葉に詰まっているようだった。涙を堪えているようにも見えるが顔の紅潮などはなかった。
「その使用人は、未来予知で見た人間と全く同じだった。だが状況は少し違っていたのだ」
「彼女は生誕祭のローブを取り出す際に、1961年のタグがついたケースを見つけていたのさ。そのローブは母がオーダーメイドしたもので毎年身につけているものとほとんど見分けがつかない、実際に周囲の人間は気づかなかったのだ。生誕祭の衣装デザインが変更になることなど珍しいことではないのだが、確実に言えることは僕の未来予知とは大きな違いがあったのだ。黄色と紫色のパンジーを模したカラーのボーダーがあしらわれていたんだ。僕の未来予知では血を彷彿とさせる、真っ赤なローブが見えていた。本当に少しだけ違ったんだ。そのローブの一部は今来ている王のローブに移植してある」
「そして生誕祭の最中にテロ事件が起きた。そんなことが起きるはずがない。そう思っていたんだ。今日、死んでしまうのではないかと、そうも思った」
「だが、エクソシズムインセンスであるダージリン・ニルギルが現れた。しかもあろうことか君は母のローブに近い香りを纏っていたんだ」
「アデル閣下はエクソシズムインセンスについて少しご存知でしたよね。私のことは未来予知で知っていたから前もって知識を得たのではないのですか?」
「ああ、だから君を母の部屋で休ませていたのさ」
「母の衣装ケースの中に手紙があった。それに従って、この部屋の引き出しを見たのさ。テロ事件が起きる前に少しだけ見たことのない時間を僕は見ていた。まさに吉兆さ。この手帳は君に渡せと書いてある。受け取ってくれ」
「その手帳にはエクソシズムインセンスについての解説と、その力を持つものが現れた時にはこれを渡してくれと書かれていた。大体僕は頭に入れたから持っていってくれよ」
「運命が変わるからといてもだ、僕はお前に全てを任せて家に篭ることもできた、電波塔が崩壊した時もそうだ、王城に向かわずにどこかにこもっていたほうが安全だった。だが僕は実際に過ごした時間よりも遥かに長い時間待ったんだ。なるべく運命通りの場所にいるべきだ。そう思ったんだ。日頃の行いとは少し違うのだが。そう信じてみたのさ」
「ダージリン・ニルギル。君の銀色のライフルには君の体に合わせた肩当てと心ばかりの装飾を施してアンデルセンに預けてある。君の仕事道具をよく調べて全く同じものも用意した。僕の話を信じてくれるかい?」
「それは勿論、実際に母上が残した手帳に書かれた文字のインクは風化している。アデル閣下。今は未来が見えていますか?」
「ほう、それなりに見えているぞ。死の世界の記憶も残っているがな、次の未来予知はほど遠くない未来を映している、だが詳しい内容を教えることはできないぞニル」
「感謝を、あなたがいればこの国はより良くなっていくことでしょう。栄光と繁栄をお祈りしております」
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